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 六月十七日、水曜日の朝。梅雨はまだ明けきっていないものの、月曜にはプール開きが行われた——このあたりは内海に面していて暖かいので本州よりも少し早いらしい——そんな週の折り返しである。俺は体質的に筋肉がつきにくいので、水着に着替えなくてはならない水泳の授業はかなり憂鬱だった。

 それはさておき、俺はいつも通りの時間に起きて、曇りだったので制服のまま自転車を漕ぎつつ学校へと向かい、定められたクラスの駐輪場に停車してから生徒玄関から校舎へと入った。

 そして普段通りに、何気なく自分の靴箱を開ける——

 

「……ん?」

 

 と。中に何かが入っていた。

 靴箱のロッカーは上下に仕切られていて、上段に体育館専用のシューズ、下段に上履きのスリッパをしまっている。『それ』はシューズの横に置かれていたので、直観的に違和感を覚えなかったらきっと気がつけなかっただろう。

 学校の靴箱に入っているものといえばラブレターとかチョコレートとかがお約束なのかもしれないけれど、そういった月並みなものではないということはすぐにわかった。……というかそんなもの、本当に入れるやつなんているのだろうか。現実的には不衛生としか思えないのだが。

 ともあれ、じゃあこれはいったい何なのだろうと、俺はロッカーの中へと手を伸ばす。白い布というか、紙みたいな材質に見えるけれど——

 

「…………。……、————っ!?」

 

『それ』を『それ』だと認識した瞬間——俺は声にならない叫びを上げて、反射的にロッカーの扉を思い切り閉めた。

 何なんだこれは。なんだこれ。なんだこれ、いったいなんだってんだ……!

 狼狽を胸中に隠しきれないまま、俺はそっと周囲の様子をうかがう。勢いに任せて扉を閉めてしまったことで思いのほか激しい物音が立ってしまい、数人の生徒が怪訝そうに後ろを振り返っているのが見えた——が、しかしどうやらこちらには気付かなかったらしく、みんなそのまま教室へと去っていく。

 俺は、そっと安堵の息を吐いた。

 しかし……。

 とっさに扉を閉めてしまったけれど、どうするんだ、これ。

 はっきりと『中身』を目にしたわけではないが、たぶん……あれだ。姉さんがいわゆる『重い』人だったから知っている。なんなら彼女の体調が悪いときには俺が代わりに買ったことだってあるのだ。

 だけど、だからこそ、どうして男である俺の靴箱にそんなものが入れられているっていうんだ。しかもおそらく使用済である。嫌がらせか? そこまで人に恨まれるようなことをした覚えはないぞ。

 ……いや、覚えていないというだけで、俺のことを恨んでいる人間はきっといるのだろうけれど。

 もしも嫌がらせだとしたら、犯人はその辺から密かにこちらの様子を覗き見ているはずだ。それなら、と俺はなるべく自然に、スマートフォンを操作するさりげなさを装って周囲を観察する。

 けれど、それらしき人影は見えなかった。

 

「…………」

 

 とにかく、まずはこれをどうするか考えなくてはならない。いやまあ処分する以外に手はないのだが、こんなものどこにどう処分すればいいんだって話だ。持ち運んでいるところを誰かに見られた時点で平和な学生生活とはおさらばだし、正直、あまり触りたくもない。

 落ち着け、そもそもただの見間違いかもしれない。シューズの何かが偶然そんな風に見えてしまっただけという可能性も考えられる。今日も今日とて気圧が低いせいで地味に頭痛を起こしているのだ、頭がまともに働いていないからそんな勘違いをしたのだろう。

 しかし、それを確認するために目の前にある扉を開ける気にはなれなかった。だってこの中を確認してしまったら——観測してしまったら、結果が結果として確定してしまう。嫌すぎるシュレディンガーの箱だ。

 

「火宮くん?」

 

 思考の混乱がいよいよ極まってきて、わけのわからないことを考え始めた——そんなタイミングで声をかけられて、俺は思わず振り向いてしまった。

 右手に学校指定のスクールバッグ、左手に同じく指定のローファーを手にした、見るからに今しがた学校に到着したところという様相の西城花姫が、そこに立っていた。

 

「お、おはよう。西城さん」

「はい、おはようです。かなり挙動不審ですけど、どうかしたんですか?」

「何が?」

 

 反射的に、とぼけるような素振りを返す。それに対して、彼女は疑わしげな目つきをこちらに向けてはきたけれど、そうですかと無関心そうに言うだけで、何事もなかったように自分の靴箱の前でローファーと上履きを入れ替え始めた。

 ちなみに、さすがに歩きにくいと判断したのか、上履きのスリッパは新しいものにされている。

 新品のスリッパに履き替えた西城は、俺の後ろを通り過ぎて廊下に向かおうとする。それを横目に見ながら、さてどう処分したものかと、俺はあらためて自身のロッカーと向かい合った。

 

「行かないんですか?」

 

 不意に、そう話しかけられた。

 

「……え?」

「教室」

 

 行かないんです? と、まだそこにいたらしい彼女が繰り返すようにこちらに問いかけてきた。

 

「……あー、えっと」

「えっと?」

「ええと……あんず、そう、ちょっと萩原と待ち合わせしてるんだよ。だから俺のことは本当に気にしないで」

「…………」

 

 西城はやはり胡散臭そうにこちらを眺めていたけれど、それ以上の追及をするつもりもないのか無言のままに踵を返した。それに胸を撫で下ろして、俺も彼女から視線を逸らす。

 しかし、とっさに嘘をついてみたものの、あんずを待つというのはそんなに悪い考えじゃ……いや、こんなことのために彼を巻き込むのはよくないよな。何かあれば相談するという約束を忘れたわけではないが、これはさすがに良心の呵責に堪えない。

 どうせ巻き込むのなら雀のほうが罪悪感を覚えないというものだ。あれでも一応女なわけだし、この場合はそれが最善だろう。

 そんなことを考えながら、手にしていたスマホで彼女と連絡を取ろうとする——そのときだった。

 

「——いってえ!」

 

 突如、横からものすごい衝撃を受けて、端末を操作していた動きが遮られた。

 見れば、そこには先ほど玄関を後にしたはずの西城が、隙間もないほどに全身でこちらに密着しているではないか。

 

「えっ、何、今の何!?」

「フェイントに見せかけた不意打ちです」

「それは結局ただのフェイントだ!」

 

 いったいどういうことなのか、本当に全然ちっとも理解できないけれど、彼女はあろうことか俺に向かって肩から突進してきたようで、今も左の肘でこちらの脇腹をぐりぐりと押しつけてきていた。かなり痛い。

