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 六月十日、水曜日。竹河との一件から四日が経過した。

 全力で殴られまくってぼこぼこにされた傷……というより痣も、もうおおかた薄くなっている。とはいえ、いくらそういうものだとわかってはいても、肌の一部が緑だの紫だのに変化していく様にはやはり少し引くものがあった。

 週が明けての月曜日には、あんずを筆頭にクラスメイトたちにかなりの心配をされた。特別仲が悪いわけではないもののあまり話すことのない女子たちにも色々と気を遣われて、なんというか、この教室における自分のポジションをあらためて再確認できたような気がする。

 そんなことを考えている自分を見つめ直して、結局変わらないなと、他人事のように自嘲したりもした。

 ともあれ、火曜日にはもうみんな順応したようで、特に心配されるようなこともなく一日を過ごした。授業をしに来た教科担任の先生に二、三訊かれて、それだけである。

 この世界には、ひょっとしたら自動修正プログラムみたいなものがあるんじゃないかと、なんとなくそんなことを思った。たとえ誰かが苦しんでも、たとえ誰かが傷ついても、世界は自動的に——あるいは自律的に、いつも通りの日常へと修正されていくような。……そんな気がした。

 土曜の一件で俺が負った怪我なんて打撲による内出血ばかりで骨が折られたということもなく、日常生活に支障はない。俺の日常に支障がないのだから、他人の日常にも支障があるわけがない。俺たちの世界に影響はなく、何かが変わるでもないのだろう。

 ……いや。

 それでも、いくつかの相違点はあったか。

 

「おっはー、火宮ァ」

 

 そんな風に物思いにふけっていると、見知った顔の男子が声をかけてきた。場所は生徒玄関、三年B組の靴箱の前である……まあ同じクラスの生徒なので、わざわざ書き表すまでもないのかもしれないが。

 俺は挨拶を返して、そのまま教室へと向かう。クラスメイト男子くんも、何故かこちらの隣を歩くようについてきた。

 

「なあなあ。オレさ、お前にちょーおっとお願いがあんだけど」

「……なんだろ。なんか怖いな」

「いやいや! 大したことじゃないんだぜ、もう全っ然」

 

 このパターンは過去に覚えがあるな、とやや食傷ぎみの感覚を抱きつつ、俺は話の先を彼に促す。

 

「今月ちょっと懐が寂しくてさー。頼む! お金貸して!」

 

 ぱん! と手を打ってそう言うクラスメイト。その姿を目にして、やっぱりこうくるか、と少しばかり辟易した。

 何しろ実家が資産家一族なもので、こういうことを俺が口にすると炎上しそうではばかられるのだが……いるよなあ、こういうやつ。金持ちにたかる貧乏人。経験則だと地方民のほうがその傾向にあるような気がする。人によるとはわかっているし、俺としてもあまり田舎ヘイトのような真似はしたくないのだが、さすがにうんざりしてきた。

 勿論、たとえそんなことを思っていたとしても、そのまま言葉や表情に出すような俺ではない。たかりせびりには慣れているというのもあるし、何より、あと半年以上も学生生活が残っているのに今ここで人間関係を悪化させるのは最悪の選択だ。

 そんなわけで、ひとまず俺は笑顔を作ることにした。

 

「バイトとかは?」

「運動部はバイトする余裕ねーの。それにもうすぐ最後の甲子園なんだぜ?」

 

 そのわりには放課後に遊び回っているようだけどな。作り笑いの下でそう思った。

 さて、どうしようか。金には困っていないし、数千円貸したところで俺に損はない……が、しかし自分で稼いだわけじゃない金をそういう風に使うのはさすがにためらわれる。それにこういうのは一度貸してしまえば『こいつは許してくれるやつだ』と認識されて今後より遠慮がなくなるのは目に見えていた。

 金の無心という行為そのものよりも、その程度のやつだと見くびられることのほうが、トータル的にはデメリットが大きすぎる。

 よし、断ろう。結論を出すまでの思考は五秒もかからなかった。

 

「悪いけど、貸そうにも無い袖は振れないから」

「えっ! お前んち金持ちだろ。なんつったってあの火宮なんだから」

 

 いや素直かよ。思わずつっこみそうになった言葉を飲み込む。

 金を持っているんだから少しくらい貸してくれるだろう、という安直な考えをしているのが手に取るようにわかる。そういう浅ましさは相手にばれた時点でアウトなんだよ、ちょっとは隠す努力をしろよ。

 なんというか、この少年は目先の欲ばかり見て生きてきたんだろうな、と思った。なんか逆に可哀想になってきた。

 

「だからこそだよ。うちの親、金銭勘定に厳しくってさ。無駄遣いとか絶対許してくれないんだよ」

「えー、意外とけちなんだな」

「倹約家って言ってやれよ」

 

 当てが外れたなー、と彼は呟いた——だから、そういうことを口に出すな。

 そんなこんなでともに階段を昇り、三階へとたどり着く……と、そこにひとりの女子生徒が通りがかった。

 西城花姫だった。

 

「おはようです」

「おはよう」

「お、おはよ……」

 

 西城の挨拶に返事をする俺と、何故か挙動不審な様子を見せる男子。挨拶くらい普通に返せばいいのに、何をうろたえているのだろう。

 そんな彼のことを無視して西城へと視線を向けると、そこでふと、彼女が花瓶を手にしていることに気が付いた。見覚えのない花瓶である。クラスによっては教室に花を活けることもあるのだろうけれど、少なくともうちのものではない。

 

「その花、どうしたの?」

「西城の机に置かれてたんです」

「……そう」

「誕生日は秋なんですけどね」

 

 西城はあっさりとした口調でそう言って、俺たちの前から立ち去っていく。どうやら水道へと向かっているらしい。

 ……まさか、花の水でも入れ替えるつもりなのだろうか。

 そんな彼女の後ろ姿を見送ってから、クラスメイトが口を開いた。

 

「宿木はやることがえげつねえなあ」

「……ああ、やっぱ宿木なんだ」

「いや知らんけど。どうせあいつらだろ」

 

