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 階段のあたりで唯と別れ、俺は自分のクラスへと向かう。隣の席のあんずも、昼休みのあいだに面談を終えていたようで、既に教室に戻ってきていた。

 いつものように彼と取るに足らない談笑を彼と交わしつつ、さて、そろそろ我らが椎本先生による授業の準備を始めようかと思った——そのときだった。

 

「西城さん!?」

 

 突如として、悲鳴のような女子の叫び声が後方から上がった。……なんだか、前にもこんなことがあったような気がするな。なんて思いながら、その瞬間は特に驚くこともなくそちらへと目を向けたのだが、しかしそれを視界に入れたとき、俺は素で吃驚してしまった。

 振り向いた視線の先、そこにはおおかたの予想通り西城花姫がいたのだけれど、彼女と向かい合うようにして立っていたもうひとりが、あろうことか東屋香織だったのだ。

 地味でこそないもののおとなしめな性格で、周りの空気に順応することが上手な、どこまでも普通な女子——そんな東屋が、自分に注目が集まることもお構いなしに声を荒げているのだから、さすがに驚くほかない。あまつさえ、その相手がクラスからほとんどいないもののように扱われている西城なのだから尚更だ。

 そして、何よりも驚愕せざるを得ないのは、その西城のほうだである。

 彼女は——びしょ濡れだった。

 濡れ鼠もかくやといった有様で、肌に貼りついている髪から水滴が滴り落ちては、制服にまだらな染みを増やしている。ゲリラ豪雨にでも降られたのかと思ってしまうほどの惨状だったけれど、今日はまだ雨なんて降ってはいなかった。

 と、そこで俺はふと気がつく。西城がずぶ濡れなのは髪と上半身だけで、それより下はさほど濡れてはいないようだった。

 それはまるで。上から水を被ったかのように。

 

「どうしたのっ、なんでびしょ濡れなの?」

「用を足してたら個室の天井から水が降ってきたんです」

 

 淡々と返された彼女の回答に、一瞬、東屋は息を呑んだように見えたけれど、それでも東屋は西城から目を逸らすこともなく、彼女の頬を伝う雫をハンカチで拭いてやっていた。そんなことをしても焼け石に水だと、東屋自身もわかっているだろうに。

 きっと、彼女は本当に善良な種類の人間なのだと思う。見て見ぬ振りをすることができない——傍観者に徹することができないほどに。

 

「着替えはあるの?」

「いえ、それが——」

「水着で授業受ければー?」

 

 すると不意に、そんな風にからかうような口調の野次が近くから上がる。

 宿木だった。

 その声に、東屋は怯えたようにびくりと肩を震わせる——しかしそんな彼女とは対照的に、西城は宿木のことを歯牙にもかけず東屋と向き直った。

 

「問題ないです。部室に行けば道着があるので」

「そ、それはちょっと……」

「……私の体操服、貸してあげるよ」

 

 そのとき、ひとりの女子生徒がこわごわと、ためらいがちに彼女へと声をかけた。

 

「今日見学だから、持ってきてて」

「いえ、ついでなので。お気持ちだけありがたく」

 

 東屋さんもありがとう、と西城は丁寧に頭を下げてから自分の席へと戻る。そして机の中を何やらごそごそと探ったかと思うと、何事もなかったかのように、振り向きもしないままに教室から出ていってしまった。

 ……ついで? ついでっていうのは、いったいなんのことだ?

 少し考えてみたものの、結局その意図はよくわからなかった。わからなかったところで、俺にデメリットはないのだろうけれど。

 

「あいつ、本気で着替えてくるつもり?」

「さあー?」

 

 そんな思考に気を取られていたところに、宿木と彼女のご友人の声が耳に飛び込んできて、俺は反射的にそちらへと意識を向ける。

 彼女たちはにやにやとした嫌な笑みを口元に浮かべていた。……天野零も似たような微笑を浮かべてはいたけれど、彼女の場合は、混じり気のない百パーセントの敵意を俺にのみ向けていた。それを踏まえたうえであらためて宿木たちを見ると、彼女らの笑い方はなんというか、素で性根の悪さを感じられて、俺としてはそちらのほうが下品に感じられるのだった。

 そんなことを考えていると——突如、がたんと派手に席を立つ音が、教室に響く。

 

「ちょっと宿木! あんたらいい加減にしなさいよ!」

 

