西城花姫がぼろぼろの状態で登校してきてから数日、俺は普段と変わらない日常を送っていた。学校に行って、授業を受けて、昼休みはあんずたちと屋上で昼食をとり、放課後になったら唯と一緒に旧校舎の美術室へと向かう。ただそれだけの日常で、特別なことは本当に何もなかった。
西城も当然のように毎日登校してきていた。個人的にはしばらく静養してもいいのではないかと思うけれど。
ところでそんな彼女だが、翌日からは学校指定のポロシャツを着て登校するようになった。両腕の動きが制限されている今、着替えるたびにボタンの開け閉めが必要になるカッターシャツでは色々と不便だったのだろう。
それから週末を挟んで、六月二十九日の月曜日。その日は朝から雨が降っていて、例によって頭痛持ちの俺は憂鬱な気分に陥りながらも一限目の授業をつつがなくこなす。そして迎えた休憩時間に、俺は何気なく――本当に何気なく、暇潰しに携帯をいじる最近の若者よろしくスマートフォンの画面に電源を入れた。
「……はっ!?」
思わず、そんな声を上げてしまう。それで驚かせてしまったのか、隣の席のあんずがこちらを振り返った。
「え、何。どうしたの?」
「ああ、悪い……なんか通知がえぐくてさ」
「通知? 何かバズったの?」
「いや、全部親から……」
言いながら、液晶へと向き直る。果たしてそこには不在着信の通知が大量に表示されていた――いや、着信だけじゃない。メッセージアプリからの通知もかなりの数届いていて、不在着信も加えると五十件近くに上る。一限の授業のあいだに、一分に一度着信が来ていたような状態だ。
念のため母に代わって言い訳をさせてもらうが、いくら彼女が俺に過干渉と言えども、授業中と知りながら息子に鬼電をしてくるほど非常識な人ではさすがにない。曲がりなりにも火宮本家に嫁いだ女性なのだ。相応の良識や価値観はきちんと備えている。
だというのに、これはなんだ……?
呆気にとられていると、またメッセージが届いた。うっかり既読をつけてしまわないように気をつけながらメッセージアプリを確認する――と、そこで初めて気がつく。俺はてっきり、通知はすべて母親からだと思っていたのだが、そうじゃなかった。
鈴音から、三件届いている。俺は迷わず彼女のトークルームをタップした。
『ハルくんへ。授業中にごめんさい』
『スズちゃんが、土曜日に病院へ搬送されていて、今も入院してるみたいなの』
『それについて本家の人じゃなきゃいけないお話があって……このメッセージを見たら連絡をお願いします』
読み終えて、それからすぐに席を立つ。
「ちょっと、電話」
あんずにそう言い置くが早いか、俺は教室を飛び出して急ぎ足で屋上に続く階段の踊り場へと向かう。そして画面に表示させたままのトークから鈴音に電話をかけた。
通話は、すぐに繋がった。
「もしもし、鈴音? 俺だけど」
『ハルくんっ!』
繋がった――と思った瞬間、悲痛な声が鼓膜に届く。
その泣きそうな声に、ただごとではない雰囲気を感じ取る……だからこそ、俺は努めて平静を装いながら話しかけた。
「今、平気?」
『大丈夫……休憩時間だから』
「だよね、俺もそうだよ。……それで、うちの母親からも鬼電きてたけど、あいつ何やらかして病院送りになったわけ?」
『そ、それが……』
戸惑いを隠せない口調のまま、歯切れ悪く、彼女はそれを口にする。
「――――え?」
その、耳を疑わずにはいられない内容に、思わず困惑の声が漏れてしまった。
「ごめん、今……なんて言った?」
『気持ちはわかるよ。私も、信じられないもん』
鈴音はそこで一拍間を置いて、
『――スズちゃんが、悪いお薬のせいで入院しちゃっただなんて』
と、そう言った。
悪い薬、と彼女はぼかしたけれど、おそらくは薬物のことを指しているのだろう。
薬物――違法ドラッグ。
「……当然、あいつが自主的にやったわけじゃないよね?」
『勿論だよ。スズちゃんがそんなこと、するはずないもの』
「だとしたら……」
だとすれば。
第三者に、無理やり使われたということだ。
『男の人が数人がかりで押さえつけて、そのまま……』
「…………」
『その人たちはもう逮捕されてるんだって。ただ……スズちゃんがうちの一族の子だなんて知らなかった、って言ってるらしくて』
「……知らなかった?」
火宮一族だとひとくくりにしても、雀は現当主である火宮翔鳳の実娘だ。……俺や鈴音とはレベルが違う、本家の中でも本当に手を出してはいけない人間である。
それも知らずにそんな凶行に及んだということは、犯人たちが無差別に選んだ結果として運悪くあいつが襲われたのか――あるいは、誰かに雇われていたということか?
