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 金剛町に所在しているその病院は、古鷹高校の最寄りのバス停から一時間ほどの距離にあった。と言っても、路線の都合、信号の数、雨天による渋滞、利用客の乗降などのロスタイムを加味しての一時間なので、平常時ならもう少し早く到着するのかもしれない。実際、地図アプリによると自動車なら二十分足らずで到着できる計算になるらしい。

 とはいえ放課後を迎えたばかりの学校にタクシーなんて呼んだら悪目立ちをしかねないし、さりとてこの雨の中を自転車で金剛まで行くというのも当然論外だ。

 そういうわけだから自転車は学校の駐輪場に置きっぱなしにして、金剛までの移動手段にはこうしてバスを利用させてもらっている。

 その病院は県を代表するだけあって立派な外観をしていた。大きくて、それでいて多少古臭さがあるような、そんな印象である。

 正面玄関から院内に入ると、特有の独特な清潔感の匂いがこもっているように感じた。どこか静謐さすら覚える匂いとは対照的に、広い待合ホールは喧騒に包まれている。夏らしく冷房の効かされた空間には、そろそろ診療時間も終わる時間帯だろうに、思いのほか外来の患者らしい人々でごった返していた。

 院内に足を踏み入れた俺は、そのままフロア内をぐるりと見渡す。すると待合ホールに並べられたパステルカラーのベンチ、そのもっとも端の席に腰かけている少女を見つけた。シンプルながら品のよさを感じさせるジャンパースカートは、確か明高の制服だったはずだ。

 彼女のほうもこちらに気がついたのか、

 

「あ、ハルくん……!」

 

 と。火宮鈴音は不安げな表情から一転、心底ほっとしたように破顔してみせた。

 

「遅れてごめんね」

 

 彼女の通う明石学園女子高等学校――通称明高は、金剛町に所在しているお嬢様学校だ。この病院の近所というわけではないらしいが、とはいえかなりの時間待たせてしまったことだろう。

 けれど鈴音は、

 

「ううん、いいの。ハルくんが来てくれて、本当によかった……」

 

 そう言って、彼女はおもむろにベンチから立ち上がる。入院病棟はこっちだよ、と先導するように歩き始めたので、俺は素直にその後に続くことにした。

 

「本家以外は面会禁止なんだってね」

「……うん」

「総帥殿は?」

 

 無言で首を横に振る鈴音。まあ予想はできていた。

 

「土日のあいだは夜鷹さんがずっと付きっきりだったそうなんだけど、昨日からは……」

「社畜極めてるからね、あの人」

 

 意図せず冗談めかすような口調になってしまったが、我ながらまったく面白くなかった。

 本当なら夜鷹は、仕事も責務も何もかもをかなぐり捨ててでも妹のそばにいたかったはずなのだ。あいつはそういう男だ。けれどそんなことをすれば間違いなく雀の怒りを買うだろうし、彼もそれをわかっているからこそ月曜には職務に戻ることを選んだのだと思う。

 自分のせいで、ではなく、自分を理由にしたことに、きっとあの女は怒るだろうから。

 火宮雀は大概身内に甘い女だ。しかし実兄に対しては異様に厳しい節がある。それは歳の離れた兄貴への反抗というより、自分が認めた相手――自分が尊敬するに値すると判断した者には、相応の人物であることを強要しているかのようだった。それはある意味、あの西城花姫とはまたベクトルの異なる苛烈さだといえるだろう。

 夜鷹にとってそれは相当なプレッシャーになっていると思う。実のところ、スペックそのものは彼女のほうが遥かに上なのだ。自分よりも優秀な人間から理想像を押しつけられるなんて、まさに想像を絶するほどの地獄だろう。