 ……まあ。

 明確な証拠も証左もないけれど、おそらくはそうなのだろうと、俺自身も感じた。

 

「そんなことよりさ、これ知ってっか?」

 

 西城と宿木のことを『そんなことより』で流した彼は、そう言って制服のポケットからスマートフォンを取り出すと、液晶画面をこちらに向けてみせた。

 

「……掲示板?」

 

 それは一見すると電子掲示板……いわゆるBBSと呼ばれるようなウェブサイトに思えた。しかし、よくよく見てみればスレッドを立てるタイプの掲示板ではなく、チャットルームを作成してその中でメッセージのやり取りをするタイプのサイトのようだ。

 黒の背景に白い文字というのがどことなくアングラ感を抱かせるものの、全体的なUIはシンプルにまとまっている。

 

「そ。これな、うちの学校の裏サイトみたいなもんなの」

「へえ」

「招待送ってやんよ。ここ会員制だから」

 

 いや、別に興味はないんだけど。反射的にそう言いかけた口をつぐみ、代わりに別のことを訊いてみることにする。

 

「これ、みんなやってる感じなのか?」

「んーにゃ。どうも運営してるのが個人らしくて、一気に入ると鯖落ちするっぽいのよ。今やってるのはまだ三年……それも一部のやつだけなんじゃねえかな」

「ふうん」

「そんなわけで、会員は招待するならお友達から少しずつにしてけってさ」

「なるほどね」

 

 つまり俺はあんたにオトモダチ認定されている、と。

 いつもならそれなりにうれしい言葉なはずなのだが、何故だろう、こいつに言われても何も感じない。

 

「サイト名は、パンドラズボックス……、——『パンドラの箱』?」

 

 Pandora's box。それが学校裏サイトとかいう、令和にもなって時代錯誤なこのコミュニティの名前らしい。

 しかし……パンドラの箱というのは、確か、ギリシャかどこかの寓話ではなかったか。その名を冠することに、いったいどういう意図があるのだろう。

 

「そんで、今人気投票みたいなのやってんだけどさー、火宮は誰派?」

「誰派って言われても、そもそも誰がいるのかも知らないよ」

「えっと、西城と龍崎と……おっ、C組の火宮雀じゃん。この三人だな」

「…………」

 

 錚々たる面子だと思った。いささか錚々としすぎているけれど。

 というか、誰の目にも結果は明らかだろうに、わざわざそのメンバーで行う人気投票に意味なんてあるのか? 龍崎のひとり勝ちで、はい予定調和って落ちしか見えないのだが。

 そんなことを考えながら、投票ページを見せてもらっていると——そこで俺は、あることに気がついた。

 くだんのページには三人の名前と写真らしきものが表示されている。……らしき、という表現をしたのは、ぱっと見では本人とわからないような対策がされているからだ。名前は彼女たちの本名ではなく仮のニックネームがつけられているし、写真は顔の半分がトリミングされて識別できなくされている。

 しかし、よくよく見れば個人の特定は不可能ではない。特に銀髪の龍崎と金髪の雀なんかはわかりやすい。金髪の生徒ならほかにも天野が該当するけれど、着ているジャージに『火宮』という名字が刺繍されているのが映っているのでこれは確実に雀だ。

 唯一、西城だけが少しわかりにくいものの、龍崎、雀と並べる黒髪ロングの女子生徒なんて、むしろ彼女以外にはいないだろう。

 このように、彼女たちを知っている者……特に三年生であれば、被写体の特定はすぐにできるのだ——が。

 問題はこの写真、どこをどう見ても盗撮されたものだということである。

 裏サイト。掲示板。会員制。それらのワードからも察しはついていたけれど、おそらくこの人気投票もどき、本人たちすら知らない、非公認のものなのだろう。

 まったくもって趣味の悪いことだ。よくこんなものでテンションを上げられるな、と。思わず俺の横を歩いている男に視線を流してしまった。

 

「………………」

 

 そして。

 写真以上に不可解なのが、その上に表示されているニックネームのようなものだ。本名をもじったり、アルファベットで伏せたりするのならまだわかりやすいのだが……どうやら英語で書かれているらしいそれは、明らかになんらかの意図で与えられた固有名詞なのである。

 西城がミネルヴァ、龍崎がヴィーナス、そして雀が……ジュノー、だろうか。

 ヴィーナスはわかる。金星を司るローマ神話の女神だ。ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』や、アレクサンドロスの『ミロのヴィーナス』は俺ですら知っているくらいには有名だし、授業でだって習ったことがある。

 ミネルヴァとジュノーという名前にも、どこかで聞いたことがあるような、そんな曖昧な既知感があった。そのふたつもヴィーナスと同じように美術の授業で教わっていたのだろうか。雄助なら知っているかもしれない。

 

「で、誰派? やっぱ身内?」

「まさか。この中だったら……まあ、龍崎かな」

「オレもオレもー!」

 

 話を適当に合わせるために安全牌を選んだだけだというのに、そんなことにも気付かない彼は無邪気にはしゃいでいる。おめでたい頭をしていると思った。

 そのあたりでそろそろ教室が見えてきたので、手にしているスマホをクラスメイトに返そうと、俺はページを表示しているタブを閉じることにする。そうして画面を上へとスクロールしたときに、ふと、ある文章が目に留まった。

 

『Who deserves the apple?』

 

 ディザーヴズ……それだけの価値がある、あるいは、それをするに値する、という意味をもつ単語だっただろうか。

 つまり日本語に意訳すると——誰が林檎にふさわしいか?

 ……林檎? 林檎ってなんだよ。英語圏のイディオムやスラングみたいなものか?