 そして、空いている右手が靴箱へと伸ばされる——それが視界に入った瞬間、俺は反射的に扉を押さえつけた。が、西城は当たり前のようにその上から自身の手を重ねてくる。

 

「いや、あの、マジで俺のことは気にしないで……いたたたた痛い痛い! 力強っ!」

「そんな顔真っ青にさせて気にするなとか言われても説得力がないんですよ、説得力が。さあ、利き手を林檎のように握りつぶされたくなければ抵抗をやめておとなしくすることですね」

「抵抗も何もここ俺のロッカーだし……え、西城さん片手の握力で林檎をつぶせるの?」

「当然です。西城の握力は五十三万ですから」

「馬鹿な、あと三段階の強化を残しているというのか!? ……って、いや違う!」

 

 火宮遥、十七歳。生まれて初めてのノリツッコミである。

 

「あんた意外と茶目っ気あるな!? 普段からそうしてればいじめられなかったんじゃないのか!?」

「西城は普段通りですよ。日々明朗快活に生きてるんです。火宮くんみたいに被る必要のない猫を被ったことなんて一度もないですから」

 

 その言葉に。

 思わず、自分の身体がすくんだのがわかった。

 扉にかけていた力がゆるむ——そうして生まれた隙を狙ったかのように、彼女はやにわに俺の手を剥がした。あっ、と止める間もなく西城は靴箱の扉を開けてしまう。

 

「…………」

 

 中を覗き込んで黙り込む彼女。不機嫌そうな仏頂面で、それを睨みつけている。

 俺は俺で妙に気まずいものを感じてしまって、西城にかける言葉が見つからないでいた……すると突然、こともあろうに彼女はそれをむんずと素手でつかみ取ったかと思うと、そのまま足早にどこかへと立ち去ってしまった。

 

「え、ちょっ……西城、待てってば!」

 

 しばらく呆気に取られていた俺だったけれど、すぐにはっと我に返り、慌てて上履きに履き替えてから西城の後を追う。

 なんとか追いついたときには、彼女は水道で手を洗っているところだった。さっきまでつかんでいたはずのあれが、どこにも見当たらない。

 俺の代わりに、処分してくれたのだろうか。

 

「あ……ありがと、う……」

「どういたしましてです」

 

 水を止めて、手をハンカチで拭きながら西城は事もなげにそう言った。

 見た目には落ち着いているように見えるけれど、本当に平然としているわけではないだろう。そう思うと、彼女にそんなことをさせてしまったことに罪悪感を覚える。

 

「心当たりは?」

「え」

「誰かに好かれたとか、逆に嫌われてるとか。身に覚えがあるんじゃないですか」

 

 不意に投げかけられたその問いに、俺はまごついた。そのせいでレスポンスが遅れる。

 うろたえながらどう答えたものかと思考するが、いまだ動転している頭でうまいごまかし方が思い浮かぶわけもなく、俺は半ば無意識に彼女から目を背けることしかできなかった。

 

「その反応を見るにどうやらあるっぽいですけど、まあ深くは詮索しないですよ。……意外と罪作りなんですね、火宮くん」

 

 そう言って、西城はくすりと微笑んだ。その笑顔に、案外穏やかな笑い方をするんだな、と些末なことを思う。

 

「まあそもそもの話、犯人が女子とも限らないわけですが」

「え、いや……それは女子じゃないか?」

「何故? 男性は経血を流さないからですか?」

「…………」

 

 なんというか、いやまあその通りではあるのだが……しかしどうしてこう、俺の周りの女子は直接的な物言いをするやつらばかりなんだろう。別に女子に対して貞淑であることを求めてはいないけれど、とはいえ同性から言われるのと異性から言われるのとでは生々しさが違うのでどうしたって抵抗を覚えてしまう。せめてもう少しオブラートに包んでくれ。

 そういえば、雀はそのあたり意外と言葉を選ぶような素振りを見せていた。訛り全開の問題児だが、あれでいて育ちはかなりいいからな……。

 ようやく頭が落ち着いてきたのか、そんな風に思考が横道に逸れかけた俺だったけれど——しかし、そこに間髪入れず続けられた、

 

「使用済のナプキン程度、その辺のトイレから拾えるでしょうに」

 

 という西城の言葉に、俺の感情は再び大きく揺さぶられることになる。

 耳を疑わずにいられない——自分の全身から血の気が引いていくのを、感じざるを得なかった。

 だってそれは、もしも犯人が男だった場合……と、そこまで考えそうになったところで直感的な不快感を悟り、俺は自分の思考を強制的に遮る。

 

「さすがに生理的嫌悪があるんで女子が犯人と思いたいところですけどね。まあ同性でもわりとドン引き案件ですが」

「…………」

「ああ、被害者の火宮くんが一番ドン引きですよね。失礼したです。で、先生に報告するんですか? 西城も付き添うです?」

「……いや、いいよ」

 

 どちらの性別だったところで嫌な思いをするのはほとんど確定事項なのだ。だったら犯人なんて知らないままでいいし、教師に訴えてまで犯人探しをしなくたって構わない。

 そんな判断に基づいて断ると、ですか、と彼女はあっさりと引いてくれた。

 

「……あのさ」

「はい?」

 

 俺の呼びかけに反応して、こちらに向き直る西城。切れ長の目で、やはり真っすぐに見つめてきた。

 

「さっきの話なんだけど……」

「はい? どれのことですか?」

「……猫の話かな」

「ああ」

 

 あれのことですか、と彼女は納得したように頷く。そして——

 

「西城は口が堅いですよ」

「…………」

「吹聴する必要のないことをわざわざ触れ回るほど、悪趣味な人間でもないつもりです」

「……そっか。ごめん」

「いいえ、別に」

 

 落ち着き払った様子で、西城はそう言った。

 俺は、先ほど彼女に見せてしまった失態をどうごまかそうかと企てていたのだけれど、そんな浅ましい目論見も、どうやら既に見透かされていたらしい。

 ただ……自分の化けの皮が剥がされるというのは、いつもだったらそれなりに焦燥感に駆られる展開のはずなのに、今はそんなに悪くない気分だった。

 きっと、彼女には余計なごまかしや無駄な言い訳が一切いらないとわかったからだろう。そういうタイプは俺の人生においてかなり貴重な人種だ。

 だからこそ、素直に惜しいとも思う。

 

「わかるんですよ」

 

 唐突に、彼女は静かな声でそう言った。

 

「え?」

「見てれば普通にわかるんです。被りきれてないんですよ、火宮くんは」

 

 西城は淡々と、けれど声色は柔らかな響きのままに言葉を続ける……被りきれていないというのは、俺が被っていた猫の話を指しているのだろう。

 見ていればわかる、と彼女は当たり前のように口にした。

 