 けれどそれも、あの男の言を借りるなら――嫌になったらいつだってやめることができる、なのだろう。

 夜鷹は雀の兄であろうとしている。彼女の指針であり続けることを受け入れている。そんな男が、今更妹の期待を裏切るような真似はしないはずだ。

 それで言うと、悠哉は俺の兄であることを放棄した、ということになるのだろうか。まあそれに対しては、特段苛立ちもしないけれど。

 俺には姉さんがいるし。

 閑話休題。俺と鈴音は受付窓口の前に立っていた。面会終了間際の時間帯だったからかスタッフの女性はそれとなく難色を示したものの、俺たちと患者の名前を告げたとたん、その表情をさっと変える。そして、少々お待ちください、と言い置いて彼女は窓口の奥へと引っ込んでしまった。

 渡された面会証を手にしばらく待っていると、受付ではなく廊下の奥からひとりの看護師が現れた。中年を過ぎたくらいの年齢に見えるが、背筋をしっかりと伸ばした、どこか毅然とした雰囲気を纏う女性である。

 

「こちらにどうぞ、ご案内いたします」

 

 有無を言わせないようなその口調に、俺たちは言われるがまま彼女の背中に続く。

 それにしても、終了時間ぎりぎりの面会が叶ったり、見るからに上役っぽい看護師直々の案内を受けたり……こういうところで実家の権力を感じると、なんとも微妙な気持ちになってしまう。居たたまれないというか、申し訳ないというか。その恩恵にあずかっている立場なので何も言うことはできないのだが。

 

「火宮雀さんの容態ですが、いまだ血圧、脈拍などの数値にやや不安定さを残していますが、本人の意識自体ははっきりとしています。歩行にふらつきなども見られませんが、現在は大事をとってベッドで安静にしていただいています」

「はい」

「続いて精神面に関してですが、搬送直後はいわゆる錯乱状態に陥っていたことが確認されていまして、おそらくは摂取させられた薬物に由来するものと考えられます。現在は回復されていますので、問題なく対話も行えます。ご安心ください」

「……はい」

 

 ご安心ください。きっとそれは、俺たちへの気遣いから出た言葉だったのだろうけど、気遣われようが気遣われまいがあいつが薬物で襲われた事実は変わらないわけで。それを思うと、安心なんてできるはずもなかった。

 雀が……あの火宮雀が錯乱状態に陥っていたなんて、にわかには信じられない――ただ単に、信じたくないだけかもしれないが。

 ……それでも、思っていたより容態は回復しているらしい。雄助に報告できることが増えたのは素直によかったと言えるだろう。

 エレベーターで目的の階に到着する。そのまま通路の奥に向かっていると、ところで、と藪から棒に看護師さんがこちらを振り向いた。

 

「アサヒちゃん、というのは雀さんのお友達ですか?」

「え?」

「繰り返し呟いていたそうなんですよ、その子の名前を。うわ言のように、ずっと」

 

 そう言って、彼女は視線を前に戻した。どうやら特に深い意味があっての質問ではないらしい。

 しかしながら、アサヒという名前の女子に俺は覚えがなかった……まあ、あいつの交友関係なんて把握しているわけがないから、当たり前といえば当たり前なのだが。

 

「――はい」

 

 と。

 不意に、隣の鈴音が静かな声で頷いた。

 

「とても大切な、お友達です」

 

 どこか神妙な面持ちで彼女はそう続ける。それが気がかりではあったのだが、こちらです、という看護師さんの声に俺の意識はそちらへと引っ張られた。

 そこは通路の一番奥の一室だった。看護師さんがノックをすると、どうぞー、と締まりのない声が中から返ってくる。その応答を受けて、失礼します、と彼女は扉を開いた。

 病室は当然のように居間付きのひとり部屋だった。冷蔵庫だのテレビだのは普通の病室にもあるのだろうけど、そこへ持ってきてデスクやユニットバスまで備え付けられている。飾り気のない壁や天井の白さがかろうじて病室らしさを演出しているが、そうじゃなかったらちょっとしたビジネスホテルの一室だと言われても疑念を抱かなかったかもしれない。

 そして、窓際に設置されているベッド――その上に、火宮雀は腰かけていた。

 