 乱暴な口調でそう怒鳴ったのは、クラスの委員長を務めている女子だった。彼女は眉間に皺を寄せて、鋭い眼差しで宿木のことを睨みつけている。

 それは明白に、宿木のことを非難する言葉だった。

 

「はあ? 何? あんた、あたしらがやったって言いたいの?」

「馬鹿言わないでよ。だったら証拠見せてみなさいよ」

「そうよ。しょーこあんの、しょーこー」

 

 けれど、当の本人たちはそうやって怒鳴られようとも悪びれる様子なんて一切なく、臆面もなくいけしゃあしゃあとそんなことをぬかすだけだった。

 

「あんなことするやつ、あんたら以外にいないでしょうが!」

「そんなことないよねえ?」

「ねー」

 

 平然とした面持ちで、ふたぶてしい態度をまったく変えようとしない宿木たちに、委員長はさらに目を怒らせる。

 

「西城さんの席に落書き彫ったのも、上履きを隠したのも、全部あんたらでしょう!」

「そうだって言ったら?」

 

 宿木は、いっそ開き直るかのような口調で、そんなことを言ってのけた。

 

「あんたたちだってさあ、あの女のエルい態度にはムカついてたんじゃないの?」

 

 不遜な態度のままに続けられた彼女の言葉は、まるで委員長に対してだけでなく、この教室にいる全員を見下してせせら笑うかのように悪意に満ちたものだった。

 

「あたしらはあんたたちの代わりに憂さ晴らしをしたげただけじゃん。むしろ感謝してほしいくらいなんだけど」

「ていうかー、自分らだって今までずっと見て見ぬ振りしてきたくせに、今更あいつの味方面するわけ? 変わり身早すぎて草生える」

「そーよそーよ。うちらばっか悪者にしないでくれる?」

 

 こじつけめいた宿木の屁理屈に便乗して、取り巻きの女子ふたりもからかうように横から茶々を入れる——勝手すぎる言い分だし、論点のすり替えも甚だしい。でたらめをこねくり回したかのような詭弁だ。

 けれど、だというのに誰も、何も言い返すことができなかった。

 だってその通りなのだ。先ほど西城にハンカチを差し出した東屋も、今なお西城のために激昂している委員長も——彼女がいい人だと言った俺でさえ、これまでに一度だって、西城のために何かをしてやったことなんてない。

 この教室にいる全員が全員、ただの傍観者に徹することを選んだのだ。

 どれほど詭弁を並べようとも理屈は理屈だ。西城から目を背けてきたことが事実である以上、俺たちには弁解のしようがない。

 だからこそ、みんな黙り込んでしまったのである。ついさっきまで宿木に対してあれほど憤っていた委員長ですら、今はただ、無言で唇を噛み締めている。言い返せる言葉が見つからない様子だった。

 そうこうしているうちに、昼休みの終わりを告げる鐘の音が——五限の始まりを知らせる予鈴が、教室に鳴り響いた。宿木はしたり顔になると、嫌な風に口角を上げたまま自分の席へと戻ろうとする。

 するとそのとき、教室の扉が開かれた。

 開け放たれたのは後ろ側のドアで、みんな一斉にそちらへと振り向く。そこに立っていたのは、果たして、西城花姫だった。

 その人物が西城であると脳が正しく認識した瞬間、あれ、と俺は思わず首をかしげた。というのも、どういうわけか彼女は水浸しの制服姿のままだったのである。髪型こそひとつ結びにまとめているし、手には棒のようなものを持っているけれど、そういった細かな相違点を除けば服装自体はそのままだ。

 ……棒?

 

「なんだ、あれ……?」

 

 ほとんど無意識のうちに、そんな疑問が口から漏れていた。

 それは長さ一メートルくらいの黒い棒だった。目を凝らしてみると小口部分は六角形になっていることに気がつく。だから、形状としては細長い六角柱といったところだろうか。

 

「……あれ、確か剣道部がトレーニングのときに使う道具だよ」

 

 と、それまで事の成り行きを静観していたあんずが、小さな声で教えてくれた。

 そういうものがあるのかと、場違いにも、俺は素直に感心してしまった。

 

「…………いや。なんでそんなもの持ってきたんだ? 着替えに行くって話じゃなかったっけ、彼女」

「それは僕にもわかんないけど……でもすごいね、西城さん。あれ金属製だから、ものによっては重さ十キロもあるんだって」

 