「だって火宮くん、いい人じゃないですか」

 

 さもとっくに決まりきった事実を話しているだけとでも言いたげな西城の態度に、俺は戸惑う。

 

「いい人? ……俺が?」

「だってそうじゃなくちゃ、普通西城と挨拶を交わさないですよ」

 

 彼女は言った。その言葉に、俺は反応を返せない。

 いい人でなければ、西城花姫とは挨拶を交わさない——彼女の言わんとすることはわからなくもないけれど、だけど、そんなことを言われたって……。

 

「同級生の挨拶にはきちんと返事をしてあげるほうが普通、ですか?」

 

 俺の表情の変化を読み取ったのか、台詞を先んじるように西城はそう言った。……雪村や『彼女』でもないのにそんな風に見透かすような真似ができるのは、先ほど西城自身が言っていた通り、見ていれば普通にわかるということなのだろうか。

 真実はともかく——しかしながら、西城の言う通りだ。

 俺はクラスに特別親しい女子がいるわけではないし、普段から積極的に会話をするわけでもないけれど、朝すれ違ったらおはようと声をかけるし、放課後にさようならと言われれば同じように返す程度のことはする。もう高校三年生なのだ。基本的につるむのは男子だとしても女子を蔑ろにしたりはしない。挨拶くらい男女分け隔てなくするだろう。

 それが、普通のクラスメイトの距離感だ。

 

「つい先ほど火宮くんも言ったばかりじゃないですか。自分で言うのもあれな話ですが、西城は嫌がらせを受けてる——いじめられてる側の人間です。普通の同級生じゃあないんですよ」

「…………」

「なら、見てるだけの傍観者を選ぶんじゃないんですかね、普通は」

 

 それこそ普通は、クラスのみんなみたいに。彼女はそう言った。

 

「西城が疎外の対象になってから半年余りほどですが、西城が挨拶しても露骨に無視をするかさりげなく目を逸らす人ばかりでしたよ。まともに返してくれたのは、火宮くんだけでした」

「……、……」

「ああ、勘違いしないでくださいね——というか、勘違いはしてないですからね。火宮くんは西城だからそうしてくれるわけでもなく、あなたは誰にだってそうするってきちんとわかってるので。もしかすれば火宮くんの中で自分は特別なんじゃないか、みたいな恥ずかしい自惚れを西城はしてないです。『普通』に対するあなたなりのスタンスを、これでも理解してるつもりですから」

 

 けれど、と西城は続ける。

 

「火宮くんご自身はわかってないかもしれないですが、それって、暗に迂遠にさりげなくそれとなく、西城の味方をしてるってことですよ」

 

 彼女は顔色ひとつ変えず——眉ひとつすら動かさずに、まるで至極当然のことを言うかのような口調のままで俺にそう言った。

 

「別に、俺はそんなつもりじゃ……」

 

 条件反射で否定する言葉を言いさして、黙ってしまう。

 西城の味方をしていると、彼女は言った。勿論俺にそんなつもりなんてない。

 剣道部の苛烈な主将であり、あの龍崎と対立している彼女とはなるべく関わり合いたくないと本当に思っているし、そしてそれは宿木に対しても言わずもがなだ。

 誰かの味方をするということは、それ以外の誰かの敵になるということである。そんなデメリットを被るなんてもってのほかだ。間接的だろうと直接的だろうと、特定の誰か側のポジションに立つという意志なんて、俺にはない。

 俺はただ西城とは——勿論、彼女に限った話ではないけれど——敵とか味方とか関係なく、ただの同級生とはただの同級生らしい適当な距離感を保ちたいと思っている、それだけのことだけだ。

 しかし。

 それだけのことのはずなのに、どうしてか西城の言葉を強く否定できない自分がいるのも、また事実だった。

 

「安心していいですよ。火宮くんは転校してきたばかりですから。多少のずれはそれで理由がつくので、みんな納得してるみたいです」

 

 にわかに黙り込んだ俺の様子に気がついていないのか……あるいは気付いたうえで受け流したのかは俺にはわかりかねるものの、しかしながらこちらの反応に何か思うところがあったらしく、彼女はそんなことを言い出した。

 多少のずれは、それで理由がつく——

 西城はそう言った。

 ずれているのだろうか、俺は。

 転校生という肩書がなかったら、それで違和感を持たれてしまうほどに。

 

「だからまあ、普通に見てればわかることにさえ気付けない人は、あなたのことをレッテルでしか見てないということなんでしょうね」

 

 彼女は、やはり表情を変えることもなく、クールなままにそう言った。

 

「ただ、逆に言えば気付く人はすぐ気付くということなので、隠し通したいなら気をつけたほうがいいですよ。火宮くんが宿木さんを見る目、かなりわかりやすいですから」

「え……」

 

 そんなことを言われて、俺は思わず指先で自分の顔に触れる——このとき感じた焦燥も、浮かべた表情から西城に伝わっているのだろうか。

 普通に見ていれば、わかること。

 それは、ただ単に視るという意味ではなく、例えば偏見や先入観——彼女が肩書と呼んだ、いわゆる色眼鏡という名のフィルターを外すという意味なのだろう。

 俺に貼られているレッテルとは、気さくで、人当りのいい、火宮という資産家一族の生まれではあるけれど、それを感じさせないほどに平凡なクラスメイト……おそらくは、そんなところだろう。

 そしてそれは、俺にとっては望ましいことである。俺は普通の高校生でありたいし、誰からもそんな風に思われたい。憶えている限り一番古い記憶のころからただそれだけを願ってきた人生だったし、これからもそうでありたいと祈っている。

 けれど。

 気さくだとか、人当りがいいとか、資産家一族の生まれだとか、平凡なクラスメイトだとか——そんなフィルターを外してしまっている西城の瞳には、いったい、俺はどんな風に映っているのだろう。

 

「まあ西城的には誰が味方とかわりとどうでもいいことですし、火宮くんが味方をしてくれたって特段うれしいわけじゃないので——戯言と思って聞き流してくれて構わないのですよ」

 

 それでは、と言って彼女は踵を返した——これ以上引き止める理由もないし、あまり一所に留まっていては悪目立ちしかねない。最終的に向かう先は同じ教室だとはいえ、西城が先に去ってくれるというのならそれ以上のことはないはずだ。

 だというのに、気がついたときには、

 

「西城は」

 

 と、俺は声をかけてしまっていた。

 

「西城は——どうして、普通でいられるんだ?」

 

 その問いかけは、半ば反射的に投げかけたものだったので、何かしらの意図という意図があったわけではないのだが……それだけに、きっとそれが俺の一番訊きたかったことなのかもしれないと思った。