「やっと来たね、待ちくたびれたよ」

 

 まるでこちらを見透かしていたかのように、そいつは俺たちを出迎えた。謎に標準語の台詞で。

 彼女は入院患者らしい寝巻姿をしていた。とは言っても野暮ったいパジャマではない。フレンチスリーブのシャツとホットパンツは上下ひとそろいのデザインで、一瞥して高品質だとわかるルビー色の生地はほのかな光沢を帯びている。そしてそれを身に纏っている雀は、金色に染めた自身の髪に鋏を通しているところだった。

 じゃぎん、と。どう表現すればいいのか形容に困る音が聞こえた。え、と思ったときにはもう遅く、切り落とされた金髪は重力に従って、ばさりと音を立てて床へと落ちていく……というかよくよく見たら、ベッドの下には既に取り返しがつかない量の毛髪が散らばっていた。

 

「……………………は?」

「なーんてな、ツッキーの真似! いやー、いっぺん言ってみたかったんよなあ、これ! そんなわけでいらっしゃいリンちゃん! ってあれ、ハルもおるやん。ちょうどいいわ、あんた手先器用やろ? ちょっちお願いがあって――」

「何をしているんですかーっ!」

 

 唖然とする俺。隣で言葉を失った様子の鈴音。そしてドン引きしている俺たちに構うこともなくハイテンションで喋り続ける雀――その声に被せるようにして、看護師さんの怒鳴り声がフロアに響き渡った。

 いや、本当に何してんだよ、お前。

 

「だあーって、せっかくの個室なんに毎日風呂に入れんらしいし、部屋から出るな言われよるけん美容室にも行けんし、そのくせ退院の目処は立っとらんらしいし。手入れもまともにできんがやったら、こげなもん長ったらしくて鬱陶しいだけやわ」

「わからなくはないけど、だからって病室で断髪するやつがあるかよ……髪って、女子にとっては命みたいなものなんじゃないのか」

「髪は死んだ」

「ニーチェとかけたところで何もうまいこと言えてないからな」

 

 というかたった今お前が殺したんだ。雑に切り乱された金髪を見下ろしながら、俺はそう呟いたのだった。

 ところで、自身の髪を切ったり抜いたりする行いは、精神医学においてある種の自傷行為と考えられているらしい。髪は女の命、なんて使い古されたフレーズがあるけれど、だからそれはあながち誇張された表現ではないのでそうだ。自らの手で髪を断つという行動はそれほどに重い意味を孕んでいるという。

 ……なのだが。こいつの場合、それこそ大相撲の断髪式のような男らしさを感じてしまうよな……。

 そんなこんなで今現在、俺は鋏を手にして雀の背後に立っている。彼女が腰かけている椅子の下には、看護師さんたちにもらった新聞紙やらビニールやらを敷き詰めていた。……そんなこんなってどういうことだよと思われるかもしれないが、正直それに関しては俺が一番訊きたい。

 切ってしまったものは後の祭りだ、という看護師さんの英断――諦観ともいう――のもと、後片付けをすることを条件に病室での散髪行為に許可が出された。そのために必要な道具を色々と貸してもらったのだけど、俺が持っている鋏も、実は院内の美容室から急遽借り受けたものである。

 本当、こいつが火宮の令嬢じゃなきゃ絶対に許されない暴挙だぞ、こんなの。

 ちなみに鈴音には清掃用具を借りにいってもらっている。使い走りをさせることになってしまったが、当の本人が喜々とした表情を浮かべていたので、まあ、別にいいのかもしれない。

 ここに来てからずっと不安げだった彼女の顔が、ようやく和らいでくれたのだ。それは雀の愚行のおかげ、というのも確かにあるのだろうけど――こいつのテンションが至って普段通りだったから、いつもと変わらない火宮雀だったからこそ、鈴音はようやく胸を撫で下ろすことができたのだろう。

 