 

「…………」

 

 いいや。もう考えるのはよそう。意味不明というのなら彼女たちに与えられた名前だってそうだし、そもそも勝手に人気投票まがいのことをするような趣味の悪いサイトにこれ以上思考を割いたところで、俺にメリットなんてあるわけがない。

 どんな選択が、そして決定が。自分にとってどのように有益で、あるいはどのように損失なのか。

 それが問題だ。

 

「——さて、と」

 

 相も変わらず損得勘定で動くような俺だけれど。

 それでも、そういう生き方をするのが俺らしさだとするなら——今日も一日、火宮遥らしく生きてみるとしますか。

  

  

* * * * *

 

 

アルビニズム

ギフテッドネス

「うっわ」

 

 と。

 開口一番、雪村月見は不愉快そうな表情を隠そうともしないで顔をしかめた。

 

「うわ、うっわ、うっわぁー……君、そういうことしちゃう人なのかー」

 

 彼女は一歩後ろに下がり、露骨なくらい引きつった声を漏らした。自分は今マジでドン引きしています、とでも言いたげな様子である。そういった一連の仕草や表情は、儚さと冷たさを矛盾させることなく纏っていた、これまでの雪村に対するイメージをぶち壊すには十分なものだった。

 

「あ、ひょっとして雀から聞いてないのかな。雪村月見に会いたかったら放課後の図書室に行けって。だったら悪いリアクションをしてしまったね」

「いや、そう言われたけど」

「おいおい嘘だろ。え、嘘だよね? そこで『嘘だけどね』なんて言って私とキャラを被せにくるつもりなんだろ。いやあ、君も大概人が悪いな」

「…………」

 

 こいつ……。

 非凡な少女だとは以前から知っていたし、雀と友人をやれているという時点で『普通の女子高生』というカテゴリからは抜きん出ているのだろうということにも察しはついていた。

 けれど、まさかここまで会話のしにくい女だったとは。

 そんな彼女とどうして俺が相対しているのかというと、話は日曜日まで遡る。竹河との一件から一夜明け、諸々の事後報告を受けるために雀と通話していたときのことだ。

 

「そういえば、俺たちは警察署に行かなくていいのか?」

『平気っちゃよー。証拠手に入れるんがあたしらの仕事。そっからはツッキーの仕事やけんな……あ、ツッキーにお礼言うちょけよ。あの子甘党やけん適当に菓子折りでもあげたって。ちなみに、和菓子より断然洋菓子派』

「……今更なんだけどさ、誰なんだよツッキーって。夜鷹も知り合いっぽいけど」

「三年D組の雪村月見。知らん?」

 

 よく知っていた。

 雪村月見。

 聞くところによると生まれは北海道らしく、幼少期は札幌で過ごしていたそうだ。現在は古鷹に住んでいるものの、家族は仕事の都合で北海道に戻っており、高校生になってからは親戚である黒神家の世話になっているという。この黒神家というのは、俺の実家……つまりは火宮一族と犬猿の仲であり、そこに身を寄せている彼女の名前も時折耳にする機会はあった。

 そうじゃなくても、古鷹高校の三年生であれば雪村のことを知らない生徒はいないだろう。こと同学年に限定すれば、彼女は三大有名人であるところの西城や龍崎や雀にだって引けを取らない——どういうわけか、下級生からの知名度は低いそうだけど。

 雪村月見という少女は、生まれながらに色素欠乏症を患っており、同時に天賦の才能を携えている。

 アルビノでありギフテッド。

 設定が多すぎて、存在そのものにリアリティがまったく感じられない。フィクション世界の住人と紹介されたほうがまだ信じられるだろう。間違ってもただのジュブナイルに登場しちゃいけないキャラクターだ。

 ともあれ、土曜日の件で彼女に借りができたのは事実だ。作戦立案から警察への事後処理までしてくれているというのだから——前者はまだわかるけど、後者はなんでできるんだ——雪村は今回一番の功労者と言えるだろう。

 そういうわけで、ネット通販で注文したクッキーアソートが火曜……つまりは昨日届いたので、朝のホームルーム終了後に彼女が所属しているD組を訪ねたのだった。

 そして現在に至る。

 ちなみに学校が設けた一週間の衣替え期間は既に終わっており、今週から完全に夏服へと移行することになっている——のだが、雪村はいまだに長袖のシャツに袖を通していた。これは日の光に弱いアルビノである彼女のために特別に許可されていることなのらしい。華奢な脚を包んでいる黒いタイツも、おそらくはその一貫なのだろう。

 

「君ってゲームとかするのかな」

「は?」

「RPGはわかる? 携帯式対戦車グレネードランチャーじゃないほう」

「……まあ、知ってるけど」

 

 普通にロールプレイングゲームって言えばいいのでは、と思ったものの口にはしない。唐突に切り出された話題の意図も読めないので、俺はそのまま言葉の続きを待つ。

 

「もしも生まれ変われるなら、私は祠の神官になりたいと常々考えてるんだ」

「…………」

 

 いやなんの話だよ。脈絡がなさすぎるだろ。

 

「ちなみに初任給は二十二万、勤務時間は八時間、完全週休二日制、福利厚生完備だよ」

「どこの企業だよ」

 

 思わず素でつっこみを入れてしまった。……そんなに悪くない労働条件だと思ってしまったのがなんか悔しいな。明示されていないところでブラックなのかもしれないけれど。

 

「彼らは毎日祠に出向してるのさ」

「出勤でも派遣でもなく出向なんだ……」

「それで言えば、君はオフでプライベート中の神官に話しかけてしまったということだよ」

「ん? ……ああ。そこで繋がってくる、のか?」

 

 休みの日にショッピングモールで教師とエンカウントしたらかなり気まずいもんな。雪村が言いたいのはそんな感じのことだろうか。

 

「違うよ。アイテムやヒントが欲しかったら正規の手順と手続きを済ませたうえでフラグを立ててイベントを起こせって話。バグ技使ってショートカット、そのうえ本人に凸とかマジありえないからね」

「……なるほど」

 

 つまりは最初に言っていた通り、雪村月見に会いたければ放課後の図書室に行け、と彼女は言いたいようである。意図は理解したけれど、それまでの過程が回りくどすぎる。

 

「嘘だけどね」

「はあ」

「図書室に来いっていうのは本当だけど。次からはよろしくね」

「……はあ」

 