 直前まで逡巡していたせいで言葉の足らない問いになってしまったけれど、足を止めて振り返った彼女は、それでもこちらの真意を察してくれたようだった。

 

「死ななきゃ安いもんですから、何事も」

 

 それはまるで、日本で最も高い山は富士山だというような、あるいは三角形の内角の和は百八十度だというような——そんな風に、さながら常識を説くかのように自然な調子で、西城はそう答えた。

 死ななければ、安いもの。

 彼女のその回答を、俺は以前にも耳にしたことがある。

 それはおおよそ二週間前の、教室での出来事。そのときに尋ねたのは担任の椎本先生で、そして先生は彼女のそんな回答に絶句していた。

 俺も、言葉を失う。

 自分の席に傷をつけられようと、上履きのスリッパがずたずたに切り裂かれようとも、机の上に花瓶を置かれようとも——死にさえしなかったら構わないとでもいうのだろうか。

 

「その昔ね、西城は病弱だったんですよ」

 

 唐突に、西城はそんなことを切り出した。

 

「お医者さまが匙を投げかねないほどの大病を患い、結果、まあ一命を取り留めたんです」

「……それが、今では剣道部の主将?」

「はい。お医者さまにも両親にも足を向けて寝られないですね」

 

 病弱だった幼少時代。

 正直なところ、剣道部でのことは当然聞き及んでいるとして、普段体育の授業を受けているときの西城も知っている立場からしてみたら、あまり想像できないというのが本音だ。

 

「つまりはそういうことです」

「は?」

「それに比べれば、宿木さん程度のすることなんてお可愛いものじゃないですか」

 

 ようするに『死ななきゃ安い』という発言は、実際に九死に一生を得た経験のある彼女だからこそ口にできる言葉そのままの台詞ということなのだろう。

 ……というかこいつ、さりげなく宿木さん『程度』って言ったな、今。

 

「とはいえ、もしも直接手を出してきたなら——そのときは、容赦するつもりもないですが」

「え?」

 

 物騒な響きのあるその発言に、俺は反射的に聞き返した。

 それもまた、聞き覚えのある台詞ではあったのだが。

 

「火宮くんはご存知ですかね」

「何を?」

「竹刀でも人は殺せるんですよ」

 

 西城はそう言って、うっすらと唇を歪める——それは日本人形めいた色香をもつ彼女にはあつらえたようにふさわしい、無意識下にぞくっとしてしまうような、どこか退廃的な微笑だった。

 

「それでは、西城はこれにて失礼するです。お先に」

 

 そして西城は、今度こそ俺の前から去っていく。すたすたと廊下を歩いていくその後ろ姿を見送って、俺はため息をついた。

 なんていうか……恐ろしいというよりは、危うさのある女だよな。

 ひと呼吸置いてから、俺も教室へと向かうことにした。

 

「あ、おはよー」

 

 既にあんずは教室に来ていた。彼と挨拶を交わして、俺は自分の席に着く。

 先ほど俺は、西城に向かってとっさに、あんずを待っているのだと言ったけれど、こうして彼のほうが先に登校している以上、玄関での俺の発言は完全に嘘だということが彼女に露見してしまったことだろう。

 ちらりと視線を向けるも、西城はこちらを見ようともしない。……いやまあ、どうせ最初からばれてはいたのだろうが、なんとなく気まずいものがある。

 あんずが学校に来ているかどうかだけでも、彼の靴箱を開けて確認すればよかったかな。

 

「……遥、なんだか少し顔色悪い? 大丈夫?」

「え? ああいや、大丈夫」

「でも昨日までは普通だったし……もしかして何かあった?」

「あるにはあったけど、大したことじゃないよ」

 

 それにもう解決したようなもんだし。俺がそう言うと、そっか、とあんずは頷いた。

 

「なあ、あんずって何人兄弟だ?」

「僕? 僕はひとりっ子だけど」

「ふうん……」

「そういう遥は?」

「社会人の兄貴と大学生の姉さんがいる。だから三人兄弟だな」

「じゃあ遥は末っ子なんだね。ちょっと意外かも」

 

 彼はどこか興がるような口調でそう言う……意外なのだろうか。それらしい素振りをしているつもりはないのだが。

 あるいは、それもまた色眼鏡の話になるのだろうか。

 あんずの目には、はたして俺はどんな風に見えているのだろう。

 ほんの少しだけ気にはなったものの、まあ友人の兄弟構成なんて深く考えるものでないし、難しく捉える必要はないかと思い直した。

 

「で、それがどうかしたの?」

「いや、気になっただけ。先週天野の姉に会ったから、なんとなく思い出して」

「……天野さん?」

「零っていう双子の姉がいるんだよ。あんずは知ってたか?」

「ううん、初めて聞いたよ。そっかー、双子かー。やっぱりそっくりだった?」

「……いや」

 

 言葉を区切り、一拍置いてから、俺は答えた。

 

「似てなかったよ、全然」

・・

レッテル

フィルター

* * * * *

​ 

 

 四時限目の憂鬱な体育を終えて、昼休み。髪が湿ったままなのでフェイスタオルを肩にかけつつ、俺は普段と変わらない足取りのままに屋上へと向かう。

 そこには——

 

「あ、ハルカ先輩! こんにちはっ」

 

 そこには、天野唯がいた。

 いつも通りの、無邪気な笑顔を浮かべて。

 しばらくのあいだ欠席していた彼女が復帰したのは先週の木曜日——六月十一日のことだった。

 唯はまだ学校に来ていないのだろうと勝手に判断して、その日も俺はあんずとふたりで昼休みを過ごしていたのだが、しかし放課後いつものように旧校舎を訪れたところで、彼女もまたひょっこりと俺と雄助の前に現れたのである。

 なんだかお久しぶりだね、と彼女は笑った。その笑顔もこれまでとなんら変わらないもので、俺は少しほっとしたのを憶えている。

 まるで帰るべき日常に帰ってきたかのような——あるいは、返ってくるべき日常が返ってきたかのような、そんな気がした。

 唯が欠席していたあいだのことを、俺も雄助も、そして翌日の昼休みに再会したあんずも、誰ひとりとして触れなかった。訊いてみたところで知りたい答えはきっと返ってこないのだろうという、半ば確信めいたものをみんなが抱いていたからなのかもしれない。

 事件はもう解決している。なら、それでいいじゃないか。

 だから結局、俺たちは以前と何も変わらない日常を送っている。それでもしいて特筆事項を挙げるとするなら、俺が彼女の呼び方を『天野』から『唯』に変えたことくらいだろうか。

 そのときの彼女のリアクションはなんとも筆舌に尽くしがたいものだったのだけれど、ひとまず台詞だけでも切り抜いてみるとするならば……。

 