「……ところでさ、これを整えるとなるとかなり短くなるからな。あとで怒るなよ」

「怒らんて。なんならハルとおそろでもいいわ」

「それは俺が嫌だよ……ていうかこれ、夜鷹にはどう説明するつもりなんだ?」

「うげっ」

 

 露骨に嫌そうな声を漏らす雀。どうやらそこまで考えが及んでいなかったらしい。本物の馬鹿じゃねえか。

 逐一つっこみを入れるのも面倒なので、黙って彼女の髪に専念することにした。しばらくのあいだ、無心で鋏を動かし続ける。そうしてある程度の長さまで切りそろえ終わったので、デスクの上にあるすき鋏を取ろうと俺は一旦雀から離れた。

 すき鋏を手にして振り返る。そこでふと、椅子に腰かけている彼女の姿に――より正確にいうなら、彼女の脚に意識が引き寄せられた。作業中はあえて視界に入れないように努めていた、彼女の脚に。

 

「……なあ」

「うん?」

「それ、……どうしたんだよ」

 

 雀が着ているルームウェア、そのボトムスは先ほどにも述べた通りホットパンツである。その裾から腹立たしいほどに長い脚が伸びているわけだが、いつもはあったはずの白い包帯が今日は巻かれておらず、その素肌が露わになっていた。

 そうして初めて目にした彼女の右脚には――腿の半分以上を覆い尽くすほどに、惨憺たる火傷の痕が広がっていたのだ。

 踏み込むべきではなかったのかもしれないけれど、でも、さすがにこれは……。

 

「ん、そっか。あんた知らんもんな」

 

 対して、雀の反応はあっけらかんとしたものだった。唇には笑みさえ浮かべている。

 

「いや、まあ別に、大したことやないんよ。四年くらい前かな――中二んときに、あたしがやらかしたってだけの話やけん」

 

 そう語る彼女の表情は、果たせるかな、いつもと変わらない笑顔だった。

 けれど、どこか歯切れの悪さを感じさせるその言い方は、なんというか――

 

「……なんだかその台詞、あまりお前らしくないな」

 

 そうだ、そんな言葉は――まるで己の過去に残してきた未練があるとでも言いたげなその物言いは、あまりにも火宮雀らしくない。

 自分の行動は、紛れもない自分自身の意志で選んできたことだと、そう言っていたはずなのに。

 

「あたしは」

 

 あくまでも語調を落とすことなく、彼女は続ける。

 

「あたしはいつだって、あたしのために、あたしのやりたいことをやってきた。それを反省したことは一度だってない」

「だろうな」

「けど――後悔が、なかったわけじゃない」

 

 その言葉に、俺はふと、西城のことを思い出した。

 自分で選んだことに後悔したことなんて、ただの一度もないんですよ。

 俺はそれを聞いたとき、いつだったか雀も似たようなことを話していたな、と思った。けれど実際には、ふたりのスタンスは明確に異なっていたということなのだろう。そのことに、俺は遅まきながら気がついた。

 火宮雀は――未練とともに、生きてきた人間だったのだ。

 

「誰のせいにするつもりもない、あたしのせいや。あたしのせいやけん――たとえあいつに恨まれたとしても、文句は言えなくて……」

 

 その声は、こちらに向けて言っているというよりは、さながら独白のような響きをしていた。徐々に語尾が細くなっていくに従って、彼女の頭もうつむくようにして次第に下がっていく。そんな姿に、俺の中にあった火宮雀像が音を立てて崩れていくような錯覚を覚えた。

 ずっと苛まれてきた劣等感が、風前にある灯火のように、揺らいでいるような気がして――そのときだった。

 

「だああああああああ!」

 

 突如。雀は雄叫びを上げて、そしてがばっと勢いよく上体を起こした。

 

「暗くなるんはお終い! 薬のせいでやな夢見たけんテンションが引きずられちょるわ! もー、しんけん恥ずかしい! 今の忘れてな!」

「わ、わかった! わかったから騒ぐな、暴れるな!」

 