 どうやら相当にご立腹なご様子だ。

 別にいいじゃないか。用件は菓子折りを渡すだけなんだから。

 

「まあいっか。ちょうどいいしね……ちょっと場所を移動しよう。君と一緒にいるところを見られたくない」

 

 言うが早いか、雪村は俺から受け取ったクッキー缶を自分の席に置いて——ちなみに彼女の座席は右端一列目の一番前だったので、廊下からでも手を伸ばせば普通に届く距離にあった——その流れで机の横にかけていた薄いトートバッグを手に取る。そして肩にかけると、白い髪を翻してすたすたと廊下を歩き始めた。

 雪村は雪村で目立つ容姿をしているので、一緒にいるところを見られたくないのはこっちの台詞だ、と思いつつ、俺は数メートルほど距離を空けるようにして彼女の背中を追う。

 今は休み時間でないとはいえ、一限の授業が始まるまではまだ少し時間がある。だから廊下にも少なからず生徒の姿はあるわけで、やはりと言うべきなのか、彼らの視線は俺の先を行く雪村へと集中していた。ひときわ目を惹かれる外見をしている彼女なので、当たり前といえば当たり前のことではあるのだが、もしかすれば、そもそも出席率が気まぐれな雪村が朝から学校に来ていることを驚いているのかもしれない。

 周囲から人気がなくなってきたタイミングを見計らって、俺はおもむろに口を開いた。

 

「ねえ雪村さん。そういえばなんだけど、あれってどういう意味だったのかな」

「話しかけるな」

 

 抑揚の少ない声でこちらの言葉を制する雪村。

 ……俺、彼女に何かしたっけかな。会うのも話すのも今日が初めてだと思うんだけど。

 E組とF組の教室の前を通り過ぎて、俺たちは階段を昇る。三階からその先へと。まさかこのまま屋上へ出るつもりか? と一瞬考えたけれど、雪村は屋上へと続く扉の前で足を止めた。

 

「あれってどれのことかな」

 

 振り返って、彼女はそう言った。その問いに俺は答える。

 

「君の伝言のことだよ。死ぬ覚悟はあるのかってやつ」

 

 お前に死ぬ覚悟はあるか。

 その台詞を俺に言ったのは雀だが、実のところそれはあいつ自身の言葉ではなく、雀を介して俺に伝えられた雪村のメッセージなのだ。

 それは、天野のためなら死ねる覚悟は決まったのかという問いかけだったのか。あるいは俺が竹河にめちゃくちゃ痛めつけられてぼろぼろになる結末を見透かしての、文字通りの意味だったのか。今日に至るまで、どうにもその意図が読めないままだった。

 

「まあ、それもあるけれど」

 

 と、彼女は首を横に振る。

 

「証拠がなければ作ればいいじゃない——というのが今回の目的だったわけだけど、ついでに彼らが写真の一枚でも撮ってくれれば捜査がしやすくなると思ってね。口封じのために写真を撮影した彼らなら、同様に君のあられもない姿をカメラに収めようとする可能性は十分に考えられる」

「ああ、なるほど……俺を被害者に据えて、それを軸に警察を動かそうとしてたってことか。……自分で言うのもあれだけど、火宮の人間が被害を受けたらさすがに警察も動かざるを得ないからね」

「その通り。それがプランD。本来の予定通り、雀がおとなしくしてたときのパターンだね……まあ案の定、我慢できずに乱入してくれたわけだけれど」

「そのおかげで俺は助かったんだけどね」

「当然、ハイリスクではあったけどね。被害届を出してるあいだにその写真をネットにばらまかれる可能性もあったから——つまり、社会的に殺される覚悟はあるのかって、私は君に訊きたかったのさ」

「ふざけんなよ」

 

 思わず素でつっこみを入れてしまった、リターンズ。

 ……いや、被害を受けた女子たちのことを思えば、それくらいの覚悟なくして首を突っ込むなという話なので一理はあるのだけど。こっちはこっちで本気で貞操の危機を感じたのだから、怒るくらいは許してほしい。

 

「まあいいや。そういえば、黒神先生はあれからどうなったんだ?」

「一週間の謹慎処分」

 

 まあそうなるよな、と俺は納得する。

 体罰は法律で禁止されているということもあるし、たとえ相手が札付きの不良だとしても、今の世の中で教師が生徒に暴力を振るうのは問題行動以外の何物でもない。

 

「いや、それも理由のひとつではあるけれど、割合としては全体の三割くらいだよ。ちなみに残る二割は剣さんの体裁を守るため」

「体裁?」

「生徒を殴っておいてなんのお咎めもなしじゃ、言い訳もできないだろう?」

 

 なるほど、と思った。

 雪村の言う言い訳というのは、教師や生徒などの学校内に対してのものではなく……おそらくは保護者も含めた学校外に対してのものなのだろう。黒神先生の体裁を守るためにも、学校は彼に処罰を科したというポーズを取る必要があったということだ。となれば、一週間の謹慎という処分は情状酌量の結果なのかもしれない。

 しかし……彼女は先生のことをファーストネームで呼んでいるのか。親戚なのだから自然なことなのかもしれないけれど、傍から見ればほんの少しだけ違和感を覚えてしまう。

 

「ちなみに残り半分は?」

「学校設備の破壊」

「あぁー……」

 

 あの人は鉄仮面のくせにすぐ手が出るからたちが悪いよ、と雪村は呆れたようにそう言った。

 思いきり扉を蹴破っていたもんな、黒神先生……たとえ今は使用されていない旧校舎の一角だとしても、器物損壊は器物損壊だ。

 

「……竹河も先生と同じで、やっぱり謹慎とか停学処分なのかな」

「いや、彼らの処分は退学になるはずだよ。今はまだ審判待ちだけど、どうせ少年院に送られることになるだろうから」

 

 だからまあ、事実上の放校処分だね。淡々とした口調で、彼女はそう付け加える。

 放校、ということは、刑期を終えたとしても復学はできないのか。戻ってこられないなら戻ってこられないで構わないし、それに越したことはない。叶うならばこれからの人生、俺にも、俺の周りの人たちにも、どうか関わることのなければいいと思う。

