雨の降る六月四日の木曜日。今朝のニュースも相変わらず退屈で、それは俺の日常も変わらない。つまらない授業を受けて、昼休みは天野たちと一緒に過ごして、放課後に雄助と話す……俺の日常なんてきっと今日も明日もそんなものだし、そして、それが何よりも尊いことなのだろう。
そんなことをぼんやりと考えながら、俺は教室でスマートフォンをいじっていた。朝の時間の暇潰しである。クラスメイトのSNSを斜め読みしつつ適当にいいねを飛ばす作業を繰り返していると、前の扉が開かれる音が耳に届いた。
ぱた、ぱた、と少し間抜けな響きを鳴らすスリッパの足音。それはだんだんとこちらに近付いてきて、やがて俺の隣の席に着く。そこで液晶から顔を上げると、そこにはおおかた予想していた通りの人物——萩原杏が座っていた。
「おはよう」
「……うん。おはよー」
俺から声をかけると、彼は弱い声で挨拶を返してくる。力のない笑顔だった。それはいつも穏やかに微笑んでいるあんずらしくない笑い方だと思ったけれど、今は詮索しておかないことにする。話したくなったら本人から話すだろう。
果たしてそのときは、案外すぐに訪れた。
「ねえ、遥……」
「うん?」
彼は不安そうな声色で俺の名前を呼ぶ。それに気付かない振りをして、俺は返事をした。
言いにくそうにしているあんずに、どうした? と自然な態度を装って問いかけると、やがて彼はおずおずと口を開く。
「昨日、放課後に……天野さんを見かけてね」
「天野を? ふうん。それで?」
「それが……竹河くんたちと、一緒にいてね」
「……は?」
天野が?
竹河と一緒にいた……だって?
「……どこら辺で?」
「校舎裏……っていうか、旧校舎に行ってるみたいだった」
昨日の放課後——彼女は予定があると言っていた。
予定……それは、竹河との予定だったのか? 天野と、あの竹河が……?
そんなことがありえるのだろうか。あんずを疑うつもりはない。ない、けれど……あまりにも現実味が感じられなくて、思考を整理することができない。
「遥は転校してきたばかりだから知らないかもしれないけど、あの人たち、旧校舎をたまり場にしてるんだよ」
「は? いや、ちょっと待てよ、旧校舎は部活生が……」
と。
そこで、思い出した——あの日、雄助から聞いた話を。
余っている教室を使っている馬鹿がいる、と。
胸のあたりがざわざわと波立ち始めたのが自分でもわかった。嫌な予感が、止まらない。
「見間違いかもしれないんだけどね」
「……あの金髪を見間違えるわけないだろ」
天野以外に金髪の生徒なんて、そんなの、雀くらいしかいない。けれどふたりは身長に差がありすぎる。天野は女子としても少し小柄な体格だが、雀は女子としてはまあまあ長身の部類に入るのだから。
「だから、一緒にいた人たちのほうだよ。竹河くんじゃなかったらいいんだけど」
「…………」
俺は目を閉じて、少し考える——思考する。思案する。そうやって、頭の中を整理することにした。
やがてまぶたを開いて、それからあらためて、あんずと向き直る。
「話はわかった。今日の昼休みにでも、本人に確認してみるよ」
「……確認してみて、どうするの?」
彼はほんの少しだけ、怪訝そうな表情でそう尋ねてくる。それとほぼ同時に、教室の扉が開かれた。滑り込むように教室に入ってくる数人のクラスメイト。遅刻の常連組だ。
それからあまり間を空けず、若い女教師も教室に入ってきた。椎本先生の姿を目にして、俺は反射的に口を閉じる。あんずのほうもそれ以上言葉を続けようとはしなかった。話はそれで、半ば強制的に終了される。
始業のチャイムが校舎に鳴り響く。その鐘の音を聞きながら、俺は頭の中で、先ほどかけられた彼の問いを反芻していた。
「……、——」
天野に確認して……それで、俺はどうするつもりなのだろう。
肯定されたとしても、否定されたとしても——はたしてそれは、俺にとってメリットのあることなのだろうか。
そんな考えを巡らせている中、委員長に号令をかけられた。そこで一度思考を停止させて、椅子から立ち上がり、一礼をする。俺たちが再び席に着くと、先生はいつも通り気弱な声でホームルームの始まりを告げた。
六月四日という一日は、そうして始まったのだった。
* * * * *
竹河勝之という男子は、あえて月並みな言い方を選ぶなら札付きの不良と呼ばれる生徒である。
授業に出席しない。気まぐれに出席しても態度が悪い。校則違反上等とばかりに髪を染めて、制服を着崩し、おまけにど派手なピアスまでつけている。校外でも深夜に歓楽街を徘徊しては警察の補導を受けているらしい。もしも『絶対に関わってはいけない生徒ランキング』というものがあったら間違いなく上位に入っているだろう。
当然ながら、俺もそんな男とは関わることなく学校生活を送ろうとしていた。けれど不幸とは向こうからやってくるものらしく、四月のある日、竹河のほうから俺に接触してきたのだった。彼は火宮の一族……しかも本家の人間である俺から、金を巻き上げようとでもしたのだろう。
そのときは結局、突如入り込んできた闖入者のおかげで事なきを得たのだが——いずれにせよ、竹河とはそういう男なのだ。
そんな人物が、どうして天野と。
それを本人に確認するため、俺は階段を降りていた。時刻は昼休み。周りを見れば、同じように下に降りている三年生たちで少し混雑している。購買に向かっているのだろうその群れにひとまず混ざっていると、階下に見覚えのある人影を見かけた。ちょうどいいタイミングだったと俺は人波をかき分けて、嫌でも目を引くその白黒頭のほうへと近付いていく。
