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 六月二十三日、火曜日。その日は設定していたアラームの時刻よりもかなり早くに目を覚ましてしまった。

 どうも嫌な夢を見たらしい。それは男たちに組み伏せられる夢かもしれないし、骨を折られる夢かもしれないし、胃の中のものを吐き出す夢かもしれないし、あるいは鋏で髪を断たれる夢かもしれない。どんな悪夢だったかなんてもう忘れてしまっている。記憶に残っていないからこそ救いがあるのか、記憶が定かじゃないからこそ不快感があるのか。自分でもわからなかった。

 起き抜けにもかかわらず、自分の動悸が激しく脈打っていることがわかる。だから、きっとこれは悪夢の名残なのだろう。どうやら俺は本当に嫌な夢を見たようだと、そんなことを考えつつベッドから身体を起こす。

 そのときふと、寝巻代わりにしているシャツに汗が滲んでいることに気がついた。シャワーでも浴びようかと思い立って、俺は寝室を後にする。この汗もおそらくは、夜間の暑さに由来するものではないのだろう。

 熱い水蒸気の立つ浴室。肌の上を滴り落ちていく雫を感じながら、俺は思考回路を稼働させる。……無論、それはくだんのサイトについてだ。

 パンドラの箱。

 そこで投票が行われていたページには当初西城の写真が掲載されていたのだが、問題の動画が投稿された直後にそれは真っ黒に上塗りされた。そして現在、彼女の画像があった箇所には白い文字でこう記されている。

 

『She is in Elysium.』

 

『Elysium』という言葉を俺は寡聞にして知らなかったのだけれど、どうやら英語ではなくラテン語……正確にはラテン文字に翻字を行った古代ギリシャ語の言葉なのだそうだ。

 エリュシオン、と読むらしい。

 すなわち先ほどの文章を日本語に訳すなら『彼女はエリュシオンにいる』という意味になるのだろう。このエリュシオンとはギリシャ神話における死後の世界の理想郷――つまりは、仏教で言うところの極楽や浄土に相当する場所のことらしい。

 あえて述べる必要もないことだが『She』が西城花姫のことを指しているというのは明白なわけで……となれば、なんだ。あれを書いたやつは、西城は今死後の世界にいるとでも言いたいのだろうか。

 

「……縁起でもない」

 

 独りごちて、俺は浴室を後にした。

 だいいち、本当に彼女が死んでいたなら土日のあいだに連絡網が回ってきていただろうし、昨日には集会が開かれるか、そうじゃなくても椎本先生からそれらしい話があってしかるべきだ。にもかかわらず宿木の友人である梅枝と野分が呼び出されていただけというのは、少なくとも西城は死んでなんていないということだろう。

 とはいえ勿論、あの動画が事実だとするなら、生きていたとしても無事に済んではいないだろうけど。

 

「作り物……じゃないんだろうな」

 

 そもそもの話、宿木の取り巻きである彼女たちがピンポイントで呼び出しを受けた時点で、あれが実際の映像だと証明されてしまったようなものなのだ。だったら、あの動画がリアルかフェイクかだなんて、そんなことに思考を割いたところで俺にメリットはないのだろう。

 西城の容態については、ほんの少しだけ気にかかるものの、俺には直接関係のないことだ。

 とはいえ梅枝たちは本当に心当たりがなさそうな様子だったし、あれは宿木の独断専行のようなものだったのかもしれない。

 俺は脱衣所から出ると、タオルドライもそこそこにリビングのソファへと寝転がった。そしてスマートフォンを手に取ってとあるウェブサイトを開く。

 とある、なんてぼかした表現をしてしまったけれど、言うまでもなく『パンドラの箱』である。サイトに登録こそすれ書き込んだりなどは一度もしていないのだが、昨日の一件を踏まえて、既にかれこれ十回はこのサイトに目を通していた。

 ちなみに問題の動画は、管理者権限とやらで既に削除されている。

 管理者――そう。うっかり失念していたというかそこまで考えが及ばなかったというか、こんなサイトにも管理人がいるという事実に、俺は昨日まで思い至ることができなかった。

 その人物のことはしばらくロムっていればすぐにわかった。『Eris』……エリスと名乗っているやつが、どうやらこのパンドラの箱の管理人らしい。

 動画を削除してくれたのだから管理人はきちんと仕事をしているのだろう――と思いたいところだがそんなはずもなく、そもそも例の悪趣味な人気投票を開催したのも、果てにはあんな意味深な文章を書き記したのもこのエリスなのだ。投票結果と西城へのリンチには関連性がある、というのはもはや公然の事実と言っても過言ではないだろう。