 彼の話を受けて、俺は再び西城へと視線を向ける。十キログラム。バーベルシャフトの半分と考えれば大した重さではないような気もするけれど、しかし実際のところは口で言うほど容易なことではないだろう。にもかかわらず、彼女は涼しい顔をして、普通に片手で持ち歩いていた。

 とはいえ、いずれにせよそんな棒を持ってきた西城の意図は読めない。これは俺だけじゃなくて、教室にいる誰もが同じように彼女の行動をはかりかねているらしく、先ほどまで勝ち誇ったような笑みを浮かべていた宿木でさえいぶかしげに西城の動向を注視していた。

 自分に集まる視線をまったく意に介していないといった様子で、彼女はごくごく自然な歩調のまま自分の席へと戻る。そして机の中からスマートフォンを取り出した。……え? スマホ?

 思いもよらない西城の行動に、皆一様に当惑する——そのときだった。

 

『西城さんの席に落書き彫ったのも、上履きを隠したのも、全部あんたらでしょうが!』

 

 突然、教室に女子の怒鳴り声が響く。

 それは先ほども耳にしたばかりの委員長の怒声だった。言うまでもなく、彼女が一言一句違わずまた同じ台詞を叫んだわけじゃない。どころか、唐突に自分の声が聞こえてきた当の本人が一番面食らっていた。

 そのとき、俺は不意に、あの日のことを——旧校舎で竹河と相対した日のことを、思い出した。

 あの日。雀はロッカーの中に身を潜めて俺たちの会話を録音していた。あのときあいつに隠れてもらったのはリスクマネジメントを兼ねてのことだったけれど、本来、録音するだけなら端末のそばに人がいる必要はない。レコーダーアプリでも使って、あとはしばらく放置していればいいのだ。

 西城花姫が——今、そうしているように。

 

『そうだって言ったら?』

『あんたたちだって、あの女のエルい態度にはムカついてたんじゃないの?』

『あたしらはあんたたちの代わりに憂さ晴らしをしてあげただけじゃん』

 

 西城は無表情だった。怒るでも悲しむでもなく、顔色ひとつ変えないままに、スマホから再生される音声に黙って耳を傾けている。

 やがて、録音も終わりを迎えた。

 

「……ふむ」

 

 端末から顔を上げると、彼女は宿木のほうへと視線を向けた……切れ長の目で真っすぐに。さながら、試すような眼差しで。

 

「さて、どうするです? ひと言謝ってくれるなら、西城的には許してあげなくもないですけど」

 

 宿木たちの席に近付いていきながら、西城はそう言った。口調はあくまでも淡々としたそれだったけれども、どこか圧のようなものは感じざるを得ない。

 しかし、それに対して宿木は、

 

「……ハッ。そんなの、こっちから願い下げだわ」

 

 と、鼻で笑うだけだった。

 

「あんたなんかに何を謝って、どう許してもらえって? なめんじゃねーよ、カス女が」

 

 罠——そう、彼女は西城が講じた策にはまったようなものだ。けれども宿木はどこまでもふてぶてしい態度を崩さない。

 完全に開き直っている彼女の回答に、それでも西城は、ですか、と静かに頷くだけだった。

 そして。

 

「——ほな、いてこましたろか」

 

 そんな声が聞こえた。

 声の主が誰かなんて考える隙もなく——次の瞬間には、西城は宿木のすぐ正面にいた。

 え、と宿木が間の抜けた声を漏らす。そこに間断なく、彼女は右腕を振り上げた。

 十キロはあるという鉄製の棒を手にした右腕を、振り上げて——

 そして、勢いよく振り下ろす。

 

「————ッ!?」

 

 声にならない悲鳴を上げて、間一髪、宿木は転げるようにして鉄棒を避ける。あと一秒でも反応が遅れていたらたぶん……いや、間違いなく脳天に打ち込まれていたことだろう。

 彼女が避けたことで振り下ろされた鉄棒は机に直撃し、重く鈍い音が立つ。派手に耳障りな音を教室に響かせながら、宿木の席は横にひっくり返った。

 無様に床へと転がった彼女に、西城は一瞬だけ視線を向けると、即座に追撃行動に移る。一歩、足を踏み込んでから鉄棒を振りかぶり——再び、振り下ろした。

 

「ひ、いぃいい!」

 

 宿木は情けない叫び声を上げながら、教卓を盾にするようにその後ろへと逃げ込む。しかし西城は、あろうことかなんの躊躇もなく、一切力を加減することなく教卓を蹴り倒した。