 さて——と。雪村はあらためて俺と向き直る。淡い赤色の瞳が、こちらを見つめていた。

 

「クライアントは雀じゃなくて君だ。だから私の報告義務は彼女じゃなくて君に対して課せられる。当然君には知る権利があるし、反対に、君は無知である権利も有している……さて、どうするかな?」

「教えてほしい」

 

 間髪をいれなかった俺の返答を受けて、そう、と彼女はひと言頷く。そして、

 

「これが、今回の件に関する資料だ」

 

 と言って、肩にかけているトートバッグから一通の封筒を取り出し、こちらに差し出した。

 

「悪いけど、これにはすべてを書いてあるわけじゃない。被害を受けた女の子たちのプライバシーを侵害しちゃいけないからね。細かい点は伏せさせてもらってるよ」

「…………」

「被害を受けたのは六人。そのうち五人が三年生で、何人かは今も学校を欠席してる。だから調べたら簡単にわかるだろうけど、それも彼女たちに配慮してやめてあげてほしいかな」

「……うん。わかってるよ」

 

 頷いて、俺は封筒を受け取る。頭と肩のあいだに指を差し込んで少し開いてみると、中にダブルクリップで留められたA4用紙の紙束が覗いて見えた……見るからに警察の内部資料っぽいけれど、雪村がどうやってこんなものを手に入れたのかは知らないままのほうがいいのだろう。好奇心は猫をも殺すのである。

 何人かは今も学校を欠席している。その言葉に、俺は天野のことを思い浮かべた。

 竹河の件の前と後で生じた、もっとも大きな相違点。それは、週が明けてからも天野が学校に来ていないことだ。

 いまだ警察の聴取が終わっていないのか。それとも、もっと別の理由があるのか。俺は何も知らない。

 連絡先を交換しておけばよかったかな、と今更ながら思った。

 

「補足すると、天野さんを始め、被害者の少女たちの画像データはすべて削除済だよ。ネットにアップロードされてもいない。その点は安心してくれていいよ」

「……そっか」

 

 その情報に心からの安堵を覚えつつ、俺は封筒の頭を折って脇に挟む。目を通すなら人の目につかないところのほうがいいのかもしれないが、それは今じゃなくてもいいだろう。こんなものを今読んだら授業どころではなくなってしまう。

 

「とはいえ、バックアップはさせてもらってる。ああ、今のは私じゃなくて警察が、という意味だけど……君がどうしても欲しいって言うなら、天野さんの分だけは渡してあげられるよ」

「いらない」

「うん。もしも欲しいって言われたら、私は君を一生軽蔑するところだった」

「…………、……?」

 

 ふと、なんとなく妙な喋り方をするな、と思った。いまいち感情のこもらない、淡々とした声色というのはその通りだし、コンテクストにもダイアローグにも違和感はないのだけれど。

 なんとなく、俺のことを、裁定しようとしているかのような——?

 ……まあ、そんな気がしただけで、おそらくはただの気のせいだろう。俺自身が人のことをまず疑ってかかるような見方をしているから、そんな風に感じてしまっただけのことだ。

 

「話は以上だよ。それじゃ」

 

 そう言って、こちらの返事も待たず、彼女はすっと踵を返して階段をひとつ降りる。

 

「あ……」

 

 無意識のうちに、そんな声が喉から漏れた。

 

「何かな。……物欲しそうな顔をするね」

 

 追加で二段、降りたところで雪村はこちらを振り返る。いつもの冷めた表情に加えて、どことなくつまらなそうな目で。その眼差しと目が合って、俺はにわかに焦りを覚えた。

 雪村月見。アルビニズムであり、ギフテッドでもある少女。

 そして、何でも知っている——らしい。

 彼女が本当に全知であるのかは定かではないものの、古鷹高校に通う全校生徒のステータスとプロフィールを把握しているという噂があるくらいだ。情報通であることは間違いないだろう。

 そんな雪村と、このままここで別れてしまってもいいのだろうか。事件は解決しているし、資料も受け取っている。けれど、それは結局のところ外側の話ばかりで、もしかすれば俺は内面のことを何ひとつわかっていないのかもしれない。

 彼女に訊くべきことが、まだあるような気がしてならなかった。

 

「アンサーはあげられないけれど、ヒントくらいならくれてやるよ」

 

 黙り込む俺を見かねたのか、雪村はそう言った。

 

「……ヒント?」

「ミステリーのお時間ということさ」

 

 言って、彼女は中途半端にこちらに背中を向けていた体勢からやにわに動き出す。そして壁に身体を預けたかと思うと、胸の前で腕組みをした。

 

「さて、まずは何から訊きたいのかな。コロンボくん」

「誰がコロンボだよ」

 

 そもそも刑事コロンボはミステリーでもなければ探偵でもない。そんなつっこみを入れながらも、心の中では雪村が俺と話をする姿勢に入ってくれたことに胸を撫で下ろしていた。

 あらためて、俺は考える。彼女に何を訊いたらいいのか、自分は何を知りたいのかについて思考を巡らせる。俺には考えることしかできないのだから、足りない頭をせいぜい働かせるしかない。

 

「そうだな……まずは鍵について訊こうかな」

「鍵、ね」

 

 どこか含みがあるような声で、雪村はその単語を反芻した。

 

「俺が旧校舎の二年A組に行ったとき、既に扉の鍵は開いていた。それについては別にいいんだ。あのときは事前に雀がロッカーに潜んでいたからね……だから、問題は竹河たちのほうだ」

「と、言うと?」

「彼らは、どうやって教室に出入りしてたんだ?」

「答えるまでもないことを訊くね、君は。東階段の非常用扉に決まってるじゃないか」

「そんなことはわかってる。俺が知りたいのは旧校舎への出入りじゃなくて、教室への出入りのほうだよ」

 