 しかも、あまつさえこの管理人は、あの俗悪な人気投票もどきを再び開催したのである。

 生き残った雀と龍崎で行われる――決選投票。

 

「…………」

 

 俺は無言のまま、チャットルームをタップした。

 再度投票し直したところでどうせ龍崎が勝つだろう――と思えるのだが、さすがにそうは問屋が卸さないらしく、ユーザーたちは戸惑いながらも、初回の投票とは異なって今回はかなりの慎重を期している様子だった。

 それも致し方のないことだと思う。何故なら西城の件を受けて、投票数の少なかったほうは彼女と同じ目に遭いかねない、という可能性が発生してしまったからだ。

 これの何がまずいって、どちらを勝たせたところでただの暴力沙汰では済まないという点である。片や地元の資産家令嬢、片や全国的に名が売れている芸能人。そんな彼女たちがリンチに遭ったとなれば、へたをしたら新聞に載ってしまう。

 西城の一件を『ただの暴力沙汰』なんて蔑ろにするつもりはないけれど、しかし雀や龍崎のほうに社会的立場があることには違いないわけで、それはみんな慎重にもなるだろう。だったら初めから投票するなよという話なのだが、集団における人間心理を考えると、そう都合よく物事は進んでくれないのかもしれない。

 

「……はあ」

 

 ため息をついて、俺は画面の電源を落とす。それから壁にかけている時計を見上げると、家を出る時間にはまだかなりの余裕があることが確認できた。

 暇つぶしにショートフィルムでも観ようかと一瞬思ったのだけれど、どうにもメンタルがそんな気分にはなってくれそうもなかったので、いっそのこともう登校してしまうことに決めた。遅刻は罪だが早着は罪ではないだろう、たぶん。

 十分後。支度を終えた俺は、そのまま自宅を後にした。

 

 

* * * * *

 

 

 駐輪場に自転車を停めて、校内へと足を踏み入れる。いつもより早い時間だからか、昇降口も普段よりしんとしているように感じられた。

 靴箱で上履きに履き替える――ちなみに例の一件以来、俺は靴箱を開けるときに一瞬の躊躇をするようになってしまった――それから三年B組の教室を目指して、階段を昇った。

 

「あ、火宮くん。おはよう」

 

 教室にたどり着くと、東屋に声をかけられた。

 

「早いね。日直だっけ?」

「いや、単に早く起きただけだよ」

 

 そういう日もあるよね、と彼女は毒にも薬にもならなそうな台詞を口にする。

 教室にはまだ数えるほどの生徒しか来ていないようだった。朝練に参加している部活生も少なからずいるのだろうけど、ともあれ現時点で登校してきているクラスメイトは十人前後といったところだろうか。

 この時間帯ならこんなものか、と思いながら俺は東屋へと視線を戻す……と、そこで初めて彼女が花瓶を両手で抱えていることに気がついた。

 

「その花瓶……」

「あ、これ? いつの間にか教室にあったんだよ。椎本先生が持ってきたのかな?」

「どうだろうね」

「折角だからお世話してあげなきゃ可哀想だと思って。さっき水を取り替えてきたの」

 

 そうなんだ、と努めて明るい声色を意識しながら相槌を打った。植物に優しいというか、そういったものの世話に真面目な人間は、俺のようなひねくれ者から見ても素直に好ましいと思う。だから俺はそんな東屋に敬意を表して、その花はもともと宿木たちが西城の机に置いたものだということは黙っておいてやることにした。

 

「おはようです」

 

 聞き覚えのある女子の声に、背後から話しかけられた――いやまあ、クラスメイトなのだから聞き覚えがあって当然なのだけど、なんて考えながら俺はそちらへと振り返る。

 振り返って、驚いた。

 そこにいたのは西城花姫だった。

 額には包帯、向かって右の頬にはガーゼ、反対側には絆創膏を貼っていて、それらの下から斑に広がる内出血の痣が覗いている。左腕は三角巾で肩から吊っており、右腕は吊り下げてこそいないもののギプスで拘束されている。そのほかにも四肢のあちこちに包帯が巻かれていて、反射的に目を背けたくなるほどに痛々しい様相を呈していた。

 そして、髪……腰まで伸ばされていた、あの見事な黒髪が、ミディアムほどの長さに切りそろえられている。

 ただひとつ、凛とした切れ長の目だけは、いつもとなんら変わりがない。

 