『はわわわ、はわーっ! な、なんで! どうしてっ、ハルカ先輩がっ、わたしのことっ、ユイって呼ぶのかなっ!? うそうそうそうそ、これは夢だよ! じゃなきゃバグだね! わわわたわたわたわたし、頭がフリーズしてます! 三つのキーを押して再起動をお願いします! あれあれ、あれれっ、コマンドが発動しません! きゃー!? なんでなんで、どうしてーっ!』

 

 ……うん、まあ。

 大体こんな感じである。

 あの雄助がドン引きするくらいにはテンションのメーターが振り切れていたと言えば、その半端なさを伝えることはできるだろうか。

 ファーストネームで呼んだり呼ばれたりするのって、そんなに重大なことなんだろうか……。双子の姉との区別をつけるため以上の意図はなかったのだが、さすがにそんなことを言い出せる空気ではなかった。

 

「あれ? 萩原先輩は?」

「なんか教師に呼び出されたっぽい」

「えっ、どうしたのかな」

「三年になればたまにあることだよ。相談なり面談なりで」

「あ、なるほど。進路のお話なんだね。萩原先輩は進学希望なの? それとも就職?」

「うん? ……そういえば聞いたことなかったな」

 

 そういえば、あんずとは進路の話をしたことがなかったと、今更ながら気がついた。俺自身、実家の事情を説明したくなくてそういう話題をなんとなく避けていたところはあるのだが、もしかしたら彼はそんな俺の気持ちを汲み取ってくれていたのかもしれない。

 西城は俺のことをいい人だと言ったけれど、その言葉は俺じゃなくてあんずにこそ似つかわしいものだと思う。

 真実、優しくていい人だ。

 彼が友人になってくれてよかったと、素直に思える。

 

「ハルカ先輩は?」

「俺は就職」

「そうなんだねー。どんなお仕事?」

「普通のリーマンだよ。だから目下の目標は資格取得になるかな」

 

 まあ白状してしまうと、低学歴だろうが無資格だろうが未経験だろうが、火宮本家の生まれというだけで、それなりのポストに就けることはほとんど約束されているも同然なのだけれど、それではさすがに周囲から非難されかねない。

 向上心や出世欲があるわけでなし、特別有能視されたいとも思ってはいないものの、自分にとってアンチになりかねない芽は摘み取れるうちに摘み取っておいたほうが将来的にはメリットが大きいだろう。そうじゃなくても資格なんて取れるだけ取ったところで損するものではないし、元より俺自身家柄にあぐらをかくような真似はしたくないのでそのあたりは多少真面目にいかせてもらうつもりだ。

 そんなことを考えながら、俺は昼食のクリームあんパンにかじりつく。唯もいつも通り、ベンチの隣に座って手製の弁当を食べていた。

 いつもと同じ昼休み……ただ、今日はあんずがいない。おまけに、今にも雨が降り出しそうなほどに暗く灰色に濁っている曇り空のおかげで、普段ならちらほらと見かけるはずの生徒たちの姿も今はどこにも見当たらなかった。ただでさえ長く続いている梅雨のせいで空気がどこか重苦しくなっているのだ。そりゃあみんな、クーラーの効いた教室からわざわざ出ようとはしないだろう。

 だから、ここには俺と唯のふたりだけだ。

 

「…………」

 

 踏み込むなら、今しかないのかもしれない。

 

「なあ」

 

 と。あくまでも声音は何気ない風を装うようにして、口を開く俺。

 

「うん? 何かな?」

「俺は、十年前にお前と会ったことがあるのか?」

 

 それは彼女の姉——天野零にも、つい先週問いかけたばかりの質問だった。

 一週間前に済ませている質問。俺はそれを、妹にも繰り返す。

 十年前の夏に出会っていたと姉は答えた。問答は既にそこで終わっている。だからこれは回答を知るためでも疑問を解消するためでもない、唯本人にも確かめなくてはならないという、ただの確認行為なのだ。

 ——火宮さんはユイと初めて会ったときのことを憶えていますか?

 思えば、そんなことを尋ねてきた零が、俺の答えに不自然な沈黙を返してきた理由も、今ならわかる。あの問いかけこそ、確かな回答を得るためではなく、ただ見定めるために投げかけられたものだったのだろう。

 俺が唯のことを憶えていないという、その事実を確認するために、彼女は鎌をかけたのだ。

 意図は理解した。けれど、やはりわからない。

 だって何度も記憶を探っても、幾度となく記憶をたどっても——俺の記憶に、金髪の少女はいないのだ。

 そもそも十年前……俺が小学生のときの話だというのなら、そのころは関西に住んでいたはずだ。これは姉さんにも確認したので覆しようのない事実である。葛城の施設で暮らしていたという唯と出会う機会なんてほぼないに等しい。

 百歩譲ってあったとしても、彼女のことがまったく記憶にないというのが既におかしい話なのだ。いくら十年経っているとはいえ、そして俺が転校の多い子供だったとはいえ——外国人の子供と出会って交流していたというのなら、たとえそれがうろ覚えだとしても、なんとなくでも憶えているほうが自然だろう。

 記憶違いを起こす余地なんてないのだ。

 はたして本当に——本当に、俺は天野唯と出会っていたのか? まだしも姉の虚言だと思ったほうが現実的というものだ。

 そんなことを考えつつ、投げかけた質問だったのだけれど、

 

「思い出してくれたのっ?」

 

 意気込むようにしてこちらに向いた彼女の瞳と視線が交差して、俺はそれ以上、何も言えなくなってしまった。

 金色に縁取られた目の奥には、期待と希望の入り混じった淡い光が浮かんでいた。それを直視できなくなった俺は彼女から視線を背けて、歯切れ悪く言葉を続ける。

 

「いや……そういうわけじゃ、ないんだけど」

「そっか……」

 

 どこか気の抜けたような唯の声が耳に届くと同時に、こちらに乗り出していた身体を元の位置に戻す気配を感じた。

 

「……悪いな」

「ううん! だって、もう十年も前の話だもん。十年なんて一昔だよ、一昔!」

 

 いつもと変わらない明るい調子で唯はそう言った。俺はそんな風に振る舞う彼女へと再び視線を向ける。笑顔でこちらを見つめている唯には、慌てて空元気を出しているとか、無理に虚勢を張っているだとか、少なくともそういったマイナスの色は見受けられない。

 表情にも挙動にも、不審な素振りは見えないように思えた。

 

「ハルカ先輩がわたしのこと忘れてるのは、ほんのちょっとだけさみしいけど——大切な思い出は、今もちゃんとここにあるもの」

 

 そう言って、彼女は、自身の胸のあたりに手を当てる。

 