 竹河たちは建てつけの悪い非常用扉から校舎に侵入していた。そんなことはとっくにわかりきっているし、納得もできている。しかし教室のほうはそういうわけにはいかない。

 雄助が毎日のように鍵の拝借と返却を繰り返していることからもわかる通り、教室の鍵は基本的に本校舎の職員室ですべて管理されている。それは旧校舎だろうと例外ではない。そして鍵を借りるためには特定のプロセスを踏む必要があるのだ。

 鍵を借りるときには、その用途と自分の学年、クラス、名前を用紙に書かなければならない。とはいえ、それ自体はクラスや部室の施錠のためだとすればさして難しいことではないのだ——が、しかしくだんの教室は旧校舎、部室としても使われていないA組である。一度や二度ならまだしも、確実にそれ以上出入りしているはずなのに教師に気付かれないなんてありえるのだろうか。

 あいつらはどんな手段で、鍵のかかった部屋に侵入していたのだろうか。

 

「彼らは普通に鍵を使った。ミステリーじみた密室トリックという可能性は皆無だよ」

「……じゃあ、その鍵はどうやって手に入れたんだ?」

「逆に問うけど、君ならどんな風に鍵を入手する?」

 

 数段降りた位置から、彼女がこちらを覗き込むようにして訊いてくる。俺は少しだけ考えて、そして答えた。

 

「……職員室で借りる」

「そう。生徒ならみんなそうするしかない。規則だからね」

 

 雪村は当たり前のことを、当たり前のように言った。

 だから、それをどうやって手に入れていたのかを訊いているんだよ。と、少し苛立ったものの、ここまでのやり取りを経て彼女の人となりがなんとなくわかってきたので、俺はその焦燥を表情には出さないように努めた。

 この少女は、どうやら随分と回りくどいお喋りを好んでいるらしい。そしてアンサーではなくヒントをくれてやる、という言葉通り、その助言を元にこちらから解答を出さなければ話が進まないのだろう。

 焦らず、雪村の晦渋さに適度に付き合いつつ、しかしペースには巻き込まれないように。彼女と会話をするときは、それくらいの距離感を保つことが最善なのかもしれない。

 俺は唇に指を当て、思考を巡らせる。そしてややあって、ひとつの可能性に気付いた。

 

「そうか……用務員だ」

 

 生徒が鍵を借りる場合、職員室で許可を得なければならない。それは教師も同じだ。さすがに生徒と同レベルのセキュリティは求められないのかもしれないけれど、拝借する鍵は生徒も教師も同じものなのである。

 しかし、用務員。放課後の校舎を巡回し、教室の扉や廊下の窓の戸締まりを確認することを仕事としている彼らは、俺たちが普段借りている鍵とは別に本鍵を所有しているのだ。

 当然、用務員が旧校舎のA組に竹河たちを招き入れているとは考えにくい。とすると——

 

「旧校舎の、本鍵の管理は?」

「旧用務員室にそのまま置きっ放し」

「……セキュリティがガバすぎないかな」

「盗まれて困るようなものは何もないからね」

 

 とはいえ今回の件を受けて、さすがにどうにか改善するらしいよ。雪村はそう言った。

 つまりあいつらは、その旧用務員室に半ば放置されていたという本鍵を使ってA組に侵入していた、ということか。なるほど、確かにそれなら職員室に記録を残すというリスクを冒すこともなく教室に出入りできる。

 

「雄助から用務員室の話は聞いたことないから、ほかの部活生たちも鍵の存在は知らないはずだよね……竹河はどうして知っていたんだろう」

「それについては特に考えなくていいよ。いつの時代にも、どんな場所にも、不良という人種はいるものさ。そしてこの不良というコミュニティは縦の繋がりが濃い傾向にあってね」

「ようするに……竹河たちは、その不良の先輩とやらに教えてもらったってこと?」

「その通り。使用されてない空き教室なんて、授業をさぼるにも隠れて煙草を吸うにもおあつらえ向きじゃないか」

 

 彼らほど悪辣じゃなかったにしろ、ホテル代わりにしていたやつも少なからずいただろうね——と、そう続けられた彼女の言葉に、俺は反射的に嫌悪感を抱いた。旧校舎が使われなくなって四十年近く、自分の通っている学校でそんなことが長年行われていたと思うと、転校してきたばかりの身でも虫唾が走りそうになる。

 

「まあ説得力はないかもしれないけどさ、それでもうちは比較的治安のいいほうだと私は思うけどね。だからこそ彼らみたいな素行の悪い存在が目を引くんだよ。それで目をかけられるか目をつけられるかは本人たち次第だとしても……その点、羽鳥くんは気に入られてたみたいだね」

「あいつは……まあ校則違反もしてるし、女遊びも激しいけれど、不良ってほどじゃないはずだよ。何かやらかしたら真っ先に雀が半殺しにくるってわかってるだろうし、そもそも、そんなに悪いやつじゃないし」

 

 天野のことを守ってほしいと雀が頼んだときにも、羽鳥はふたつ返事だったと聞くし……何より、天野が殴られたときだってあいつはひどく憤っていた。態度にも表情にもあからさまに出しはしなかったけれど、こちらを睨みつける左目の内側に込められた怒りは、ちゃんと伝わってきた。

 普段の軽薄な振る舞いにはほとほと呆れることもあるが、悪いやつではないと思う。

 

「へえ、君にしては意外と評価が高いじゃないか」

 

 と、雪村はどこか揶揄するようにそう言った。君にしては、とはどういう意味だろうと俺は思わず首をかしげる。

 

「君みたいな人間は羽鳥くんのことを忌避しそうなものだけどね。案外、火宮くんが覚えてないだけで、彼とは親戚って以上に縁があったりして」

「……縁?」

「君と彼を繋ぐ人物はいったい誰なんだろうね。雀や九条くんは縁と呼ぶには少し薄いかな。案外鈴音さんあたりがあいだに入ってたら物語的に面白いところなんだけど——とまあ、私の個人的な好奇心は今はどうでもいいか。それで? 訊きたいのはそれだけ?」

「え? ああ、そうだね……」

 