「さ、西城さんっ」

 

 思わずフリーズしてしまった俺とは対照的に、東屋は花瓶を教卓に置くと彼女へと駆け寄っていく。

 

「その怪我、どうしたの? 交通事故にでも遭ったの?」

「遭ったのは事故じゃなくてリンチですね」

 

 西城が淡々とした口調で放ったその単語に、へ? と彼女は間の抜けた声を漏らした。

 

「えっと、大丈夫……?」

 

 東屋はかすれた声で彼女に問いかける。今の西城はどこからどう見ても大丈夫ではないが、そんなことで彼女を責めるのは酷というものだろう。

 

「ぶっちゃけると、あんまり大丈夫ではないですね」

「そ、そうだよね……変なこと訊いてごめんね」

「利き腕にひび入れられたのは痛かったですね、二重の意味で。日常生活に支障出まくりです。期末考査も控えてるってのに」

 

 らしくもなく愚痴っぽい台詞を零しながら、彼女はすたすたとした足取りで自分の席へと向かう。足を使って椅子を引き出すと、普通に腰かけた。かなり行儀の悪い仕草ではあったものの、両腕の駆動に制限がかかっている以上やむを得ないことだと思う。

 

「花姫!」

 

 そのとき――張り上げた少女の声とともに、教室前方の扉が勢いよく開け放たれた。

 荒々しい物音を立てながら扉を開けたその女子生徒は、同年代と比べてもだいぶ小柄な体躯をしている。ひと目見れば忘れるはずもないあのシルバーブロンドが乱れていて、そしてそれを整えるような素振りもなく、彼女はそこに立っていた。

 見間違えようもない。古鷹高校が誇る歌姫、龍崎風歌だった。

 龍崎は教室の中を見渡すようにして視線を走らせると、ややあってその目は何かを捉える。そして教室の俺たちには断りも入れず――そんな有象無象なんか眼中にないとばかりに、ずかずかと三年B組の教室に踏み込んできた。

 そうやって彼女はとある生徒の目の前に立つ。

 言うまでもなく、西城花姫である。

 

「あんた……それ……」

「折られちゃったです」

「折られちゃったじゃないでしょうが!」

 

 怒鳴って、龍崎は彼女の席を思い切りたたいた。ばん、という乾いた音が大きく鳴る。

 アイドルである彼女が、そのキャラ作りのためにいつも使っている、穏やかで恭しいお嬢様のような喋り方ではない。いつかに俺が見てしまった、龍崎風歌という少女本来の、完全に素の口調が剥き出しになっていた。

 

「あんた、玉竜旗戦は! インターハイもどうすんのよ!」

「そりゃ棄権するですよ。まあ西城は最強なので、両腕折ってやっとちょうどいいハンデって感じですが、こればかりは両親に止められたので」

「ばっかじゃないの! 骨折って、骨が綺麗にくっつくとは限らないのよ!? 一生剣道できなくなったらどうすんのよ!」

「そのときはそのときですよ。そうですね、サッカーとかいいんじゃないんですか?」

 

 キーパーはできないでしょうけど、と西城は冗談めかした風に肩をすくめた。

 

「……髪も」

 

 龍崎は不意に呟くと、うつむくようにして顔を伏せる。

 

「綺麗な、黒髪だったのに……あんなに綺麗に伸ばしてたのに……」

「あなた本当に西城の髪好きですよね」

 

 今にも消え入りそうな声で、悲痛に言葉を震わせる龍崎とは対照的に、西城はいっそ清々しいくらいに涼しげな顔を浮かべながらそんなことを言うのだった。

 

「西城的にはすっきりしていい感じなんですけどね。手入れをするにも面をつけるにも楽ですし」

「茶化してんじゃないわよ、さっきから!」

「り、龍崎!」

 

 あくまでも平静である西城と、再び声を荒げた龍崎のあいだに割って入るかのように、近くの席にいた男子が声を上げた。

 

「落ち着けよ……な? 一旦落ち着いたほうがいいって」

 

 言いながら、彼は龍崎へと手を伸ばす――それはきっと、何かしらの下心があっての行動ではなかったのだろう。彼女をひとまず西城から引き離そうとしての行動だというのは、傍から見ていてもわかった。

 けれど。

 

「馴れ馴れしく触んじゃないわよ」

 

 自分へと伸ばされるその手を、龍崎はぱしんと音を立ててたたき落とす。そしてその勢いに身を任せるようにしてこちらに向き直ると――俺を含めた、今この教室にいる三年B組の生徒全員を、まるで忌むべきものを見るかのようなすさまじい目つきで睨みつけてきた。