『詳しいことは私もまだ聞かされてないの。ただ、そのあたりの事件性も考えて、この話は本家以外の人には知らされてないんだって。スズちゃんが病院にいることも、分家の人たちにはまだ言っちゃ駄目って……』
「それは」
そこで一度、俺は言葉を区切る。
「あいつを守るためじゃなくて……たぶん、ただ外聞を守りたいがためなんだろうね」
『……私も、そう感じた』
外聞。体裁。体面――世間体。
それらの重要性は俺だって理解している。理解はしている……けれど。
火宮翔鳳。
実の娘に対しても、そんな対応をするのか。
そんな対応が、できてしまうのか。
『ユウくんも心配してるみたいだし、私としても、スズちゃんが入院してるってことくらいは伝えてあげたいんだけど……』
「鈴音が悪いわけじゃないよ」
形ばかりの慰めを口にする。確かな本音ではあるのだけれど、それを伝えたところでなんら意味をなさないということは、俺にもわかっていた。
それから二、三やり取りを交わしたあと、俺は通話終了のボタンをタップした。そして端末をスリープモードに切り替えてからスラックスのポケットにしまおうとして――その手を止める。
ひとつ、確かめなければならないことに気がついたからだ。
再度スマホに電源を入れて、画面のロックを解除してから、ブラウザアプリを起動させる。
そして俺は――パンドラの箱を開いたのだった。
* * * * *
四限までの課程を終えて、昼休み。授業で使った教科書やノートを片付けていると、不意に、隣の席のあんずが話しかけてきた。
「ねえ遥」
「ん?」
「二限のとき、何か聴いてた?」
「ああ、うん」
その問いかけを肯定するように、俺は頷く。
「ちょっとね。秘密にしてくれよ?」
「いいよ。ばれてなかったと思うし」
こちらを訝るような様子もないままに、先生には内緒にしてあげるね、と彼は笑ってくれた。
二限目の授業のとき――正確には鈴音との通話を終えて自分の席へと戻ってすぐ、俺は無線のイヤホンを右耳にだけ装着した。完全ワイヤレス式のものだから目立たないし、二限の先生は基本的に板書で授業を進めるタイプの人なので教壇からは死角になっている。
そして何食わぬ顔でノートを取る振りをしつつ、左手は机の中でスマホの操作をする――まさか自分がこんなことをする日が来るなんて、想像だにしなかったけれど。
授業を放棄してまでそんなことをしたのは、言うまでもなくパンドラの箱を確かめるためだ。
くだんのサイトを開いてみると、トップページには新着動画が上がっていた。投稿者は、果たしてピュリスである。
その内容を簡潔に言い表すのなら、西城花姫の二番煎じだった。時間帯はわからない。薄暗い路地裏のような場所で、ひとりの少女が複数人の男たちに腕ずくで地面に押さえつけられている。
前回の動画と相違点を挙げるとするなら、まず男たちの面子が大きく入れ替わっていることと――前回の彼らは西城の手で根こそぎ半殺しにされたとのことなので当然かもしれないが――そして何より、映像の少女が西城花姫ではなく、火宮雀であるという点だろう。
動画に映し出されているのは、数人がかりで身動きを封じられている雀の姿だった。唯一自由な口で何事か怒鳴っている。おそらくは罵詈雑言のたぐいなのだろうが、常から訛っている彼女の口調が一層激しさを増していて、俺にはまったく聞き取れなかった。
男たちは地面に押さえつける以上の暴力を雀に振るってはいない。前回の彼らのように不愉快な笑い声も上げていない。ただ黙々と、事務的なまでに粛々と、まるでロボットか何かかのように作業を進めていく。
そして、光を反射して鈍い輝きを放つ、細長い注射器が画面に映ったところで――映像は終わった。
動画を最後まで見届けたあと、俺はサイトのページを切り替えて投票結果を確認する。
結果は、僅差で龍崎風歌の勝利だった。
そして――かつて雀の写真があったはずの場所に、こんな英文が表示されている。
She is in Elysium.