 不意に水を向けられて少しうろたえてしまったものの、またしばしのあいだ考えてから、俺はあらためて口を開く。

 

「じゃあ……被害者同士の共通点は? 性別以外に、何かあったりするのかな」

「特にないよ。しいて言えば、全員あまり気の強い性格じゃないってことくらいかな」

 

 先ほどまでの回りくどい問答とは対照的に、彼女は存外にあっさりと答えてくれた。

 気の強い性格ではない。確かに天野は弱気でこそないが、じゃあアグレッシブな性格をしているかと訊かれれば即座に違うと否定できる。竹河たちが次に狙いをつけていた龍崎だって……まあ実際のところはさておくとしても、傍目には礼儀正しくて控えめな少女に映るだろう。

 被害を受けても、あいつらに逆らえないほどに。

 

「女の子が狙われた理由は、単に彼らが男子だからさ。精神的にも肉体的にも、どう足掻いたって女は男に勝てないからね」

「肉体的っていうのは……まあ、雀や西城みたいな一部例外があるとして基本的には賛同するけれど……精神的にっていうのはどうなのかな」

「だから、そのための写真だよ。同じパンツでも男子と女子じゃ意味合いが違ってくるだろ?」

 

 そのあけすけな物言いに思わず眉をしかめたものの、雪村の言わんとしていることはわからなくもない。下着ごと脱がされそうになったときにはかなり焦った俺だけれど、それがもしも下着姿だけだったならあそこまで切羽詰まりはしなかったかもしれないと思ってしまうからだ。その点に関して言えば、彼女たちは男よりもいささか分が悪いのかもしれない。

 

「被害者に三年生が多いのも彼らが三年生だから、ただそれだけの理由さ。同級生ってだけでほかよりは接触しやすいからね。君だって他学年の異性なんてほぼ知らないだろ?」

「確かにそうだね……じゃあ竹河が羽鳥を仲間に引き入れたがったのは女子を紹介してもらうためだとしても、狙いは主に下級生だったってことか」

「その通り。だから唯一の二年生である天野さんのことは、羽鳥くんにモーションをかける途中か、そのあとにでも見つけたんだろうね。あるいは前々から目はつけてたのかもしれないけど。彼女は……ほら、まあ、目立つ子だからね」

 

 雪村は最後、少しだけ言葉に迷うように瞳を揺らしてから、そう言った。たぶんそれは俺に向けての——あるいは、天野本人を慮っての躊躇だったのかもしれない。

 目立つ容姿をしているからといって、それが犯罪行為の標的にされてもいい理由にはならないと、きっと彼女もそう思っているのだろう。

 

「…………」

 

 さて、と思う。

 訊きたいことは訊けた。知りたいことも知れた。

 残すところは——訊くべきことだけだ。

 

「——目的」

「目的?」

「そう、目的……竹河たちの目的は何なんだ。どうしてあんなことをしたんだ」

 

 俺は、半ば核心に触れるかのような心持ちで、彼女にそう問う。

 今回の件で、もっとも不明瞭だったところがそれだ。

 竹河が女子の写真を撮るのは、それを売りさばくため——そうではないと、あいつ本人が言っていた。金はいらないとさえ口にしていたのも、俺は覚えている。

 写真は手段であって、目的ではないとするならば。

 では、竹河たちの真の目的とは、いったいどこにあったのだろう。

 

「ミステリー風に言うなら動機……そう、『どうしてやったのか』ってやつだね」

「いや、この件で問うべきはホワイダニットじゃなくてクイボノさ」

 

 クイボノ……? と、その耳慣れない単語を思わず訊き返すと、

 

「『qui bono』。直訳して『誰が得するか』——つまり、もっともリターンを得るのは誰か、という意味だよ」

 

 と、雪村はご親切にも解説してくれた。そのさすがの雑学に、一瞬、素直に感心しそうになったものの……そんな風に含みのある言い方をするということは、彼女はあいつらの動機についても完全に理解しきっているということなのだろう。

 

「……利益を得るのは、竹河たちじゃないってことか?」

「さて、どうだかね。君はどう考える?」

 

 また曖昧に言葉を返してくる雪村。どうやら自分で考えろと仰せのようだ。

 彼女のお望み通り、俺は再び意識を思考に落とす——今度は、より深くまで。雪村の言うことがあくまでもヒントだとするならば、その答えに到達するための材料は、既に俺が知り得ている情報の中にあるはずだから。

 しばらくして、俺は呟く。

 

「……『親』?」

 

 ——そんなことをしてみろ、オレらが親に怒られちまう。

 そう、竹河はあのとき、間違いなくそう言っていた。あれは確か、俺が取引を持ちかけたことに対しての、あの男の返答だったはずだ。

 そのときは何かの比喩だと思ったけれど、まさに上下関係を『親』と『子』に例えた、相互扶助的概念があるじゃないか。

 

「ようするに、竹河はマルチ商法……みたいなのをしてたのか?」

「君は既にアンサーを知っているはずだよ」

 

 わかりきっていることを口にするような声音とともに、彼女はこちらを見上げた。

 

「スペシャルヒント。先日の火宮総会のことを思い出してご覧」

 

 どうして雪村が総会の内容を知っているのかだなんて、今更驚くに値しないのだろう。それに、驚けるほどの余裕すら俺にはなかった——スペシャルヒントと言われるのにも納得してしまうくらいに、彼女のその言葉でようやく答えにたどり着けたからだ。

 火宮翔鳳。雀の実父にして俺と鈴音の伯父である一族の総帥。彼が告げた、あの総会で唯一と言っても過言ではない、意義のあった情報。

 それは、すなわち……。

 

「——違法ドラッグ?」

 

 ほとんど無意識のうちに、その単語が俺の唇から零れ出た。

 

「じゃあ、竹河たちが審判待ちっていうのは……」

「ああ。強制わいせつ罪だけでなく、むしろ主たる理由は麻薬取締法違反のほうだね」

 