 

「……知ってるのよ、私は」

 

 彼女はおもむろに口を開くと、ぞっとするくらいに恐ろしい視線はこちらに向けたままに、地の底から響くような低い声を漏らす。

 

「ちゃんと知ってるんだからね、私は!」

「ちょっと、風歌」

「あんたたちが!」

 

 怒りのボルテージをますます上げていく龍崎をさすがに見かねたのか、西城が割り込むように椅子から腰を浮かせる――けれどその声を遮るかのように、龍崎は拳を思いっきり机にたたきつけた。

 龍崎風歌……普段のたおやかな振る舞いとは裏腹に強気な性格をしているというのは身をもって体験したことだけれど、まさかここまで剣呑なやつだったとは。気が強いどころか、気性が激しいってレベルだ。

 

「あんたたちが、私の友達を――花姫がいじめられてるって知ってたくせに、何もしてこなかった傍観者だってことくらい!」

 

 彼女の怒鳴り声が教室の中に響き渡って、それが残響のようにしばらく尾を引いていた。そのあいだ、俺たちはただ唖然として立ち尽くすことしかできない。

 友達……私の友達、だって?

 龍崎と西城は、仲が悪かったんじゃないのか? 顔を合わせるだけで皮肉の応酬をしていたふたりが、友達?

 そんな思考に囚われていると――扉の開かれる音が、今度は後方側から聞こえてきた。こんな絶望的なタイミングで登校してきたやつがいるのかと、自分が置かれている状況を忘れて思わず同情しかけた俺だったけれど……しかし振り向いてみると、そこにいたのはクラスメイトではなかった。

 雪村月見である。

 抜けるように白い髪と肌から、その女子生徒が雪村だということは一目瞭然だった。……ではあった、けれどその様相があまりにも彼女らしくなくて、本当にあの雪村なのかと俺は一瞬疑ってしまった。

 額にはうっすらと汗が滲み、呼吸も乱れて肩も大きく上下させている。雪のような頬は赤く上気して、それでいて眉は苛立たしげにひそめられていた。

 まるで思い切り走ったあとみたいだ。いや、みたいというより、まさしくその通りに見える。

 そんな姿は、あまりに雪村月見らしくない。

 彼女もまた龍崎と同様に俺たちには目もくれず、無断で教室の中へと侵入してきた。そして龍崎と対峙するように向かい合う。

 

「風歌、B組には近付くなって言ったろ」

「…………」

 

 無言で雪村のことを睨みつける彼女――その次の瞬間には、龍崎は雪村の襟元をねじり上げていた。

 雪村も大概小柄な体格をしているけれど、龍崎のほうが彼女よりいくらか背が低いようで、襟を掴まれたところで雪村は大してダメージを感じていないように見えた。勢いがあったせいでシャツのボタンとリボンは外れてしまったようだが、彼女はそれに対しても表情を変える素振りがない。

 

「……何かな。言っておくけど、私はその辺の小動物より弱いからね。君のワンパンで即死する程度にはクソザコだとも。暴力に訴えて君の気が晴れるなら別に構わないけれど、そんなことになんの――」

「あんたはいつだってそうよ!」

 

 己の激情に任せるまま、龍崎は彼女に向かって怒鳴る。

 

「いつもいつもいつもいつも! あの時もあの時もあの時もあの時も――今回だってそうよ! 何でも知っているとかほざくくせに、あんたはいつだって、なんにも教えてくれやしない!」

「…………」

「誠実だとかなんだとか知ったことか! あんたのポリシーなんてこっちは知ったこっちゃないのよ! 私は……私は、あんたのそういうとこが、昔から大っ嫌いだった!」

 

 教室に、彼女の叫び声が響き渡る。そうして肺の中の息を切らしてしまったのか龍崎はひとしきり喘ぐような呼吸を繰り返し続けて……やがて、それは嗚咽へと変わっていった。

 押し殺すような声を漏らしながら、細い肩を小刻みに震わせて、銀色のまつ毛に縁取られた目から雫を流す龍崎。そんな風にして静かにしゃくりあげる彼女のことを、雪村はやはり無感情そうな眼差しで見つめていた。

 

「朝からお騒がせして悪かったね」

 

 泣き出してしまった龍崎に構うこともなく、彼女は俺たちに――三年B組の生徒に、そう謝罪した。

 続いて雪村は西城のほうに向き直ると、

 