 室内に、再び激しい物音が響き渡る。中に入っていた座席表やら学級日誌やらの書類を散乱させながら、彼女に蹴られた勢いのままに教卓が吹っ飛ぶように横転する——それによって強制的に、宿木は姿を現すことを余儀なくされてしまった。

 盾にできるものも、隠れられる場所も、もうどこにもない。

 

「無理無理無理無理! 待って待って、ちょっと待って!」

「あ? なんやねんな」

 

 今にも彼女の頭蓋骨を砕かんばかりに鉄棒を振りかざしながら、けれど西城は、そこで一旦動きを止めた。

 言葉遣いが、いつもの敬語ではない。訛っている。しかしそれは雀とは違って、このあたりの方言ではないようだった。

 関西弁だろうか……と。そこまで思考して、そういえば、と俺は思い出す。

 そうだ。いつだったか、西城本人が教えてくれたことじゃないか。彼女の両親は関西出身で、いつもの喋り方はそれをごまかすためのものだと。

 つまるところ、これが西城本来の、素の話し方だということか。

 

「待て言うなら待ったるわ。今謝るんなら、まだ間に合うさかいに」

「あ、あんた……何するつもりなのよ!」

 

 宿木は腰を抜かしてしまったのか、這いずるように後ずさってそう喚いた。つい先ほどまで見せていた余裕綽々な態度が、今はもうどこにも見られない。けれどまあ、それも仕方のないことだろう。未来の世界の殺人型アンドロイドのように無表情で淡々と襲われ続けたら誰だってびびる。

 さすがにほんの少しだけ宿木に同情してしまうものの、だからといってふたりのあいだに割って入るような度胸のあるやつなんて、この教室にいるわけがない。彼女の取り巻きたちでさえ怯えきって動くことができないでいるというのに。

 この空間にいる、彼女たち以外の全員が、完全に置き去られてしまっていた。

 するとそのとき——おもむろに、西城が構えを解く。

 

「何するつもりもなんも。これで頭どついたって、頭蓋骨かち割ったろ思て」

「かちわっ……!? そ、そんなの死んじゃうじゃないのよっ! 気でも狂ってんじゃないのあんた!」

「嫌やわ、殺しはしいひんよ。あくまで半殺し、半殺し」

 

 おどけた風に、彼女は肩をすくめた。

 

「言うたよな? 西城はちゃあんと言うとったはずやけど、憶えてへんか? こんおつむは中身空っぽで味噌も入ってへんのやろか」

 

 言いながら、西城は鉄棒を持っていないほうの左手を伸ばして、宿木の頭を鷲掴みにする。

 そして。

 

「——直接手え出してきたときは、容赦しいひんって」

 

 低く、ドスを利かせた声音で、そう続けたのだった。

 ひっ……と、宿木が小さな悲鳴を上げる。その目には涙が浮かんでいた。

 

「机に落書きするんも上履きほかすんも別にええわ。何事も死なな安いもんやさかい。……そやけど、水ぶっかけるんはちょおっとやり過ぎとちゃうか? なあ、おい——聞いとるんか、おどれは!」

 

 西城花姫。

 常に仏頂面であるうえにかなり苛烈な性格もしているけれど、凛とした雰囲気のある、日本人形めいた佳麗さをもつ少女——だと思っていた。

 しかし、彼女に対するそんなイメージは、どうやらいささか修正する必要があるらしい。

 苛烈どころか激烈じゃないか。口調が関西弁ということもあって、いっそ極道の女みたいな風格さえ感じられる。こんなもん、剣道部のやつらが逃げ出すのも当然だ。

 そんな風に、退部していった剣道部員たちの心中にひそかに理解を示したところで——ふと気がついたときには、鼻に突く異臭が周囲に流れていた。

 臭いの発生源は宿木だった。恐怖が頂点に達したのだろう。悲鳴も上げられないままに泣きじゃくりながら、がくがくと震えている両脚の隙間から液体が広がってしまっている。

 西城は、いまだ彼女の頭を鷲掴みにしたままだ。そればかりか、語調に合わせるように乱暴に揺さぶってさえいる。

 脳を、揺らして。

 

「さ、西城!」

 

 ようやく——本当に今更ながら、俺は彼女を制止させるために声を上げた。

 

「さすがに、暴力はまずいから。いったん落ち着きなよ」

「…………」

 