 既に病室断髪事件を起こしていることに加えて、こちらはその情状を酌量してもらっている立場なのだ。これ以上のトラブルを起こすことだけは絶対に避けなければいけない。誰もがこいつみたいに太い神経を持っているわけではないのだ。

 ……本当。ドラッグを打たれて救急搬送されたとは思えないくらい元気で、何よりって感じだよ。

 そうこうしているうちに雀の髪を切り終わったので、俺は柔らかい刷毛を使って――正式名称はわからない。なんかでかいメイクブラシみたいなやつ――肩回りの毛を払っていた。本当はバリカンとかで襟足を軽く整えたいところなのだが……手先が器用だからというだけで任された素人の散髪にしては、まあ、そこそこの出来栄えなんじゃないだろうか。

 床に散らばった大量の毛髪――何しろロングヘアをばっさりショートカットにしたのだから相当なものだ――は鈴音が捨てにいってくれている。彼女の戻りを待ちつつ俺は借りてきた道具の片付けを、雀はモップクリーナー片手に床の掃除を行っていた。

 

「ありがとなー、ハル。いやあ、すっきりしたわ!」

「別に。……なあ雀、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」

「なん?」

 

 俺は自分の荷物からスマートフォンを取り出して、彼女に問いかける。

 

「お前さ――『パンドラの箱』って知ってるか」

 

 

* * * * *

 

 

「……ふうん? なるほどな」

 

 そんな呟きを漏らして、雀はスマホの液晶から視線を上げる。彼女が手にしている端末は俺のものであり、そして表示されているのは、当然ながらパンドラの箱のページだった。

 今日にアップロードされていたくだんの映像はとっくに管理者権限で削除されている。西城のときと同じパターンだ。とはいえ、ログ自体はチャットルームに残ったままので、それを遡りさえすればおおよそのいきさつは把握できるだろう。

 画面をスクロールしているあいだ、雀はずっと顔をしかめていた。至極当然の反応だと思う。自分たちのあずかり知らぬところでなんの断りもなしに似非人気投票が行われていて、挙句、彼女と西城が襲われた原因はこともあろうにその投票結果にあったというのだから、無理もない。

 しかし雀は、それについては特に何を言うでもなく、

 

「あんた、ツッキーからなんか言われたか」

 

 と、俺に向かってそんなことを訊いてきた。

 

「何かって、なんだよ」

「うーん、ヒントとかなんとか。なんか意味深っぽいこと」

 

 なんだそれは。どうしてここで雪村の名前が出るんだ?

 雀の質問の意図はわかりかねたものの、とはいえ一応、言われた通り雪村との会話を思い返してみることにする。

 ヒント……竹河との一件のとき、確かに彼女からは色々と言われたような気がする。色々と、回りくどいことを。それは俺が事件の真相を知るためのヒントであり、そして俺を解答に到達させるためのヒントでもあった。だから実質的には答え合わせのようなものだったといえるのかもしれない。

 竹河たちの動機は、女子生徒を利用して薬物の利益を稼ぐことにあった。雀を襲った犯人どもはその犯行に薬を使用したそうだが、しかしドラッグの密売自体は古鷹の裏で広く行われていたことである。無関係とは断言できないけれど、あの男と雀の件に直接的な繋がりはないと考えていいだろう。

 それに、西城の一件もある。あの事件は宿木の逆恨みで行われたものだ。薬物とは結びつかない。

 そういえば、と思う。俺がパンドラの箱について尋ねたとき、雪村は紅野に訊けばいいと答えた。それはそれで確かにヒントたりえていたし、考察をするための参考にもなったけれど……彼女はそのあと、俺に向かって何かを吐き捨ててはいなかっただろうか。

 こちらに意図を読ませるつもりもないのに、含みだけは嫌というほど持たせまくった、そんな台詞を。

 ――君がいいなら別にいいんだけどね、私にとってはあまりよくないんだよ。

 ――そんなどうでもいいものに興を持たれちゃ敵わない。

 ――君の優柔不断に巻き込まれるのは、御免だからね。

 