「花姫、お大事に」

「はい。どうもです」

 

 と、お互いに事務的なやり取りを交わし、それからいまだに泣いている龍崎の手を引いて何事もなかったかのように教室を出ていった。

 龍崎が教室に闖入して、そんな彼女を雪村が回収していった……その後何か起きたかと言えば、驚くほどに何も起こらなかった。何も知らないクラスメイトたちが登校してきて、運動部の連中も朝練から戻ってきて、担任の椎本先生が朝のホームルームを始める。いつもと何も変わらない。

 別に口裏を合わせていたわけじゃないけれど、今朝のちょっとした騒動をクラスの連中に喋り散らすようなやつは、俺を含めてひとりもいなかった。あのとき教室にいた面子それぞれに思うところがあったのだろうが、少なくとも俺は以前に龍崎本人から脅迫を受けていたということもあるし、何よりあんずのリアクションがまったく読めなかったので黙っておくことを選んだのである。

 そういえばひとつニュースがある。クラスメイトの宿木ありさなのだが、どうやら退学することになったらしい。

 特によくもなければ悪くもない、うれしくもなければ残念でもない。誰にもなんのメリデメが発生しない、どうでもいいニュースだった。

 

 

* * * * *

 

 

「ここの『next to』は『〇〇の隣に』じゃなくて『〇〇の次に』って意味だよ」

「あっ、なるほど」

「それと、この『little』の訳は『少し』でもまあ合ってはいるけど、文の頭にあるから倒置の準否定語だな」

「う、むむ……」

 

 そんな声を漏らしながら、唯は膝の上に置いた教科書に蛍光ペンでラインを引き、その下に直接ボールペンで和訳を書き込んでいく。

 午前の課程を終えた昼休み、俺とあんずがいつものように屋上に向かうと、先にベンチに座っていた彼女が英語の教科書やらノートやらとにらめっこしているのを見つけた。聞けば、午後一発目の授業である英語で教科書の訳を答えることになっているのだと言う。唯は英語が苦手とのことなので――その見た目で? と一瞬思ってしまった――昼食を食べながらではあるけれど、勉強を見てやることにしたのである。

 ちなみに得意科目は古文らしい。その見た目で? とはさすがに言わないでおいた。

 ペンを走らせる彼女を横目に見つつ、俺は昼食のカスタード入りメロンパンをかじって空を仰いだ。町の上は今日も今日とて重苦しい灰色の雲に覆われている。風が吹いていないので唯の教科書が飛ばされる心配をしなくていいけれど、とは言うものの、この肌にまとわりつくような蒸し暑い空気は鬱陶しくてたまらない。

 六月でこれなのだから、梅雨が明けて夏のピークを迎えるころにはもっとひどいことになっているだろう。とっくに日常と化しているこの屋上での昼食も、そうなったらいよいよ考え直したほうがいいのかもしれない。

 

「…………」

 

 日常と化している、か。

 俺の隣で課題を進める彼女へと、もう一度視線を流してみた。……考えてみれば、この少女と過ごす昼休みや放課後が『いつも通りの日常』と呼べるようになってまだひと月も経っていないのだから、人生はやはり何が起こるかわからないものだなと思う。

 嫌になったら途中でやめることだってできる。以前、夜鷹が俺にそう語っていた。俺はまだこの日常に嫌気が差していないので、だから当分、それをやめることは考えていない。

 唯の双子の姉――天野零の警告を無視することもまた、俺自身の意志で選んで決めたことだ。

 彼女の期待に応える義理や義務なんて俺にはない。とはいえ、唯にとっての神様とやらになるつもりも、勿論ないのだけど……この関係に、あるいは感情に答えが見つかるまで、これまでと何も変わらない日常を過ごしていこうと思う。

 後悔のしない、答えを。

 そんなことを考えつつ、昼食と並行して唯に英語を教えてやっていると、こちらのやり取りを眺めていたあんずが、ふと何気ない風に、

 

「遥って、意外と頭いいよね」

 

 と呟いて、俺は思わずパンを口に運ぶ手の動きが止まってしまった。

 

「……そんなに馬鹿だってイメージあるのか、俺って」

「えっ、あ、違くてね!? このあいだの小テストのとき『半分くらいしか解けなかった』って柏木くんたちと話してるのが聞こえたから……!」

 

 にわかに慌てたような声を出してあたふたするあんず。そういえば、確かに先日、そんな会話をクラスの連中としたような覚えがある。

 小テストや実力テストや成績に影響しないから――つまりは親にばれる心配がないから適当に手を抜いているのだけど、さすがに黙っておいたほうがいいだろう。

 