 宿木の頭を揺すっていた手を止めて、西城は無言で、流すような視線をこちらに向けてくる。その切れ長の目からはなんの感情も読み取れそうになかった。

 まずい。ひょっとしたらこれ、俺も殺されるんじゃないか。

 思わず、一歩後退する。

 

「……『やらずに後悔するより、やって後悔するほうがいい』」

 

 彼女はこちらに標的を変える——でもなく、唐突にそんなことをぼそりと呟いた。

 

「……え?」

「大人はよく、大人ぶってそんなことを言ってくるじゃないですか。西城的には一理あると思うんですよ」

 

 西城の口調が、先ほどまでのものと変わっている。淡々と落ち着いた、いつも通りの喋り方だった。

 それは、ともかくとして……いきなりなんの話をしているのだろうか、彼女は。

 

「『やってしまった後悔』というのも世の中にはあるのでしょう。より取り返しがつかないのは後者のほうですからね。でも西城的には『あそこでああしてたらよかった』『あのときこうしてればよかった』と後になってからうじうじするほうが、精神衛生上よくないと思うんですよ」

 

 それってつまり、と言葉を西城は繋ぐ。

 

「殺らずに後悔するのと、殺って後悔するのとじゃ——後者を選ぶべきってことですよねえ?」

 

 言って、彼女は笑う。

 その微笑は、あまりにも凄惨かつ邪悪なもので、思わず、俺は戦慄してしまった。

 おかしいな。確か西城はいじめられっ子という設定ではなかっただろうか……俺の記憶通りなら、彼女たちはいじめる側といじめられる側という関係だったはずだが。

 完全にポジションが逆転してしまっているじゃないか。

 

「冥土の土産に、ひとつグッドなニュースをプレゼントしてあげるです。実は西城——自分で選んだことに後悔したことなんて、ただの一度もないんですよ」

 

 それは。

 その言葉は、実質的な死刑宣告だった。

 西城は鉄棒を構え直すと、再び高く掲げる——そのときだった。

 五限の授業の始まりを告げる鐘の音。本鈴のチャイムが、教室に鳴り渡った。

 

「みなさん、席に着いてくださ……」

 

 そこに、まるで計ったかのようなタイミングで、学級担任の椎本先生が教室に入ってくる——そして彼女はフリーズした。

 ひっくり返されている机と教卓。散乱した教科書やノート、書類関係。教壇の上にしゃがみ込んで呆然としている宿木と、その前に立って金属製の棒を振りかぶっている水浸し状態の西城。

 すさまじくカオスな状況に、先生のキャパシティがオーバーしてしまうのもむべなるかなだろう。

 

「あーあ、タイムアップですか」

 

 がっかりです、と口では言いながらも、さして残念でもなさそうな口調で西城は呟く。そんな彼女の言葉を受けて、椎本先生は遅ればせながらも我に返ったようだった。

 

「さ、西城さん? 何をしていたの……?」

「なんでもないですよ、先生。西城はなあんにもしてないです」

 

 そう言って、彼女はにっこりと微笑む。それは先ほどまで浮かべていたような凄惨なものではなく、どころかとても爽やかな笑顔ではあったのだけれど、だからこそある意味もっとも恐怖に値した。

 教室がこれだけの惨状を呈しているというのに、『何もない』はないだろう。先生のほうも同じことを考えていたらしく、でも……と明らかに困惑している様子を見せていた。

 

「何もしてなくないでしょうが!」

 

 宿木の取り巻きのひとりがそんな風に、今の今になってようやく激昂した。

 そんな彼女に対しても、西城はあくまでも平静な眼差しを向ける。

 

「何故? あなたたちが西城に水をかけたから、謝ってくれれば許してあげるって言っただけじゃないですか。むしろ被害者は西城のほうです」

「嘘つくんじゃないわよ! ありさのこと半殺しにするとか言ったじゃない!」

「でもしてないですよ?」

 

 あっけらかんとした口調で、彼女は言う。

 

「西城はちょおっと脅かしただけじゃないですか。暴力なんて振るってないです……その証拠に、宿木さんは五体無事じゃないですか」

 

 メンタルは満身創痍だが。

 そんなことを言えるような空気ではないので、俺はただ黙っていた。

 

「……わかりました」

 

 椎本先生はそう言って静かに頷くと、

 

「詳しい話は今から別室で聞きます。西城さんは廊下で待機。宿木さんは保健室に行って制服のスペアを借りてきなさい。ここは先生が片付けます」

 

