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 翌週、六月二十二日の月曜日。梅雨はまだ明けなくて、空を覆っている暗いグレーの空から落ちてくる雨粒が、静かに町を濡らしていた。

 実を言うと、雨が降っているときの空気感そのものは、俺はそれほど嫌いじゃない。ただ気圧の変化がそのまま頭痛に影響してくるものだから、きっとこれからも決して雨の日を好きになることはないのだと思う。そんな些末なことを考えつつ、俺は寝起きからひどく疼く頭を鎮めるために痛み止めを飲んで、そしていつも通り学校へと向かった。

 先週あれだけ暴れた西城花姫も、翌日から普通に登校してきていた。

 事件の顛末を俺は噂程度にしか聞いてはいないけれど、なんというかまあ、『いっせーのでごめんなさいをして、仲直りしましょうね』みたいな、チープというかつまらない落ちがついたそうだ。

 いつからここは小学校になったのだろう。

 とは言うものの、宿木の自業自得だったとはいえ西城が度を越してやり過ぎていたこともまた事実ではあるし、喧嘩両成敗という決着はある意味妥当ではあるのかもしれない。

 あの出来事は、ただのよくある女子同士の喧嘩として内輪で処理されることになるのだろう。

 それでも、何も変わらなかったなんてことはない。翌日もけろりとした顔で登校してきた西城とは正反対に、宿木はあの日から学校に来ていない。あれだけみっともなく情けない姿を晒してしまったのだから、クラスに身の置き場がないと感じても不思議ではないだろう。

 そして、西城は。

 西城花姫は——クラスから孤立した。

 元より孤高を貫いていた彼女だったけれど、例の件で完全に孤立を深めたというか、もはや畏怖の対象と化してしまった。それまでは苛烈だがストイックな模範生として有名だった西城が、頭のぶちギレたクレイジーな女としてその悪名をクラス内外に轟かせてしまったのだから、そりゃあそうなるだろうなって感じだ。

 いずれにせよ、彼女が孤独になったところで俺の日常にはなんら影響がない。渦中の西城自身の反応も平然としたものだったし、当の本人にとってもその程度のことなのだから、元より俺の学生生活に何らかの変化が起こるわけもないのだ。

 だから俺は、普段と同じように学校へと向かった——のだが、教室に入った瞬間、中の空気がざわついていることに気がつく。

 なんだ……? と、いぶかしく思いはしたものの、どうやら俺には関係のないことのようだし——そして俺には関係のないことだとしたら、それは同時に、俺にとってどうでもいいことだ。

 クラスメイトと適当に挨拶を交わしてから俺は席に着く。そしてスマホの操作をする振りをしながら、そっと周囲を観察した。

 そうすると、クラスの様子がなんとなくわかってきた。現時点で登校してきている生徒は約半数。その中には東屋や委員長、それに宿木の取り巻きだったふたりの女子もいた。その内、ひそひそと不穏な気配を醸し出しているのは半分くらいで、東屋みたいないい子組は室内に漂っているただならぬ雰囲気にただ戸惑っているだけのように見えた。

 と、そのとき誰が言ったのか——『パンドラの箱』という単語が、俺の耳に飛び込んでくる。

 その言葉は、なんとなく聞き覚えがあるような気がした。俺はそれを即座に思い出せなかったのだけれど、数秒後、はっとして手にしているスマートフォンでブラウザアプリを起動させる。

 パンドラの箱。

 クラスメイトのひとりが教えてくれた、この学校の裏サイトのようなもの。ここ数日色々とあったうえにもともと興味もなかったから、すっかり忘れてしまっていた。

 トップページを開く。そこには新着動画の通知が表示されていた。

 投稿者のアカウントネームは『Phyllis』——ピュリス、と読むのだろうか。

 

「…………」

 

 ためらいつつも俺はサムネイルをタップして、そしてすぐに動画の音量を下げる。こんなことならイヤホンでも持ってくればよかった、と思いながら。

 

「おはよー……うん? 遥、何見てるの?」

 

 と、そんなときに隣の席のあんずが登校してきた。タイミングがタイミングだったので、ちょっとな、とひと言だけ俺は返す。

 生返事になってしまったな、と少し反省したところで……動画が、再生された。

 