「ていうか、柏木って誰だ?」

「えっ、うちのクラスの……野球部の人だけど」

「んん? ……あー、はいはい。あいつね」

「……もしかして、クラスの人たちの名前、まだ憶えてなかったりする?」

 

 ぎくりとした。

 いや、実はその通りで、転校生という肩書にあぐらをかいてクラスメイトの名前を憶える努力をまったくしていなかったのである。

 興味のない人間の名前って、本当になかなか憶えられないんだよな……。

 

「そ、そういえば、あんずってどんな進路を考えてるんだ?」

 

 話を無理やりにはぐらかすと、あんずはきょとんとした顔を浮かべた。

 

「あれ? 話してなかったっけ?」

「聞いたことないと思う」

「そっかあ。うーん」

 

 彼はほんの少しだけ考え込むような仕草を見せてから、

 

「県外に、出ようかなって」

 

 と、端的に答えた。

 

「進学か?」

「そうだね、うん。第一志望は隣の県の国立」

 

 今の成績じゃまだまだC判定なんだけどね、とあんずは苦笑交じりに言う。すると、それまで黙々と課題を進めていた唯が手を止めて、俺たちのほうに視線を向けてきた。

 

「受験がんばってくださいね。わたし、応援してますから!」

「あはは。ありがとね天野さん」

「人のことはいいから、お前はまず自分の課題をがんばれ」

「はわあっ! そうだった!」

 

 悲鳴のような声を短く上げて、彼女は再び膝に乗せている課題へと向き直る。

 ちなみにというか今更ながら一応のフォローを入れておくけれど、天野唯、頭は結構いいほう……というか、普通に優等生だった。学年トップレベルとまではいかないものの、クラス内ではそれなりの順位に入っているらしい。おそらくは苦手科目である英語が足を引っ張っているのだろう。

 古鷹に来る前はそこそこの進学校に通っていたこともあるが、俺の得意科目は完全に理数系に極振りされている。そんな俺の説明を『わかりやすい』と言えるのも、だから彼女の地頭のよさがあってのことなのかもしれない。

 そろそろ課題も終わりそうな唯から視線を外して、それにしても、と俺はあんずのほうに振り返る。

 

「国立って、確かこの辺にもあったよな。向こうのほうがレベルは上だろうけど、わざわざ県外にまで出なくてもいいんじゃないか?」

「うん……まあ、そうなんだけど」

 

 こちらの問いかけに、曖昧な笑みを浮かべるあんず。

 

「とにかく、地元を離れたくてね」

 

 その言葉に、ふうん、と俺は頷いた。確かに都会に出たほうが色々と経験も積めるだろうし、条件のいい働き口も見つけやすいだろう。狭い島国で終わりたくないから旅に出る、などとぬかしていた馬鹿はまた極端な例だとしても、こんな田舎町に留まるよりはメリットがあると思う。

 

「あ、ハル」

 

 と。

 そんなことを考えていたタイミングで、くだんの馬鹿こと火宮雀が屋上に現れた。

 相も変わらず校則違反上等なインナー曝け出しスタイルだが――それよりも、彼女の隣に西城がいるというのが予想外で、俺は少し驚いてしまった。

 意外というか、思ってもみなかった組み合わせである。

 それと例の天野ちゃんやんな、と俺の隣に座っている唯を見て、雀はそう言った。例の? と不思議そうに首をかしげる彼女を流して、雀はさらにあんずへと視線を移動させる。

 

「えーっと、なんやったかな……」

「ああ、その人は西城と同じクラスの」

「待って! ここまで出かかっちょるけん!」

 

 西城の言葉を遮って、数秒、考えるような素振りを見せる。ややあって彼女は、思い出した! と声を上げた。

 

「ハギワラくん、やね!」

「惜しい、ハギハラくんです」

「ぐあー!」

 

 悲鳴のような叫び声を上げる雀。実にやかましい女である。

 

「すまんな萩原くん、もう憶えたけんな!」

「あはは、よく間違えられるから」

 

 本当によくあることなのか、人の名前を間違えるというそれなりに失礼なことを働かれてなお、彼は大人な対応だった。

 まあ『火宮』も大概初見殺しだとは思うけれど、あんずの名字はそれ以上に引っ掛け問題的なところがあるからな……俺もこいつと初めて話したとき、名字の読み方をまず確認したし。