 と、彼女たちに指示を出した。意外なことに、それは気弱な性格をしている先生らしくもない、ひどく冷静な調子の声だった。

 

「なるほど、西城も保健室で借りればいいんですね」

 

 彼女の命を受けて、西城は納得した風に手を打つ。そんな西城とは対照的に、宿木はいまだ茫然自失としてしまっているようだった。

 

「宿木さん、聞いていますか? 早く立ち上がって動きなさい」

 

 反応を返さない宿木に椎本先生は語気を強めてそう言った。それでもなお微動だにしない彼女の姿に、西城は何を思ったのか、すっと宿木へと手を差し伸べる。

 

「肩、お貸しするです?」

「…………っ」

 

 びくり、と。彼女の身が大きくすくむ。西城への恐怖が完全に刻み込まれていた。

 その様子を目にした西城は、ふむ、と呟くが早いか差し出していた手を元に戻した。そして宿木と視線を合わせるように、おもむろに彼女の正面に屈み込む。

 

「ねえ、宿木さん。西城的には本当に半殺しにしてやってもよかったということ、ゆめ忘れちゃ駄目ですよ? 善良なクラスメイトくんに感謝しなくちゃですね? ……お互いに」

 

 そう言って、西城はくすりと笑う。

 お互いに……最後にぼそりとささやかれた、その言葉。そこに含まれていた意味を一瞬はかりかねたものの、けれどすぐに理解した。

 きっと彼女は、本当にどちらでも構わなかったのだろう。

 俺が制止をかけたから、結果的に西城がやろうとしていたことは未遂に終わった。しかし反対に、万一誰にも制止されなかったとしても——そのときはそのときで、彼女は最初に言っていた通り、普通に宿木を半殺しにしていたことだろう。

 たまたま俺が止めに入ったから、たまたま宿木は助かったのだ。

 自分で選んだことに後悔したことなんて、ただの一度もない。西城はそう言った。いつだったか、雀も似たようなことを俺に話したことがある。自分は紛れもない自分自身の意志で行動を選んできた。だからこそ、誰にもその選択に文句は言わせない……と。

 もしも西城があいつと似たような種類の人間だとしたら、先ほどの展開がどちらにどう転んだところで、きっと本当に後悔はしなかっただろう。

 

「それでは、西城はこれにて失礼するです——はばかりさんでしたぁ♡」

 

 西城花姫は、そんな晴れやかな笑みとともに、教室を後にした。

 それからの展開は、取り立てて特筆に値するものではない。椎本先生がてきぱきと汚れた床を掃除して、それを終えると俺たちに自習を言いつけてから、宿木と彼女の取り巻きたちを連れてどこかへと行ってしまっただけのことだ。

 しばらく経ったあと、彼女の代わりにひとりの男性教師がやってきた。その人は藍色のフレームの眼鏡をかけた、若い先生だった。

 

「こんにちは。三年B組だと選択科目によっては俺——私のことを知らない生徒さんもいるだろうから、まずは自己紹介を。私は照井蓮輔、今年度は主に一年生の数学を担当しています。今回は椎本先生の授業が急遽自習となってしまったので、私が監督を務めることになりました」

 

 照井先生の説明に、クラスがにわかにざわめき出す。

 

「はいはい、静かに。先生から自習用のプリントを預かっているので今から配ります。各自真面目に取り組むこと。どうしてもわからない箇所があれば遠慮なく質問に来てください。一学期の期末考査の結果はかなり重要だから、受験生も就活生もがんばるように」

 

 自習時間は退屈だった。自主学習に、つまらないも面白いもないだろうけれど。それでも配布されたプリントには期末考査の試験範囲も含まれているとのことで、試験自体はまだ先の話ではあるものの努めて真摯に取り組ませてもらった。

 とは言っても、先ほどのような事件が起きた直後にまともな集中ができるわけもなく……そう感じていたのは俺だけではなかったようで、みんな気もそぞろというかそわそわしているというか、教室内にはどこか居心地の悪い空気が漂っているように思えた。

 そんな雰囲気のまま、二十分くらい経過したころだっただろうか。ひとりの生徒に付き添って数式の解説をしていたらしい照井先生が、ふと、廊下へと視線を向ける。すると突然、彼は扉のほうに向かったかと思うやいなや、そのまま仕切り戸を開けて廊下へと身を乗り出した。

 