「火宮ァー」
声をかけられて、俺は我に返る。
振り向くと、いつの間にかクラスメイトの男子が立っていた。野球部に所属しているくせに遊び呆けてばかりいて、果てには俺に金をせびってくるやつである。
ちなみに、あんずに教えてもらった彼の名前についてだが、土日を挟んだことですっかり記憶から抜け落ちている。別に困らないからいいのだが。
今度は何用なんだよ、と思わず構えるも、しかし彼の用向きは予想外なものだった。
「A組の九条が、なんか火宮を呼んでほしいって」
「えっ、雄助が?」
あまりにも思いがけない内容だったので、うっかり素のリアクションを返してしまった。
俺には俺の人間関係があるように、当然、雄助には雄助の人間関係がある。俺たちは親友だし幼馴染でもあるけれど、それでも結局は赤の他人だ。相手のコミュニティに余計な干渉をするべきではない。
だから、お互いになんらかの取り決めをしたとか、別にそういうわけじゃないけれど、なんとなく、学校で会うのは放課後の美術室だけという風になっていたのだ。
それなのに、彼は昼休みに俺の教室を訪ねてきた。
嫌な胸騒ぎが、瞬時に身体中を駆け巡る。
「……ちょっと行ってくる。あんずは先に行っててくれていいから」
「はーい」
ひらひらと手を振るあんずの姿を認めてから、俺は教室を後にした。
雄助は廊下に出てすぐのところにいた。昼休みを迎えたばかりなので生徒の往来が激しく、そのため彼は邪魔にならないように、窓側の壁にもたれかかるようにして立っている。
そんな姿勢のまま、雄助はじっと足元を見つめていた。そのせいで長い前髪が目元を隠して、表情が読みにくくなってしまっている。そばまで近寄ってみても反応がなくて、こちらに気付いているのか気付いていないのか、そもそもきちんと見えているのか否かも俺には判断がつかなかった。
「雄助、どうした?」
「…………」
声をかけてもうつむいたままで、彼は黙り込んでいる。
雄助、ともう一度呼びかけてみる――そこで初めて、彼は顔を上げてくれた。
上げてくれはした……けれど、そうしてやっと見ることができた雄助の顔からは、感情というものがすっかり抜け落ちているように思えた。
……これは、あまりよくないかもしれない。
「土曜から――スズと連絡がつかねえんだよ」
前触れもなく、彼が沈黙を破る。雄助が雀について訊いてくるだろうことは、一応は予想できていたことなので、やっぱりそのことか、とだけ俺は思った。
俺と雄助が幼馴染ということは、必然、雀や鈴音たちも彼とは幼馴染ということになる――どころか、あちこちに転校してばかりだった俺と違って彼女たちはずっと古鷹にいるのだから、単純な付き合いの長さならふたりのほうが上だ。
特に雀は、昔からいつも雄助とつるんでいたように思う。周囲からもニコイチなんて呼ばれるほどだったし、本人たちもお互いのことを相棒かのように扱っていた。その関係は今でも変わらないようで、九条雄助は火宮雀の腰巾着である、みたいな噂を時折耳にすることだってある。外野には本家だの分家だのといった関係なんてわからないだろうから、そんな風に見えてしまうのも致し方がないのかもしれない。
いずれにしろ、週末から突然音信普通になったあいつを案じて彼が俺の元を訪ねてくるというのは、鈴音との通話の時点で十分に考えられる可能性だった。
「リンには昨日、自分にもわからないって言われちまったんだけどさ」
「ああ……それはたぶん、本当に知らなかったんだと思うよ。俺もついさっき聞いたばかりだし」
「じゃあ本家内に情報が回り始めたのは今朝方ってことか……ふうん……」
「……ごめんな。教えてやれなくて」
「いいよ。本家には本家の事情があるだろ」
本家の中で起きた不祥事を分家に口外するなと命じられたことは過去にも数度ある。その前例については俺と雄助も幾度か経験していた。