 さておき、ひとまずはそんなやり取りで満足してくれたのか――そもそもいきなり絡んでくるな。お前はゲリラ豪雨か、と言いたいけれど――ならねー、と雀は手を振って西城と共に俺たちの前から立ち去ろうとする。

 

「そういえば、火宮くんとはご親戚なんでしたっけ。どういう続柄になるんです?」

「いとこっちゃよ。うちの親父の弟の次男」

「明高に通ってるとかいういとこさんも、確か同い年では?」

「リンちゃんは叔母さんとこの子やね。うちの親父三人兄妹やけん」

「ふうん……さっきから気になってたんですけど、火宮くんのこと、ハルって呼ぶんですか」

「おん。みんなそげえ呼んじょうよ」

 

 そんなやり取りを交わしながら、彼女たちは数メートル離れた場所に設置されているもう一基のベンチへと向かっていく。その背中に向かって、余計なこと喋るんじゃねえぞ、と睨みつけるも、当然ながら雀はこちらの視線に気付くこともなく西城と並んでベンチに腰かけた。

 ……まあ、いいか。相手はどうせ西城だし。心中で折り合いをつけて、俺はペットボトルのミルクティーを口に含む。

 

「存外親しげなんでですね。実は仲良しだったり?」

「一緒のベッドに入るくらいにはな」

「ゲホッ!」

 

 気管に入った。

 思わず前屈みになって、激しく咳込んでしまう。

 

「だ、大丈夫っ!?」

 

 ごほごほとみっともなくむせ続けていると、唯がおろおろしながら俺の背中をさすってくれた。後輩に背中をさすられている自分が惨めに思えて、軽く死にたくなってしまった。

 滲む視界で雀を睨みつける。投げた視線の先にいる彼女は、実に腹立たしいほどに得意げな顔を浮かべてこちらを見ていた。

 あの野郎、ぜってえわざと語弊を生むワードを選びやがったな……!

 

「まあ、いとこは四親等だから合法ですしね」

 

 頷きながら、西城がそう言った。

 合法ですしね、じゃねえよ。ふざけんな。

 

「……あの人って、女子剣道部の西城先輩ですよね? ちょっと前にフーカちゃんと喧嘩してた」

 

 不意に、唯がそんなことを訊いてきた。ちなみに尋ねた先は俺ではなくあんずである。いまだに喉が落ち着いていないやつに訊いたところで無意味だと思われたのかもしれない――いやまあ、さすがにそこまでは思っていないだろうけど。

 とにかく、唯のそんな意図をあんずも汲み取ったのか、そうだよ、と俺に代わって答える。

 

「やっぱりそうですか……」

「西城さんがどうかしたの?」

「あ、いえっ、特に何がどうしたってわけじゃないんですけど……お怪我が気になって」

 

 そう言って、彼女は表情に憂色を浮かべる。

 当の本人があっけらかんとしているので忘れそうになるが、唯の言う通り、今の西城は思わず目を背けたくなるほどに痛ましい惨状を呈している……いや、むしろ平然としているからこそ、周囲は余計に痛々しく感じてしまうのかもしれない。

 それこそ、くだんの動画を知らない人間からすると、交通事故にでも遭ったのかと思うくらいには。

 例の映像はあんずも目にしている。だから、彼女があれほどの大怪我をした原因もおおかた察しがついているのだろう。西城のことを心配そうに見つめている唯に対して、そうだね、と彼は静かに頷くだけだった。

 ぼちぼち喉も落ち着いてきたので、俺は雀たちがいる方向にもう一度目をやる。ふたりはベンチに仲良く腰かけていて、どうやらこれから昼食をとるところのようだった。

 そこでふと、雀の膝の上に弁当箱がふたつ広げられていることに気付く。

 彼女の体型は身長に対してかなり痩せていて――夜鷹曰く、火宮はもともと肉も脂も付きにくい体質の家系らしい――そして細い体躯をしているわりにはまあまあ食べるほうだ。とは言うものの、決して小さくはないサイズの弁当をふたつも平らげるほどの健啖家ではさすがになかったはずだ。

 どうするつもりだ、となんとなく眺めていると、雀は片方の弁当箱からおかずを取って、その箸を隣の西城に向けて差し出した。

 

「はい、あーん」

「あー」

 

 …………。

 仲良しだな。

 いやまあ、考えてみればそりゃあそうだよな……西城は両腕に重傷を負っているのだ。誰かに介添えをしてもらう必要があるだろう。

 ていうか、雀と西城は友達なんだろうか。龍崎も彼女のことを『私の友達』と呼んでいたけれど……そういえば、龍崎の周りにはいつもやばい女たちがいるって竹河が言っていたな。あのときは面子にばかり気を取られて、それ以上の思考を割く余裕もなかったが……え? つまり、あれか? あのとき名前の挙がったメンバーって全員友人関係だったりするのか?