「わたしはきっと、これからもずっと憶えてるよ」

 

 天野唯は。

 ほんの少しだけ寂しげに目を細めて——けれどその眼差しは決して悲しげなものではなく。

 まるで眩しいものを見るかのように——あるいは遠いところにある何かを見るかのような。

 はにかむように白い頬をほんのりと桜色に染めながら、見ているこちらが思わずくすぐったくなってしまうくらいの、そんな微笑を浮かべた。

 普段から楽しげに、無邪気に笑っている彼女だったけれど、そんな風に切なげな……刹那的な笑みをたたえている唯を目にするのは、これが初めてだった。

 我にもなく、俺はその笑顔に目を奪われる。

 

「…………」

 

 十年前の夏に、本当に俺と彼女は出会っていたのだろうか。万にひとつ実際に会っていたとして、俺がそれを憶えていないというのはどういうことなんだ。

 考えられる可能性はふたつ。ひとつは、単に俺が思い違いをしているだけという線。

 天野唯には会ったことがないと、俺が思い込んでしまっている。この公算はそれなりに大きくはある——けれど、やはり何度論理的に思考し直してもありえないものはありえないのだ。転勤族で古鷹から離れていた俺が葛城にいる彼女と関わりがあったなんて考えられない。

 もうひとつの可能性は、勘違いをしているのは唯のほうだという線。彼女が十年前に出会ったのは火宮遥ではないという可能性だ。

 先ほどの線がなくなった以上、俺の立場としては勿論これが最有力ではある。……しかし、だとするなら唯はどうしてその対象を俺だと誤解しているのだろう。彼女だけならともかく、姉である零まで俺だと信じて疑っていない様子だった。

 思えば、初めて会ったとき——これは俺の記憶にある限りでの邂逅という意味だが——唯はどこか落ち着きのない素振りをしていたように思う。それはようするに、彼女はそのとき既に、俺が火宮遥だと気付いていたということなのではないか。

 忘れていないと姉は言った。ずっと憶えていると妹は言った。十年前に起こった出来事は、それほどまでに姉妹の記憶に焼きついている。

 考えうるふたつの可能性それぞれに辻褄の合わない理由がある。相反する齟齬の狭間……記憶にない十年前の夏に、俺はいったい何をしたのだろうか。

 ——貴方はあの子にとってかけがえのない唯一。並ぶものなき無二の存在。

 ——嗜好まで影響されているのだから、親というよりはまさに神様みたいよね。

 ——天野唯は、火宮遥を信仰しているんですよ。

 笑いながら俺にそう言ったのは、彼女の姉だった。

 

「…………なあ。ちょっと変なことを訊いていいか、唯」

「へ、あっ……な、何かなっ?」

 

 名前を呼び捨てされるのがいまだに慣れないのか、たどたどしく返事をする唯。週が明けてもう三日も経っているのだからいい加減慣れてほしいと思いつつ、俺は質問した。

 

「もしも……もしもの話、なんだけど」

「うん」

「————お前、俺が死ねって言ったら、死ねるか?」

 

 神経を張り詰めながら投げかけた問いかけに、唯は不思議そうに首をかしげて、それから少し考え込むような仕草を見せる。

 そして。

 

「うーん……さすがにそれは、ちょっと困るかも」

 

 と、言った。

 その答えに、俺は少しばかり拍子抜けに近い感情を覚える——同時に、ひどく安堵している自分がいるのに気がついた。

 きっと笑って死んでくれるだろう。零はそう言っていたけれど……なんだ、やはりただの冗談だったのか。

 勿論、仮に冗談だとしても笑って済ませられるようなものではないとは理解しているものの、とはいえ、唯は普通に断ってくれるという事実がわかっただけで俺は胸を撫で下ろせた。

 そうか——彼女は、俺を崇拝しているわけじゃないんだ。

 結局のところすべて姉の戯言で、俺が過剰に心配をし過ぎていたというだけのことだったのか。

 

「そうだよな……そんなこと、普通できないよな」

「うん。一週間は時間が欲しいな」

 

 唯は笑顔で頷いた——その言葉に、一瞬、思考が止まった。

 

「……一週間?」

「おうちの掃除がしたいし、お金回りもきちんとしておかなきゃだし、お世話になった人たちに挨拶も済ませておきたいし……あ、遺言ノートとかいいかも! うん、やっぱり一週間は猶予が欲しいな」

「…………」

「だから、もしも自殺するならそれからになっちゃうけど、それでもいいかな? あっ勿論、そんなに待てないなら今すぐ飛び降りるから! いつでも言ってねっ」

 

 そう言って、彼女は屋上の柵に触れる。

 その向こう側に足場はない——何もない。

 四階建ての校舎の屋上。地上まで、十数メートル。

 自殺をするなら、十分な高さだ。

 そして唯は、既に一度ここから飛び降りたことがある。

 前科が、ある。

 

「……もしもの話って言ったろ」

「あっ、そうだったね……早とちりしちゃった」

 

 えへへ、と彼女は恥ずかしそうに、自身のそそっかしさをごまかすように笑う。俺には笑えなかった。

 そうしていると、唯はふと表情を変えて、怪訝そうにこちらを見つめてきた。

 

「ハルカ先輩、どうしたの?」

「……え?」

「顔色があまりよくないみたいだけど……」

 

 かすかに眉間に皺を寄せながら、心配そうに彼女は言った。

 顔色がよくない? ……俺が?

 

「わたし、お水買ってくるねっ」

「は? いや、ちょっと待て……」

「先輩はここで休んでて!」

 

 そう言って立ち上がったかと思うと、制止の言葉をかける間もなく唯は駆け足で校舎内へと入っていく。俺はそれを追いかけようかとも思ったのだが——彼女の背中が見えなくなった瞬間、がくりと全身から力が抜けていくのを感じて、諦めてベンチに座り直すことにした。

 

「…………あー」

 

 目の前がくらくらしたのを感じて、柵に背中を預ける。まるで貧血の症状みたいだが、俺は低気圧で頭痛は起こしても貧血は起こさないタイプなので、おそらくこれは精神的なものでしかないのだろう。

 何が驚きかって、思いのほかショックを受けている自分自身に一番びっくりした。まさか、ここまでのダメージを受けるとは。

 火力そのものは、いつかの保健室でのやり取りとそれほど変わらないように思えるものの、なんというか……前回と違って今回は俺に原因があるものだから、体感的にはクリティカルヒットって感じだ。ライフポイントのゲージも黄色くなっていることだろう。