「こら、歩いていないで急ぎなさい! 授業はもう始まって……廊下で食べ歩きをするんじゃない!」

 

 一喝するような先生の声が、室内のこちら側にまで聞こえてくる。誰か生徒でも通りがかったのだろうかと、俺はなんとはなしにそちらへと視線を向けた。

 そこにいたのは、雪村月見だった。

 無断遅刻と無断欠席の常習犯として悪名高い彼女。今日も今日とてすさまじい重役出勤なうえに、照井先生に咎められようとも素知らぬ態度で普通にアイスキャンディを食べている——あまりにもフリーダムが過ぎる振る舞いだが、しかしなんというか、天才である雪村だからこその『許されてしまっている感』があるように思えた。

 

「あれ、照井くんじゃないか。三Bの水曜五限は椎本さんだろ」

「教師を『くん』とか『さん』とか呼ばない……自習になったから俺が監督しているんだ。わかったらとっとと教室へ行きなさい」

「ふうん……ああ、なるほど」

 

 先生の言葉から何かを察したのか、彼女は納得したように頷く。それから、すっと流れるような視線を寄越して、

 

「花姫に喧嘩を売ったんだね。よりにもよって」

 

 と、そう呟いたのだった。

 

「ご愁傷さまだね」

 

 そんな風に、皮肉を含ませた台詞を一方的に吐き捨てると、雪村月見はひらひらと後ろ手を振りながら廊下の奥へと立ち去っていく。

 そうして後味の悪い、いたたまれない沈黙だけが、置き土産のようにこの空間に残されたのだった。

 

  

* * * * *

  

 

 午後の授業が終わり、学校は何事もなかったかのように放課後を迎えた。

 五限にどこかへと行ってしまった面子は、結局戻ってはこなかった。ホームルームは椎本先生の代わりに副担任が連絡事項を伝えて、それが終わり次第みんなそそくさと帰り支度を始める。

 俺もいつも通り旧校舎の美術室へと向かおうとしていたのだが、その中途で、飲み物を買ってきてほしいというメッセージが雄助から飛んできた。やれやれと思いつつ、仕方なく引き返す。

 古鷹高校の自動販売機は本校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下——土足で通ることが認められているエリアの脇にある。廊下を挟んだ対面側にはベンチも設置されているので、運動部が部活動の合間に休憩している姿なんかもよく見かけられた。

 自販機の前に着くと、くだんのベンチにひとりの男子生徒が座っていた。頭にフェイスタオルをかけているだけでなく下を向くようにして腰かけているので、俺の位置からでは彼の顔はうかがえない。けれど黒いアンダーシャツに白のパンツといった服装をしているので、たぶん休憩中の野球部なのだろう。

 雄助に頼まれたジュースを買おうとすると、目的の自販機の前に女子生徒の姿があった。俺は一メートルほど距離を取って、彼女が買い終えるのを待つことにする。

 取出し口からペットボトルのミネラルウォーターを抜き取った彼女は、不意にこちらを振り向くと、

 

「あ、知らない人だ」

 

 と、俺に声をかけてきた。

 見知らぬ女子に、知らない人だと話しかけられた。

 …………。

 は?

 

「……知らねえやつなら声かけんじゃねえよ」

 

 背後からそんな声が聞こえてきて、俺は思わず振り返った。どうやら声の主は先ほどの男子のようで、彼はベンチに座ったまま気だるそうに口を開く。

 

「いきなり話しかけたら、びっくりさせちゃうだろうが」

「知らないけど知ってるお兄さんなんだよ」

「はあ? ……わけわっかんね」

 

 こちらの気持ちを代弁してくれるかのような彼の言葉に、是非とももっと言ってやってくれ、と俺は思った——のだが、しかし少年はどうにもかなり憔悴している様子で、ふいと黙り込んでしまう。

 ちらりと、俺は横目で女子生徒を見た。おとなしめな顔立ちをしている少女で、肩にスポーツタオルをかけている。セミロングに伸ばされた茶髪は少し水気を帯びているようだが、別に嫌がらせで水をかけられたわけじゃなくて、おおかた午後に水泳の授業でもあったんだろう——と。

 そこまで思考して、ああ、と俺は気がつく。思い出した。彼女は先週に紅野のクラスを教えてくれた、彼の同級生だ。

 そういえばあのときも、この少女は俺のことを『知らない人』と呼んだのだったか。

 