そうだ、俺たちは知っている。一族の人間である限り、今回のように沈黙を余儀なくされることもあると――有事の際にはそのような対応を本家が取りかねないということを、俺たちは身をもって体験している。
だからこそ。
「だけどよ……箝口令が敷かれてるってことは、相応の事態に巻き込まれてるってことじゃねえのか」
だからこそ――似たような状況がまた起きたときには、嫌でも察しがついてしまうのだ。
当然ながら、いくら察しがついたところで雄助はそれを俺に訊くべきではないし、俺も答えるわけにはいかない。なんのための箝口令だ、という話になってしまう。
きっと本人も、頭では理解しているのだろう。けれど感情では納得しきれていないといったところか。
……とはいえ。俺が口止めされているのは、あくまでも上が把握している情報に関してだけである。パンドラの箱に投稿された動画についてはその限りではない。
だから、あくまでもくだんのサイトと動画についてだけなら、俺は雄助に教えてやることができる――できはする、のだが。
そこまで考えて、その思考を一旦ストップさせる。それから上目を使うようにして、目の前にいる幼馴染の顔色をうかがってみた。
表情が硬い。緊張したように顔の筋肉が強張っているのに、垂らした前髪の下にあるまぶただけが神経質そうに伏せられている。その瞳には懸念や苛立ち、焦燥感といった感情が複雑に入り混じっているのが見てとれて、ぴりぴりとした空気を放っているのがこちらにも伝わってきていた。
これはまずい……非常にまずい。今の雄助はまさに一触即発状態だ。実は男たちが数人がかりで雀を押さえつけて違法薬物を打った動画があるんだけど……、なんて言えるわけがない。そんなこと話してみろ、絶対にぶちギレるどころじゃすまない。
そもそもこいつはこいつでかなり血の気が多いのだ。気性の荒さが目立つ比較対象が多いせいで相対的に穏やかな気質をしているように思われがちだが、実のところ雀にも引けを取らないレベルで気が短い。唯のときだって静かに話を聞いているように見えてやばいくらいキレていたし、もしも俺が行動を起こしていなかったら雄助は雀と一緒に竹河を半殺しにしていたことだろう。
……ここは、慎重にいかなくてはいけない。絶対に勘づかせないように、杞憂だと思わせるように。
「あんまり気にするなよ。どうせいつもみたく、あいつがなんかやらかしただけ、だって――」
「…………」
努めて柔らかい口調を意識して、そんな諭すようなことを言おうとした途中で――しまった、と思った。
言葉の選び方を間違えたわけじゃない。むしろそれ自体は最適解のものだったろう。
ただ単に、タイミングを誤ったのだと、彼の目を見た瞬間にそう悟った。
とっさに後ろへ下がろうとしたときにはもう遅く、瞬きをした次の瞬間には、雄助は俺の胸倉へと掴みかかっていた。
そして。
「てめえは、ダチが――家族が! 大切なやつが危ない目に遭ってるかもしんねえってのに、なんでそんな落ち着いてられんだ!」
咆哮のような怒鳴り声が、昼休みを迎えたばかりの廊下へと響き渡った。当然だが人通りはそれなりにある。だというのにその瞬間、周囲は水を打ったようにしんと静まり返ってしまった。
しかしそれも束の間のことで、すぐに元の喧騒へと戻る――いや正確には、また新たにどよめきが起こった、と表現すべきなのだろう。なんだ、喧嘩か? 誰か先生を呼んできたほうが……、などといった声があちこちから聞こえだす。
「ゆ、……すけっ」
襟口が閉まっているので呼吸ができない。幼馴染の名前を口にしたはずなのに、零れる声はまともな音にもならなかった。
ああもう、ちょっと最近こんな目に遭ってばかりじゃないか? ひと月も経たないうちに胸倉を掴み上げられること四回目だぞこれ。前世で俺はどれだけの罪を犯してくれやがったんだ!