『——ぐ、ぁ!』

 

 動画が始まると同時に、スマホのスピーカーから、少女の悲鳴が聞こえてきた。

 瞬間、端末を支えている自分の手に、汗が滲んだのがわかる。

 

『びびったわー、この子鬼強くね?』

『剣道部の主将なんだろ?』

『マジ? 強豪校だったり?』

 

 続けて、男たちの声が再生される。音量を下げていることに加えて映像自体の音質も悪いせいでうまく聞き取れなかったのだが、耳に覚えのない、軽薄な口調の声であることは確かだった。

 画質もあまりよくない。カメラも不自然に揺れているし、スマホで雑に撮影したという印象だ——アスペクト比がスマートフォンのそれだから実際その通りなのだろう——おまけに画面が全体的に薄暗いせいで人物と背景の境が判別しにくくなっていた。

 けれど、先ほどの彼らの言葉。それと画面に朧げに映り込んでいる長い黒髪が、先ほどの悲鳴の主が彼女であることを示していた。

 西城花姫。

 どこかの地面に倒れ伏している彼女の様相は無残なものだった。あれだけ綺麗に伸ばされていた黒髪がぼさぼさで、制服のあちこちが泥にまみれ、なんならそこかしこが血で赤く染まってすらいる。あまつさえ、夏服の半袖から伸びる腕に、青黒い痣がいくつも広がっていた。

 すさまじい惨状だ。見るだけで痛々しい。

 あの西城がこれほどの深手を負っているということがまず信じがたかったけれど……彼女のそんな姿を撮影した動画がうちの学校の掲示板に投稿されているという現実が、何よりも目を疑わざるを得なかった。

 正気だとは思えないし、正気でいられそうにもない。

 すると——映像の中の西城が、おもむろに、その左手をどこかに伸ばそうとした。

 

『おっとぉ。駄目だよー』

 

 しかし男の足が、彼女の腕を踏みつけることで、その動きを妨げる。

 

『あっぶねー。また竹刀でしばかれるとこだったわ』

『いやしばくってレベルじゃねえだろ。■■ら気絶してんじゃん』

『どんな腕力してんだこのガキ。ゴリラかよ』

 

 軽薄で悪意に満ちた男たちの声が聞こえてきたが、途中、音声に不自然なノイズが走った。おそらくはその瞬間に、こいつらの仲間の名前が出ていたのだろうと推察できるけれど、声に被さるようなそのノイズのせいで聞き取ることができない。

 編集を、入れているのか……この動画を投稿したやつは、そこまで狡猾な人間なのか。

 

『うし、余計なことされる前に折っちまうか』

 

 慄然としている俺を置き去りにして映像は着々と進んでいく……そして不意に、そんな言葉が、耳に飛び込んできた。

 え、と戸惑う隙もなく——直後。まるで太い木の枝が折れたときのような、鈍く、こもった音がした。

 

『ぐっ……、ァ、うぅ!』

 

 とたん、押し殺すような悲鳴が上がる。

 しかしどれだけ声を殺そうとも、西城の顔はひどく苦しげに歪んでいた。その瞬間に彼女が感じた、想像を遥かに絶するものだろう激痛が、画面越しのこちら側にもありありと伝わってくるほどに。

 唇を噛み締める西城。痛みに喘ぐように、乱れた呼吸を繰り返している。

 普段の、あの凛とした雰囲気を纏っている彼女を知っているからこそ、その悲痛な表情がより際立っているように感じられた。

 

『お、えらいねー。ちゃんと声我慢できたねー』

『痛すぎて悲鳴も出なかっただけじゃねえの?』

『かわいそー』

 

 けたけたと嘲るかのような、男たちの笑い声が上がる。

 少女の骨を折っておいて、そのうえでなお彼らは笑っていた。

 その異常さは、絶句に値するだろう。

 

『オラ、横っ腹がガラ空きだぞ!』

 

 突然。男のひとりが、西城の腹部を思い切り蹴り上げた。

 その衝撃に、彼女が大きく目を見開く。そして——

 

『……っ! がはっ……ごほ、ゴホッ!』

 