「羽鳥!」
「ん? あれ、遥さん?」
声をかけると、こちらに気付いた羽鳥茜が振り向いた。かすかにいぶかしむような視線を向けてくる目は、昨夜見たときと同じように右側を眼帯が覆っている。
当たり前だが、学校なので制服姿だった。シャツのボタンを胸元まで開いているので、襟の隙間からインナーが見えている。まあ、限りなくセーフからは遠いものの、ぎりぎり校則の範囲内だろう。首にかけているドッグタグのようなアクセサリーはアウトだと思うが。
ふと隣に目線を落とすと、同級生らしい女子が彼の腕に自分の腕を絡ませているのが映る。この男は見かける度に違う女を連れているので、たぶん彼女も羽鳥の恋人ではないというのはおおよその察しがついた。いつかきっと女子に刺されるだろう。
「だれぇ?」
「親戚の先輩だよ。先に行っててくれる?」
「はーい」
彼女はそう返事をして階段を駆け降りていく。その背中を見送って、俺と羽鳥は通行の邪魔にならないよう端のほうへと移動した。
「で、俺に何か用すか?」
「ああ。女子と遊びまくってるお前に訊きたいことがあるんだ」
「人のことなんだと思ってんすかあんた……」
彼は呆れたような笑みを浮かべながら言う。
「それで、なんすか? 訊きたいことって」
「天野唯のクラスを教えてほしい」
そう言ったこちらの言葉に、羽鳥は怪訝な表情になる。
昼休みに竹河とのことを天野に確認する。そうあんずに言ったはいいものの、ひとつ小さな問題が生じた。
天野唯のクラスを、俺は知らないのだ。
学年は判明しているものの、彼女が何組に所属しているのかを俺は知らない。その辺の適当な二年生に訊こうと思っていたところに、たまたま通りがかった羽鳥を見つけたというわけだ。
別に、わざわざ教室を訪ねる必要はないということは理解している。いつものように屋上で待っていれば、約束通り天野は来るのだから。
理解はしている。けれど、かすかな焦燥感が腹の底で渦巻いて仕方がなかった。とっとと片をつけてしまいたくて、俺は四限の授業が終わると同時に教室を後にしたのである。
「お前なら同級生の女子を全員把握してるだろ。わかるか?」
「そろそろ俺は怒っていいんすかね……まあいいや。俺じゃなくても知ってると思いますよ。ほら、目立つ子ですしね、天野ちゃん」
そう言って肩をすくめる羽鳥。それから、つい、と流すような視線をこちらに向けてきた。
「彼女になんの用があるんですか?」
「お前には関係のない用件だよ」
「じゃあ訊き方を変えますね。あれやったの、あんたですか?」
「…………?」
彼の質問の意図しているところがよくわからなくて、俺は少し戸惑う。どうして羽鳥はそんな睨むような眼差しでこちらを見るのだろう……まるで、昨夜悠哉に対して向けていたものと似ているような、そんな目つきで。
そんな困惑が顔に出てしまっていたのか、彼は一瞬だけばつが悪そうな表情になって、それから逃げるように視線を逸らした。
「……いえ、知らないならいいんです。すんません。そうですよね、遥さんは、あんなことができるような人じゃない」
「どういう意味だ? なんの話をしてるんだよ」
「天野ちゃんのクラスは俺と同じE組っすよ。まだ教室にいるんじゃないですかね」
じゃあ、また。羽鳥はそう言って、階段のほうへと歩いていく。結局なんだったのだろうと首をかしげながら、俺も二年E組へと歩き出した。
廊下の窓ガラスから部屋の中を覗いてみる。昼休みだからか生徒の数はまばらのようだったけれど、先ほど彼が言っていた通り、金髪の少女はまだ教室にいた。
「あ、ハルカ先輩!」
天野のほうも俺に気付いたようで、弁当の包みを手にこちらに近寄ってきた。いつも通りの笑顔で、手を振りながら。そのことについ気がゆるんで、反射的に手を振り返そうとする——瞬間、心臓を鷲掴みにされたかのような錯覚を起こした。
「お迎えに来てくれたの? うれし——」
「どうしたんだその顔!」
彼女の両肩を掴んで、俺は怒鳴った。
怒鳴って、しまった。
そんな俺の声に、教室にいた天野のクラスメイトたちや、廊下を通りがかった生徒たちの視線がこちらに向けられたのがわかる。けれど、そんなことを気にしていられないくらいに、今の俺は冷静ではなかった。
感情が熱くなっている。こんなのは、初めてだ。
天野の顔面——その左頬に広がる痣から、視線を背けることができない。
「あ、これ? 転んでぶつけちゃったみたいなの」
「転んだって……」
怪我くらいは誰だってするだろう。けれど、これは、転んだからできるような怪我じゃない。
彼女の白い頬を覆うように広がっている、皮下出血のような暗い青色の痣。腕や脚ならぶつけたと言われても納得するけれど、よりにもよって左顔面だ。
そんなの。
そんなの——誰かに殴られたとしか、考えられないじゃないか。
ああ、そうか。羽鳥が言っていたのはこれのことだったのか。しばらくして、そのことにようやく思い至るくらいには、落ち着きを取り戻す。
「……行こう」
「? うんっ」
俺は天野の腕を引いて、廊下を歩き始める。きょとんとした表情を浮かべながらも、彼女は素直に後ろをついてきてくれた。
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・・・・・
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