さながら現実逃避かのように、前世の自分への恨み言を胸中へと吐き捨てる……と、そんな俺の襟元を締め上げる雄助の腕を、横から伸びてきた第三者の手が掴んだ。
「ちょっと、九条!」
声を荒げるその姿があまりにも彼らしくなくて、思わず反応が遅れてしまったけれど、その人物を――萩原杏のことを、俺が見間違えるはずもなかった。
まだ唯のところに行っていなかったのだろう。そして教室にいたのなら、ほとんど壁一枚しか隔たりのない場所で起こっている騒ぎなんて、そりゃあ気付くに決まっている。
騒ぎに気付いて、その渦中に俺がいるとわかったから、彼は駆けつけてくれたのだ。
「何やってるんだよ、やめなよ!」
「うるせえ!」
あんずは雄助を俺から引き剥がそうとしたのか、その腕にすがりつくように掴みかかる。が、彼の手は雄助の荒々しい動作によっていともたやすく振りほどかれてしまった。
「これは俺とハルの話だ、部外者は黙ってろ!」
雄助はあんずに向かって怒鳴り、そして睨みつけた。そのすさまじい剣幕に気圧されてしまったのだろう、彼は怯んだように一歩後ずさりをする。
あんずの手は雄助から離れてしまったものの、しかし雄助の意識はそちらへと向いてくれた。おかげで、今も胸倉を締め上げる手からわずかに力が抜けて、不自由だった呼吸が楽になる。
「あ……あんず!」
ようやくまともに出せるようになった声で、俺はあんずに向かって呼びかける。
「俺は大丈夫だから……放っておいていいから!」
「で、でも……」
困惑したような顔つきでこちらを見つめるあんず。無理もない、もしも立ち位置が逆だったなら俺だって彼を見捨てて置いていくような真似はしないだろう。
けれど、だからといって激昂している雄助の矛先をあんずに向けさせるわけにはいかない。そんな思いが通じたのか、あるいは単に横から口を挟んだことが癪に触ったのか、幸いにも――と言っていいのかはわからないが――雄助の視線は俺へと戻る。襟口を掴む手に再び力がこもるのがわかって、俺は反射的に固く目を瞑った。
そのときだった。
「――騒がしいな」
氷のように冷たく透き通った声が聞こえて、外野を含めたこの場にいる全員の視線が、一斉にそちらへと向けられる。
「往来の邪魔なんだよ、君たち」
果たしてその先には、さながら淡雪のような白磁の肌と、まさしく残月のごとき白銀の髪をもつ。
雪村月見が眉をひそめて、そこに立っていた。
彼女の姿を誰もが視認した瞬間、俺たちの周りにひしめいていた野次馬どもがそろって左右に分かれた。廊下を通ろうとする雪村のために道を譲った、というより、彼女の影を踏まないために廊下の端へと逃げた、というような動きで。まるでモーセの海割りである。
ふと見れば、開けた人垣の先にいたのは雪村だけではなかった。三年A組――奇しくも雄助のクラスメイトである龍崎風歌も、その背に立っている。
いや……奇しくも、なんて副詞を使うのだったら、それは雄助のクラスメイトであることに対してではなく、彼女が雀の対抗馬だったことに対して用いるべきなのだろう。
龍崎が選ばれ、龍崎が勝利を得てしまったからこそ。
あいつは今病院にいて、巡り巡って俺がこんな目に遭っているのだから。
……勿論、くだんの投票は龍崎の埒外で行われたのだから、彼女を責めるのはお門違いもいいところなのだが。
「つ、きみ……」
不意に誰かの声が聞こえて、俺はそちらへと視線を向ける……と、雄助が狼狽のような表情で雪村を見つめている姿が視界に入った。いつの間にか彼の拳はほどかれていて、俺の制服からも離れてしまっている。
見るからに取り乱している雄助の様子に、突然どうした、という疑問を挟む隙もなく――出し抜けに、雪村が彼の頬を張った。
ぱしん、と。軽く乾いた音が立つ。思わず呆気にとられていると、彼女は続いて俺の頬にも平手打ちをした。雄助のときと同様に、いっそ痛快なくらいに乾いたいい音が響いたけれど、そんな響きに反して思ったより全然ダメージはない。
とはいえ、呆然としていたところに追い打ちをかけられたようなものなので、どうしたって反応は遅れてしまう。そんな俺に雪村は一瞥もくれないまま、くるりと回れ右をした。白い髪が流れるように翻る様に、思わず目を奪われる。
そして彼女は、何故かあんずにもビンタを喰らわせた。
……………………。
いや、本当になんでだよ。
「ええぇーっ!?」
悲鳴を上げたのは龍崎だった。
「どうして今の流れで萩原さまもビンタなさったの!? 明らかに仲裁なさっていた側なのに!」
「うるさいな。ついでだよついで」
「ついで!? あなたそんな軽いノリで人に平手を打つの!?」