 俺は柵に背をもたれていた体勢から上半身を前に倒し、うつむくようにして足元に視線を向けた。全身がぐったりとした、すさまじい虚脱感に苛まれている。

 結局のところ……全部、天野零の言う通りだったということなのだろう。

 それっぽい屁理屈を並べて否定しようと躍起になったところで、こうして唯本人に証明されてしまっては認めざるを得なくなる。

 俺のやっていることは、この期に及んで往生際悪く駄々をこねていたようなものなのだと痛感させられてしまった——思い知らされてしまった。

 笑えないほどに、滑稽だ。

 と——そのとき屋上の扉が開かれる音が聞こえて、俺は顔を上げようとする。

 

「ん……早かったな。ありがとう、ゆい——」

「言った通りだったでしょう?」

 

 顔を上げて。

 目の前に立っていたのは、金髪の少女だった。

 

「——零」

「ええ、天野零。ごめんなさいね、ユイのほうじゃなくて」

 

 そう言って、少女——天野零は、いたずらっぽく笑った。実に、一週間ぶりの再会である。

 同じDNAを持っているために唯とうりふたつである彼女を、それでも姉のほうだと反射的に確信した理由については言葉にするのが難しい。しいて言うなら、自販機は一階にしかないのに屋上に戻ってくるのが妙に早かったから、という違和感から推察できたと説明できるのかもしれないが。

 とはいえ、やはり……決定的だったのは、零の目だろうか。

 こちらを見透かすようなその目つきは、彼女が唯ではないと直感するに足るものだろう。

 不意に、零はきょろきょろと周辺を見回すと、

 

「萩原さんはいらっしゃらないのね」

 

 と、何気ない風に呟いた。

 

「……あんずのこと、知ってるんだ」

「ユイから話は聞いてるもの。あの子と親しい人の名前くらい憶えてるわ」

「ふうん」

 

 まあ確かに、友達の友達とか、会ったことなくても案外名前を憶えているものだしな。俺たちといるときは聞き役に徹することの多い唯だが、姉と過ごすときは年相応の女の子らしくお喋りだったりするのかもしれない。

 

「ところで火宮さんは、ひょっとして健忘症なのかしら。まだ高校生なのにお可哀想に……一度お医者さまに診ていただいてはいかが?」

「は? 何かな、突然」

「だって、どうやら私の警告をお忘れになってるみたいだもの」

「…………」

 

 先週——ちょうど一週間前の水曜日のこと。

 放課後、天野姉妹が暮らす自宅の中で、零は俺に向かってこう言ったのだった。

 

「貴方のこと、死ぬほど大嫌いだったのよ」

 

 そして。

 

「今日、貴方を家に呼んでまで言いたかったことはただひとつ。……今後一切、あの子には近付かないで」

 

 と、そんな風に続けたのである。

 

「十年前に貴方がユイを裏切ったこと——私は、忘れてないわ」

 

 その言葉は彼女の言う通り、まさしく警告と呼ぶにふさわしい台詞だった。勿論、俺も憶えている。

 憶えてはいる、けれど。

 

「俺が君の言うことを聞く義理はないと思うけどね……そもそも俺から近付いてるんじゃなくて、向こうから寄ってくるんだよ」

「なら拒絶なさいよ。貴方だって鬱陶しい後輩に付きまとわれて、いい迷惑だったんじゃない?」

 

 肩をすくめてそう言った俺に対して、零は皮肉げな微笑を浮かべた。その笑みに、案外よく笑う少女だなという感想をなんとなく抱く。彼女の妹とよく似て。彼女の妹に負けず劣らず。

 けれどその笑顔に込められている意味は、きっとベクトルが真逆なのだろう。少なくとも、俺に対しては。

 

「気になってたんだけどさ……その十年前に、俺が唯をどう裏切ったわけ?」

「あら、それすら忘れてしまってる人に、私が素直に教えると思う?」

「あっそう。じゃあいいよ」

 

 訊いてはみたものの、果たせるかな零は答えてくれなかったので俺はそう言ったのだが、

 

「約束を破ったのよ」

 

 と、彼女は唐突に、そんな短い言葉を口にする。

 

「え?」

「だから、貴方はユイとの約束を破った。それだけのことよ」

 

 どうやらそれは、俺の問いに対する答えだったらしい。

 ……何なんだろうな、これは。たぶんだけど、この姉の性格が天邪鬼というよりは、ただ単に俺に逆らいたいだけなのではという気がする。

 

「約束って、どんな」

「さあ。少しは自分で思い出そうとしてみたら?」

 

 零は嫌らしく微笑み、ただ、と言葉を続ける。

 

「そのときユイが抱いた絶望を、私はずっと——一生、忘れたりなんてしないわ」

 

 貴方が憶えていないと言うのなら、余計にね。彼女はそう言った。

 

「……唯も、憶えてるのかな」

「勿論。とはいえ、あの子は例によって例のごとく、記憶と認識を自分に都合のいいように改竄しちゃってるから。訊いても当てにならないと思うわよ」

 

 記憶の改竄。認識の改変。

 憶えていることを、感じたことを——なかったことに。

 

「…………」

「大切な妹が、かつて彼女を裏切った憎らしい男を慕ってるのに、当の本人は何も憶えてなくて。そのうえ妹を拒絶するでもなくそばに置いている——ねえ、火宮さん。私の気持ち、貴方にわかるかしら?」

 

 あくまでも微笑を崩さないままに、けれどありったけの毒を含めたような口調で、零はそう尋ねてきた。彼女は立っていて、俺はベンチに腰かけたままという体勢も相まって、なんとなく見下されているように感じる。

 事実、蔑まれているのだろうけれど。

 

「君が直接言えばいいんじゃないか? その大切な妹とやらにさ」

「以前ならそれも可能だったんでしょうけど、今となってはもう駄目ね。あの子に私の言葉なんて届かないわ」

「どうして」

「貴方と出会ってしまったからよ」

 

 一切の迷いもなく、零はそう言い切った。

 まるで、とっくの昔に用意していた答えを説明するかのように。

 

「言ったでしょう? あの子にとって、火宮さんは本当に特別なのよ。死ねと言えば死ねるくらいには心酔してるって、さっきのやり取りで証明されたところじゃない」

「…………」

「貴方だけが、ただひとつの篝火なのだから」

 

 ……いつから、彼女は俺たちの会話を聞いていたのだろう。唯がこの場を離れたというタイミングで計ったように現れたことからも察するに、零はたまたまここに来たわけではないということは、火を見るよりも明らかであるけれど。

 いったい彼女は何を思って、俺と妹の話に耳を傾けていたのだろうか。

 するとそのとき、やおら、天野零は先ほどまで浮かべていた笑みを消す。

 

「私が何より不愉快なのは、貴方のその曖昧な態度よ。ユイの好意を知りながら、応えもせず拒みもせず……いったい何をなさりたいのかしら」

 