「…………女子と乳繰り合ってりゃいい、とかなんとか。そんなことを、言われた」

「ははーん? なるほどなるほど」

「それがどうしたんだよ」

 

 シニカルな笑顔を浮かべる雀。何かが腑に落ちたといった様子だが、俺のほうはいまだ釈然としないままである。

 

「一杯食わされたごとあって悔しいけん、ちょっとばかし意趣返ししちゃろ思って」

 

 彼女はそう言って、ひどく愉しげに唇を歪めた。

 ほどなくして鈴音が部屋に戻ったので、俺たちは帰宅することにした。雀の病室を後にして、ふたりでエレベーターホールへと向かう。呼び出したそれに乗り込んでボタンを操作すると、ややあって扉が閉まった。かすかな下降感とともに箱が動き出したことを感じながら、俺は深いため息をつく。

 

「お疲れさまだね」

「まさか他人の髪をカットする羽目になるとはね。人生ってわかんないな」

「あはは、それは本当にそうだね。でもいい感じだったよ。やっぱりハルくんは器用だね……スズちゃんも元気そうで、本当によかった。あの様子なら、きっとユウくんたちも安心できるね」

「ああ、そうだな。……あのさ、鈴音」

「うん? なにかな」

「アサヒって子の話、聞いてもいいかな」

 

 俺の問いかけに、鈴音の笑顔がほんのわずかに強張ったのを見る。

 

「……そっか。ハルくんは知らないんだよね」

 

 彼女は、切なげな表情をして、そう言った。

 似ていると思ったのだ。雀に火傷の痕について尋ねたとき、過去の未練を滲ませた彼女が一瞬だけ見せた表情と――看護師の口から、アサヒという少女の名前が出されたときの、鈴音の表情が。

 まるで遠くに行ってしまった誰かを想うような、そんな眼差しをしている彼女たちが、俺には酷似しているように思えてならなかったのである。

 

「お友達だよ」

「友達、ね」

「うん。私たちにとって、とても大切なお友達だったの」

 

 その声音は、とても穏やかなものだった。鈴音は唇に微笑をたたえたまま続ける。

 

「火事で亡くなったんだよ。四年前に」

「…………」

「スズちゃん、ずっと後悔したままなんだね」

 

 四年前の火災で亡くなった少女と、四年前に見るに耐えないほどの火傷を負った彼女。

 それが火宮雀の残した未練なのだろうか。薬に浮かされた頭で、その悪夢を見るほどに。

 と、そのとき――視界の端で、何か光るものが零れ落ちたような気がした。反射的にそちらへと目を向けると、そんな俺の視線に気付いたらしい鈴音と目が合う。

 彼女は泣いていなかった。けれど俺は、その目尻が濡れていることに気がついてしまう。

 

「ごめんね、悲しいわけじゃないんだよ。突然のことだったけど、お別れはきちんと済ませられたもの。……思い出は、今も心の中にあるから」

「うん」

「でも……この気持ちをハルくんと共有できないのは、ちょっと寂しいかな」

 

 本人の言葉通り、鈴音の表情は決して悲しげなものではない。笑顔だった。ひどいくらいに優しくて、いっそあどけないほどに切なげなその微笑に、俺は舌の上に苦いものが広がるような錯覚を覚える。

 だから思わず甘味で上書きしたくなって、俺は荷物の中から常備している飴のパッケージを取り出す。その袋の開け口を鈴音に向けて差し出すと、彼女はきょとんと目を丸くして、それからおかしくてたまらないとでも言いたげにくすくすと笑い始めた。

 

「ハルくんは変わらないね」

 

 そんな言葉に、俺は我知らず、天野唯のことを思い浮かべた。そういえば結局今日は一度も顔を合わせないままだったな、とそんなことに今更思い至りながら、適当に選んだ飴のフィルムを剥がして口に含む。

 奇しくもそれは、あの金色の少女が好きなレモン味だった。

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