 むせるように咳込みながら、西城は薄い液体を吐き出した。

 

『うわきったねえ! こいつ吐きやがった!』

『あーあーお腹蹴ったりするけんー』

『オレが悪いってのかよ。オラ、てめえのせいで靴が汚れただろ。責任もって綺麗にしろや』

 

 荒い呼吸を繰り返し、肩を大きく上下させている彼女の状態なんてお構いなしとばかりに、男は容赦なく、西城の身体を何度も繰り返し踏みつける。そのたびに、みしみしと、何かが軋むような嫌な音が聞こえてきた。

 彼女は、不自然な方向へと曲がってしまっている左腕を庇うようにして、しばらくその足蹴を耐えていたものの……やがて力尽きたかのように、吐瀉物の上へと崩れ落ちた。

 

『あーあ、ひっでえの。綺麗な髪がゲロまみれじゃん』

『もったいねー』

『いっそ切っちまうか?』

 

 言うが早いか、男のひとりが西城の髪を勢いよく引っ張る——とたん、どこにまだそんな体力が残っていたのか、彼女は抵抗するように激しくもがき出した。

 土と血にまみれ、腕の骨を折られようとも。

 その切れ長の目には確固たる意志を宿し、彼女は目前の敵を迎え撃つために上体を起こす。

 けれど。

 

『暴れんじゃねえよ、クソガキ!』

 

 男たちが、西城の身体を乱暴に押し倒す。彼女の頭を、肩を、折れている腕を節くれだった手でつかんで、無理やりに地面へと押しつけた。

 いくら彼女が剣道部の主将——インターハイで優勝したほどの実力をもち、よしんば雀と同じくらい喧嘩の強い女だったとしても……むしろ女であるからこそ、そんな風に複数人の男たちから腕力に訴えられてしまえば、いくら西城でも敵うはずがないのだ。

 と……そのとき。カメラの端に何か光るものが映り込む。それが百円均一にでも売られていそうな安っぽい鋏だと気付いた瞬間、俺は戦慄を覚えた。

 指が……端末を支える自分の指が、震えていた。そんなこちらの状態も置き去りにして、動画はつつがなく進んでいく。

 男のひとりが、再び彼女の髪をつかんだのが見えた。そして——

 じゃきん。じゃきん、と。

 刃同士が擦れ合い、髪の房を粗雑に切り落とす。そんな耳障りで形容しがたい音が、男たちの下衆な笑い声に紛れるように、断続的に鳴り始めるのだった。

 

『あ、充電なくなりそう』

 

 と。

 そこで初めて、西城のものではない、まったく別の女の声が聞こえてきた。

 

『あ? どうすんだよ』

『んー、いいとこは撮れた感じだし一旦切っちゃおうかな。あとは好きにしていいわよ』

『撮れ高十分ってやつ?』

『あはは! うんうんそうそう、撮れ高オッケー!』

『ノリノリじゃんかよ』

 

 女の笑い声と連動するように、カメラがぶれる。

 こいつが、撮影者なのか——と、そんなことを考えているうちに、いつの間にか動画は終わっていた。

 俺は、完全に呆然としてしまっていた。スマホの液晶が自動的に消灯したことにも気付かず、そのままかなりの時間が経過する……いや。実際のところは、きっとさほど経ってはいないのだろう。けれど今の俺には一秒が一時間のようにさえ感じられたのだ。

 それほどに、時間の感覚が失われてしまっていた。

 

「……今の、最後の女の子の声……もしかして、宿木さんじゃ」

「え?」

 

 その声に、俺の意識は現実へと引き戻される。声の主はあんずで、彼は強張った表情でこちらの手元を覗き込んでいた。スマホに気を取られていたのでそちらにまで意識が回らなかったのだが、どうやら一緒に動画を見ていたらしい。

 それは、別に構わないのだけれど——宿木? 今、宿木って言ったか?