 だとしても、雀と雪村はまあいいとして、西城と龍崎の関係には納得できかねるものがあるよな……。

 

「ハナちゃんさー、チンピラどもに腕折られたっち言いよったけんど」

「はい。あ、次卵焼きお願いするです」

「オッケイ」

 

 言われるがままに、雀は箸で卵焼きをつまみ上げると西城の口元へと持っていく――すげえ、火宮の令嬢を顎で使ってやがる。

 

「――で? しっかり勝ったんやろな?」

 

 と。

 いっそ邪悪に思えるほどの不敵な笑みを浮かべて、彼女は己の隣にいる少女へとそう問いかけた。

 西城は卵焼きを咀嚼し終えてから、当然です、と答える。

 

「西城は最強ですからね、腕を折られるくらいでちょうどいいハンデというものです。徒党を組まなきゃ女子高生ひとり襲えない雑魚を血祭りに上げる程度、西城にはちょろいもんですよ」

「相手生きちょんの?」

「さあ? 生存確認なんてしてないですけど、亡くなったという話は聞いてないので死に損なったんじゃないですかね。どちらにしろ特に興味はないです。西城、未成年ですし」

 

 少年法万歳ですね、と彼女は呟いた――少年法はそんな万能じゃねえよ。

 西城の台詞から察するに、ようするに彼女は自分を襲った暴漢たちへの報復はちゃっかり果たしているということらしい。見知らぬ赤の他人が半殺しにされようと俺には関係ないし、そもそもが身から出た錆なので同情の余地もない。

 まあ、恐怖の念は禁じ得ないが。

 というか薄々感じてはいたのだが、相手の生死に頓着しなかったり平然と少年法を口にしたりするあたり、西城花姫、確実に倫理観が死滅しているタイプの人種である。今後もなるべく近寄るのはよしておこう。

 内心でそんな決意を固めつつ、俺は黙々と菓子パンの残りを食べ進める。そのとき、そういえば、と西城が思い出したように口を開く声が聞こえてきた。

 

「左腕に関してですけど、実は合併症もなく綺麗に折れてたんですよ。最初は」

「最初は? ……あー、どうせそんあとの喧嘩で悪化したんやろ」

「ですです。折れてる腕で無理くり竹刀振るったせいで、もうごりごりと。……西城自身、血祭りに上げてる最中思ったものですよ。『あー、これ絶対骨が血管と筋肉貫通したわ』って。救急車で病院に搬送されて、即手術でした」

 

 お医者さまにかなりのお叱りを受けてしまったです。彼女はそう言って、雀から差し出された箸へと食らいつく。そんな風に会話をしながらも滞りなく食事を進める西城たちとは反対に、俺は聞こえてきた会話のせいで自分の食欲が失せていくのを感じていた。

 グロいんだよ。飯時の会話じゃねえよ。

 ふと、俺は何気なく隣のあんずへと視線をやる。彼の耳にも彼女たちの話し声は届いているのだろう、あんずはほんの少しだけ困ったような表情を浮かべて、昼飯を食べるでもなく箸を宙に彷徨わせていた。どうやら考えていることは同じらしい。

 

「救急車ち、どげえしたん。スマホ? 折れてる腕で?」

「まさか。大きな通りまで自力で歩いて通りすがりの人を呼び止めたですよ」

「うっわあ……」

「返り血と吐瀉物まみれの落武者じみた風貌でしたからね。ちょっとした騒ぎになってしまったです」

 

 あの雀がドン引きしている。かなりレアな光景ではあるものの、そんな彼女を目にしたところで胸がすくような気分になるわけでもないから、俺はただただ心を無にすることだけ意識していた。

 

「なんにせよ、古鷹最強のハナちゃんに喧嘩売るなんざほんとアホやなっち話やわ」

「面映ゆいですね」

 

 言葉通りの本音を口にしている風の雀とは対照的に、西城は言葉ほど面映ゆがっているようには見えなかった。

 なんとはなしにため息をついて、俺は再び空を仰ぐ。

 開放的なはずの屋上だというのに、今はどこか、今日の天気のように憂鬱な空気で満ちているように思えた。

​ 

・・・・

彼女

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