 俺に対する苛立ちを隠そうともしない口調でそう言うと、突然、彼女はこちらの耳元に口を寄せてきた。そうすることで、柑橘系のような例の芳香が、こちらにまでふわりと甘く香ってくる。

 とっさに距離を取ろうとする俺の機先を制するように、零はそっと口を開いた——誰もいない屋上だというのに、まるで内緒話をするかのように。

 

「ねえ、ユイの神様? 貴方が神だというのなら——とっとと、あの子を殺してしまいなさいな」

「……殺すって、何言ってるんだよ」

「何も本当に殺せって言ってるわけじゃないわ。殺めるべきは恋心……貴方がとどめを刺しさえすれば、簡単に事切れて死んでしまうものよ」

「……それが姉の言うことなのか?」

「姉だからこそなのだけれどね。私の行動はいつだってあの子を思ってのことだし、私の言葉はすべてあの子の思ってることなのだから」

「…………?」

 

 零のそんな台詞に、ふと、妙な違和感を覚えたような気がした。何かがずれているような、決定的に異なっているような、そんな違和感を。

 なんだろう。ただの言葉の綾か、あるいは俺の思い過ごしか……?

 

「とはいえ、私の言ってることが全部嘘だって可能性も、勿論あるから……ゆめゆめ、お忘れにならないようにね?」

「…………」

「せいぜい疑心暗鬼になるといいわ。私はそれを、客席から笑ってあげる」

 

 すっと、彼女は身体を引いた。その顔には既に笑みを浮かべている。

 

「主演・火宮遥による、とびきり滑稽な喜劇——これでも私、とっても期待してるのよ?」

 

 そう言うと、天野零は嘲りと蔑みを込めた冷笑で唇を歪ませる——端麗なビスクドールのような彼女の顔は、その笑みにどれほど酷薄な色をたたえようとも、思わずぞっとしてしまうほどに艶やかな美しさがあった。

 零と対峙したのはこれで二度目だが、やはり何度見ても唯と同じ顔をしているとは思えないなと、俺はあらためて思う。きっと何度相対したところで、そのたびに同じ感想を抱くのだろう。

 

「……君の期待に応えられたらいいんだけどね」

 

 努めていつもと変わらない調子を装って、俺はそれだけを返す。けれど彼女は何も言わずただ静かに微笑を浮かべるだけだった。

 おそらくは、虚勢を張っているのが見透かされてしまっているのだと思う。小面憎い後輩である。

 零はおもむろに、無言のままに踵を返すと出口へと歩き出した……と、てっきりそのまま屋上を後にするのだろうと予想していたのだが、しかし不意に身体を半分だけ捻って、

 

「ああ、そうだ。ひとつ大事なことを言い忘れてたわ」

 

 と、こちらに向かって言った。

 

「今度はなにかな」

「ユイは処女よ。ほかの人たちのことはどうか知らないけれど……少なくとも竹河さんにとって、私たちはまだその段階じゃなかったみたい」

 

 よかったわね、と嫌味に笑い、彼女は今度こそ階段を降りていった。それを見送ってから、俺はため息をついて空を仰ぐ。まったく……最後の最後で、とんだ爆弾を落としてくれたものだ。

 よかったか悪かったかで言えば、そりゃあ、よかったと答えるほかない。けれど単純な善し悪しで軽々に判断していい話ではないというのも、また事実だ。

 程度はどうであれ、唯が傷つけられたことは変わらないのだから。

 ほかの被害者と比較して『彼女はまだましなほうだ』と思う行為に意味なんてないし、そんな風に、相対的に考えること自体がナンセンスというものだろう。

 とは言うものの、段階——段階、か。

 雪村も言っていた。竹河たちが最終的に目的としていたのは、女子たちを利用してドラッグを売買することにあったと。

 それについてはいかに俺といえども、双子がその段階まで巻き込まれていなくてよかったと、素直に思わざるを得ない。

 しかし……結局、零は何がしたかったのだろう。

 再度警告を繰り返すため、というのは勿論あるのだろうけれど——なんだろう。純粋な嫌がらせというか、ただ単に俺のヘイトを買いたいだけな風にも感じられた。

 案外、彼女に翻弄されているこちらを見て楽しんでいるだけ、というのが実際の真相なのかもしれない。やれやれだ。どうやらあの姉は本当に俺のことが気に入らないらしい。

 

「ハルカ先輩!」

 

 と、そのとき。先ほど零が出ていった屋上の扉が再び開かれて、唯が戻ってきた——今度こそ、確かに天野唯である。

 ベンチまで寄ってきた彼女の呼吸は乱れていて、額には薄く汗をかいていた。

 

「お水ね、買おうとしたんだけどっ……ちょうど、売り切れてて……!」

「いや大丈夫……むしろお前のほうが必要だろ」

 

 俺が頼んだわけではないとはいえ、後輩の女子を無駄にパシらせてしまったかのようで、さすがに罪悪感を覚えた。

 唯は俺の隣に座ると、暑いねー、なんて漏らしつつ呼吸を整え始めた。そりゃまあ、一階から屋上までの距離である。彼女のことだから校舎内を走ったりはしなかっただろうが——だからこそこんなに時間がかかったのだろう——階段の昇り降りを含めた長距離移動だ、身体が火照るのも当然だろう。

 いたわるように唯の背中をさすってやりながら、俺は先の出来事を思い返す。

 質問に答えてくれるとは思っていなかったし、実際、俺が退かなければきっと答えてくれなかっただろうという確信もあるけれど——結果として、天野零は解答を寄越してくれた。

 俺が犯した唯への裏切りとは、彼女との約束を破ったこと。

 そしてこの少女は——それを忘れてはいない。

 

「……あのさ」

「あれっ?」

 

 俺が何かを言いいかけたそのとき、唯は不意に顔を上げて、小さな鼻をくんくんとさせた。

 

「先輩、誰かとお話してたの?」

 

 その言葉に、一瞬どきっとした。

 あのシトラスのような香りが俺の身体に移っているのだろうか……いやしかし、自分も姉と同じシャンプーや柔軟剤を使っているだろうによく気がつくな。

 

「誰とも会ってないけど」

 

 そう答えれば、そっかー、と唯は頷いた。

 

「…………」

 

 先週に彼女たちの自宅を訪れたことは、唯には伝えていない。自分が留守をしているときに家に上がり込まれた挙句、そこで実の姉とこそこそ密談めいたことをしていたなんて知ったら、いい気はしないだろう。

 だから、彼女には何も伝えていない。そしてそれでいいのだと思う。天野零と俺のあいだに生じている不和なんて、唯は知らなくていい。

 すべて世は、事もなし。

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