 あっさりとした口調で語られたその真実に、俺は、絶句するほかなかった。

 違法薬物の件は知っている。それを密売していた組員が古鷹で逮捕されたというニュースは先週に見たばかりだし、そいつらと取引をしている売人がいるという話も総会で聞いていた。

 けれど、そんなもの、自分の人生には無縁だと思っていた。普通に生きてさえいれば、一生関わることなく天寿を全うできるのだと。

 だというのに、つい先日にも言葉を交わした男が……同じ学校に通っていた、同い年の男が実際にそれの関係者と知らされて。

 まるで、自分が信じていた日常は、しょせんすべて虚飾でしかないのだと——そう突きつけられたかのような気がして、俺は愕然となる。

 

「ドラッグに漬けたうえで行為を撮影……従順にならざるをえなくなった女の子を利用してネズミ算式に顧客を増やし、売買で得た収入の一部を『親』に納める。うまくいってたら儲かってただろうね――ハ、反吐が出るな」
「……………………」
「安心しなよ。天野さんは薬には関わってないそうだから」
「……そっか」

 

 俺がよほど絶望的な顔色でもしていたのだろうか。彼女は相も変わらず無表情で抑揚の少ない喋り方のままだったけれど、心なしか気遣わしげな声でこちらに向かってそう言った。

 雪村が告げたその情報に心からの安堵を覚えつつ——けれど、じゃあ天野以外はどうなのだろうと、ふと考えてしまった。

 ……いや、もうよそう。思考を止めろ、考えるのをやめろ。被害者である彼女たちに配慮しろと、余計な詮索はするなと雪村も言っていたじゃないか。だったらこれ以上俺が考えることに意味はない。天野が無関係だというのであれば、俺の日常にはなんの変化も影響もないのだ。

 あの金色の少女に何もないのなら、俺にとっては、それがせめてもの救いなのだから。

 

「それじゃあね。教室に戻るときは私の姿が見えなくなってから。半径五メートル以上は空けてくれると助かるよ」

 

 雪村はそう言うともたれかかっていた壁から背中を離し、今度こそとばかりに立ち去ろうとしたのだが、俺はそれを呼び止める。あまり期待はしていなかったのだけれど、彼女は思いのほか素直に足を止めてくれた。

 

「もうひとつだけ、最後に質問をしてもいいかな」

「…………」

 

 無言のまま雪村は振り向いた。そして、まるでこちらを観察するかのような冷ややかな眼差しで、俺のことを見据えてくる。

 

「……まあ構わないさ。これがラストヒントだ」

 

 ややあって、彼女はそう答える。その返事を受けて、俺は制服の襟を軽く直してから、あらためて最後の質問を投げかけた。

 

「『パンドラの箱』ってサイト、知ってるかな」

「……つまらないことを訊くね、君は」

 

 雪村は真実呆れ果てたかのような口調でそう言って、

 

「勿論知ってるよ。私は何でも知っている」

 

 と、即座に言葉を繋ぐ。

 

「紅野樹月」

「え?」

「パンドラの箱のことさ。紅野くんに訊いてみればいい。きっと答えてくれるはずだから」

 

 ヒントは以上だよ。そう言い捨てると同時にこちらに背を向けて、彼女は今度という今度こそ階段を降り始めた。俺も今回は引き止めるようなことをせず、姿が見えなくなってから教室に戻れ、という雪村の申しつけに従って上段框の部分に浅く腰かける。

 彼女が紅野のことを知っているのも、やはり驚くまでもないことなのだろう。なにせ全校生徒の個人情報を把握しているという噂があるくらいなのだから。とはいえ、クラスメイトの言を信じるなら、くだんのサイトを利用しているのは三年生だけだ。まだ一年生の彼がいったい何を知っていて、どう答えてくれるというのだろう。

 今から……いや、もう予鈴まで時間がない。となると昼休みか。四限が終わったら紅野のクラスを訪ねてみることにしよう。

 雪村を引き止めてまで例のサイトについて訊いてみた俺だけれど、実のところ特段興味があるわけではない。昼休みに紅野と話してみて、なんらかの知見を得たところで、きっとなんのメリットもないのだろう。

 けれど雀が関わってしまっている。たぶん本人の意思ではないとはいえ、彼女が関係している時点で俺まで巻き込まれかねない。それはもはや自明の理だ。だから、そう、これはメリットを得るための行為ではなく、デメリットを減らすための行動なのである。

 

「火宮くん」

 

 と。

 俺の名前を呼ぶその声に顔を上げると、てっきりもう立ち去っているとばかり思っていた彼女が、まだ階下の踊り場にいた。

 こちらに背を向けて、振り向きもせずに。

 

「君がいいなら別にいいんだけどね、私にとってはあまりよくないんだよ。そんなどうでもいいものに興を持たれちゃ敵わない……君の優柔不断に巻き込まれるのは御免だからね」

「……はあ?」

「君は女の子と乳繰り合ってりゃいいんだよ。ギャルゲーの主人公よろしくさ」

 

 とはいえ、八方美人なルートの進め方はろくな結末を迎えないから気をつけて。そんな意味のわからないことを言ったかと思うと、雪村は振り返ってこちらを見上げてくる。

 

「精々がんばって、バッドエンドを回避してくれたまえ」

 

 その言葉を最後に、彼女は今度こそ——本当に今度こそ、俺の前から姿を消す。その後ろ姿が視界に映らなくなるまで、しばらく呆然と座り込んでしまっていた。

 結局、雪村は何が言いたかったのだろうか。言葉の意図を読めずに思わず首をかしげたそのとき、一限目の開始を知らせる予鈴が鳴り響いた。

 本音を言えばもう少し考え事をしていたい気分だったのだけど、学生である以上時間割には従わなくてはいけない。そうじゃなくても、公立高校とはいえ親の金で通わせてもらっている身だ。別に優等生を気取るつもりはないが、だからといって無意味にサボタージュを選ぶほど俺は不真面目には生きていない。

 六月十日の始まりを告げる鐘の音を聴きながら、俺は封筒を手に階段を後にするのだった。

ホワイダニット

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