 思いもよらなかったその言葉に一瞬面食らってしまったものの、言われてみると確かに、宿木の声に似ていたような気が……。

 

「違うわよ!」

 

 そんな思考を続けようとしていた矢先、突として、誰かの怒鳴り声が教室に響く。

 それは、宿木の友人だった。

 荒々しい物音を立てながら椅子から立ち上がった彼女は、すさまじい剣幕でこちらを——正確には、俺の隣にいるあんずを鋭く睨みつけている。

 

「萩原お前、自分の立場わかってんの!? 適当なこと言ってんじゃないわよ!」

「ご、ごめん……」

 

 顔を真っ赤に染めて激昂している彼女に、あんずはその体躯を縮こまらせながら謝る。それを見て、なおもあんずを睨み続けている彼女の視線を遮るために、俺はさりげなく姿勢を変えた。

 

「で、でも——」

 

 そこで、おずおずと彼女に声をかける人物がいた——宿木の取り巻き、そのもう片方だった。

 彼女は自分の席に腰かけて、不安げに友人を見上げていた。その手にはスマートフォンが握られている。俺の席からではその画面を視認することはできないものの、おそらく例のサイトが表示されているのだろうとは察しがついた。

 

「この男の人、ありさの彼氏じゃない……? 顔は見えないけど、声とか背格好とかそれっぽいし……」

「あんたまで何言ってんのよ!」

「だってありさ、今の彼氏と付き合ってからなんか変だったじゃん! やっぱあいつやばかったんだって!」

 

 言い争いをし始めたふたりに、周囲の生徒が一斉に振り向く——そこで初めて俺は気がついたのだが、教室には既に、ほとんどのクラスメイトが登校してきているようだった。

 

「これアップしたの誰よ! この中にいるんじゃないの!?」

 

 自分に注目しているクラスメイトたちに向かって、彼女はさらに怒鳴る。そのあまりの剣幕に、何人かの生徒がたじろぐように視線を逸らした……が。しかし過半数は、どうして彼女が突然怒り出したのか理解できない、とでもいうように困惑の表情を浮かべている。

 会員制の裏サイト。登録しているのは三年生の一部のみ。いつだったかそんな話を聞いたような覚えがある。そうすると、状況がわからなくて戸惑っているらしき大多数の生徒は未登録であり——サイト自体を知らない以上、当然、彼女が怒っている動画についても存在さえ知らないだろう——逆に言うと、目を伏せた数人は既にくだんの動画を視聴しているということなのだろう。

 

「せ、席に着いてください。ホームルームを始めます……」

 

 そんなタイミングで、椎本先生が教室に現れる——余談だが、あの日見せたきびきびとした振る舞いはそのとき限りのものだったようで、翌日にはいつもの気弱な担任の先生に戻っていた。

 先生の指示に、先ほどまで怒鳴っていた彼女はいかにも嫌々といった様子を見せながらも、けれど存外素直に従って自分の席へと戻っていく。そんな流れのままにホームルームは開始されて、そしていつも通りに滞りなく進められていくのだった。

 けれど。

 

「最後に、梅枝さんと野分さんはこのあと生徒指導室に来てください」

 

 そんな言葉を最後に、椎本先生はホームルームを修了させた。

 名前を挙げられたそのふたりとは——宿木ありさの友人である、彼女たちのことだった。

 先生がふたりを引き連れるようにして教室を後にする。それを見届けてから、俺はあることを確かめるために再びパンドラの箱を開いた。

 再度見直したかったのは例の動画——ではなく、いつかの人気投票もどきが行われていたページである。

 ページを表示させると、そこには既に、投票結果が提示されていた。その結果を、俺は液晶を食い入るように見ながら確認する……予想していた通りと言うべきなのか、投票数がもっとも多いのは龍崎風歌で、彼女の後に雀、そして西城と続く案の定な結果だった。

 西城が最下位というのは、思っていた通りの結果ではあった。

 しかしどういうわけなのか、彼女の写真が表示されていたはずの箇所が、今は黒く塗りつぶされている。そこへ持ってきて、その上にこんな英文が書かれていたのだった。

 She is in Elysium.

 

「………………」

 

 西城は。

 あれだけ教室で暴れておきながら、素知らぬ顔で登校し続けていた西城花姫は……今日、学校に来ていない。

 そのときにようやく、俺は理解したのだった。

 不和をもたらす黄金の果実——それがいつしか、とっくに投げ込まれていたのだということに。

・・

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