おお、俺たちが思っていることを全部歌姫が代弁してくれている……若干本性の地金が出てしまっているけれど、キャラを演じる余裕もないくらい彼女も動揺しているのだろう。
「いいんだよ、君は気にしなくても。さ、こんなやつら放っておいて、あっちで私とゆりゆりしようぜ」
「え、よろしいのですかっ? ……って違いますわ! さすがに今のは謝罪と説明を――あのっ、手を引っ張らないでくださいー!」
喚く龍崎をガン無視して、雪村は彼女の手を掴むと、引っ張るというよりは半ば引きずるような形で強引に割れた人海のあいだを渡っていく。その足取りがいささか急ぎぎみだったせいか、引きずられている龍崎の足元が幾度か危ういことになっていた。
そうして、あっという間に彼女たちの背中は見えなくなる。それを見届けてしまうと、なんというか、がっくりときた。
突然登場したかと思えば瞬く間にシリアスな空気をぶち壊して、あまつさえ俺たちを放置したうえで早々に退場する。まるで嵐のような女である――いや、むしろこの場合は、吹雪と形容したほうがそれらしいのだろうか。
ひとつ深い息を吐いて、俺は雄助へと目をやる。彼は呆然とそこに突っ立っていて、けれどその表情には先ほどまであった強張りはもう見えない。目からは激情の色が消えているし、光も戻っている。本当に、ただぼんやりと考えごとをしているだけといった様子だ。
俺はそのことに心からの安堵を覚えて、それから気を取り直すようにあんずへと視線を向ける。
「なんか、変なことに巻き込んじゃってごめんな」
「へ、……あ、ううん。僕は大丈夫、なんだけど」
全然痛くなかったしね、と笑いながら彼は自分の顎の辺りを撫でる。どうやら身長差があったせいで雪村の手はあんずの頬にまで届かなかったようだ。
「えっと……それで、遥は?」
「俺のことは本当に気にしないでいいから、あんずは唯のところに行っててくれるか」
「でも……」
「あいつを待ちぼうけさせるほうが可哀想だろ」
俺はそう言って、再び雄助へと向き直った。
「行こう、雄助。な?」
促すように彼の腕を掴むと、黙り込んだままではあったものの一応は頷いてくれる。その反応を確認してから俺は人だかりをかき分けて廊下の奥へと雄助を連れ出した。
三年B組から離れて、適当な空き教室の中に入る。そして椅子に腰を下ろすのとほとんど同時に、
「……悪い」
と、雄助が口を開いた。気まずそうに目を伏せてこそいたけれど、存外素直に謝罪の言葉を口にする。
「いいよ、別に。気にしてない」
「でも、かっとなって八つ当たりした……ハルが悪いわけじゃないのに」
そういう思考に至れるくらいにはどうやら平静を取り戻しているらしい。ならそれでいい。いきなり胸倉を掴まれたことには、まあ当然驚きはしたけれど、元より俺はそれに対して憤りを覚えてなんていないのだから。
「ハルのことだから、俺を落ち着かせるためにわざとあんな態度を取ったんだって、少し考えればわかることだったのに」
「もういいって」
少しだけうんざりした風の声色を装って言えば、そこでようやく雄助は顔を上げてくれた。すっかりしょげこんでしまっているその表情があまりにもらしくなくて、俺は思わず失笑してしまう。
「今日の放課後、鈴音と一緒にあいつの様子を覗いてくるよ。それを雄助に話せるかどうかは、実際に会ってみないとわからないんだけど……」
「ああ……うん、そうだな。ふたりによろしく」
そう言って頷く雄助。真っすぐにこちらを見据えてくるその瞳は、もう沈んでなんていなかった。
お互いの視線が正しく交差したことを確かめて、やにわに俺は彼に向かって拳を突き出す。そんな不意の行動に雄助は瞠目したようだったが、しかし次の瞬間には理解したらしく、彼は顔をほころばせると自分の拳を俺のそれにぶつけてきた。
「……スズのことは頼んだぜ、親友」
「ああ。任されたよ、親友」
そう返しながら、なんて卑劣なのだろう、と自分で思う。幼馴染を案じているからこそ激昂して、それを親友に当たり散らしてしまったことで自己嫌悪に陥る……雄助は確かに気が短いけれど、だからこそそんな彼の感情表現はいつだってストレートだ。
対して俺はどうだろう。慚愧に堪えないといった様子の雄助を見たくないがために、こうして意味のない慰めを言葉にしている。雀のことを頼まれたところで、それを確約できる保証もないくせに。
こんな俺を、あの兄は道化と呼んだのだったか。
まったくもっておっしゃる通りだ。
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