「俺は紅野の親戚だよ。火宮遥っていうんだ」

「火宮……あ、もしかして家族に金髪の人いる?」

「うん? ……ああ、いとこにいるね」

 

 やっぱりー、と彼女は間延びした声を漏らして、それから当たり前のように男子生徒の隣に座る。どうやらふたりは友人関係らしい。

 それに関してはどうでもいいとして……彼の容態が、どうにも気がかりだった。うなだれているので顔色をうかがうことはできないものの、口元を手で押さえているように見えるし、いかにもしんどそうな様子である。

 

「そこの彼、大丈夫なの? 熱中症とかなら保健室に連れていったほうが……」

「あ、この人? 全然平気だよ。ボールを顔面キャッチしちゃって鼻血止まんないだけだから——あいたっ」

「べらべら喋ってんじゃねえよ」

 

 隣の彼女を見向きもせずに、男子生徒はその頭をはたいた……なんだ、案外元気そうだ。俺の心配を返してほしい。

 いずれにせよ、体調の優れない後輩を案じるという——実際のところはただの鼻血だけど——先輩の義務は果たしたので、これ以上名前も知らない後輩たちとのお喋りに付き合う必要はないだろう。そう判断して、俺は財布から小銭を取り出すとあらためて自販機に向き直った。

 

「お兄さんお兄さん、背中に髪の毛ついてるよ」

「え? ああ、どうも」

「いいえー。お兄さんはユイさんのお友達なの?」

 

 小銭が指から滑り落ちそうになった。

 唯……唯、だって?

 どうして今、この少女の口から、彼女の名前が出たんだ?

 

「えっと……なんで?」

「金色だもん」

 

 言いながら、彼女はこちらを……というより、俺の背中を指差す。それを受けて背中に手を回してみると、確かに金色の細い髪の毛がついていた。

 

「本当だ……昼休みについたのかな。まあ、零のほうかもしれないけど」

「レイさん」

「そういう君もあのふたりの知り合いなのか?」

 

 半ば答えを確信しつつ、俺は訊いてみる。けれど少女の反応は俺の予想とは異なって、ただ不思議そうに首をかしげるだけだった。

 

「ユイさんのことは知ってるけど、レイさんって人のことはちょっとわかんないや」

「零は唯の双子の姉だよ。会ったことない?」

「お姉さん……?」

 

 一層、彼女は怪訝そうな表情になる。それを見兼ねたのか、隣の男子が口を挟んだ。

 

「あいつのことじゃねえの。ほら、あの嫌にこまっしゃくれたほうのやつ」

「え? ……あ、あー。あの大人っぽい人のことだね。へえ、お姉さんだったんだ」

 

 得心がいったように、少女はひとつ頷いた。どうやら彼女だけでなく、男子生徒のほうも天野姉妹のことを知っているようである。

 しかし、嫌にこまっしゃくれたほう、ね……素晴らしくあの少女のことを端的に形容している評価だと思った。いつか機会があったら俺も使わせてもらおう。

 さておき。

 

「君たちは、あの姉妹とどんな関係なわけ?」

 

 気になっていたことを、俺は質問してみた。すると、ふたりは顔を見合わせて、

 

「腐れ縁だな」

「腐れ縁だね」

 

 と、まるでステレオのようにそう答えた。

 答えになっていないような気はするものの、それ以上の追及をする必要性も特に感じられなかったので、そうなんだ、とひと言だけ返して、俺は会話を切り上げた。

 再々度、俺は自販機のほうへと身体の向きを変えて、今度こそ小銭を入れることに成功する。そして雄助に頼まれたジュースのボタンを押そうとしたとき——ふと、ミネラルウォーターが『売切』と表示されていることに気がついた。

 

「……。…………?」

 

 なるべく自然を装って、後ろのふたりに気付かれないように、俺はそっと振り向いた。そうして確認してみると、売り切れているミネラルウォーターは、確かに先ほど茶髪の少女が購入していたものと同じ種類の銘柄である。

 あれ、と。心の中で呟く。

 水は売り切れになっていたって、今日の昼休み、唯はそんなことを言っていなかったか?

 午後の授業中に業者が来た……いや、だったらこのタイミングで売り切れになるわけがないか。

 ああ、いや。自販機はほかにもあるのだから、これではないどれかの話だったのだろう。そんな風に腑に落ちたところでジュースを購入し、ついでに自分と彼女の分も買ってから、俺はいつも通り旧校舎へと向かったのだった。

・・・・・・・

かなぼう

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