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「要は」

 

 と。

 羽鳥茜は軽薄に口を開いた。

 

「密売していた組員は逮捕されたけれど、そいつらと取引をしてたチンピラたちがドラッグのバイヤーになってるから気をつけてねーってことですか?」

 

 髪の一部分を白く脱色し、眼帯で右目を覆っている彼のルックスは、まるでヴィジュアル系のバンドマンみたいだと俺は思っている。とはいえ、その眼帯は医療用のガーゼタイプのものなので、ひょっとしたらただのものもらいなのかもしれない。

 そんな羽鳥は、軽い口調のまま言葉を続けた。

 

「怖いっすねー」

「思ってもないこと言うなよ」

 

 顔がにやついてんぞ、と俺の正面に座っている雄助がつっこみを入れた。

 火宮総会は一応公の場ではあるので、彼は長い前髪をオールバック風にまとめ上げている。そんな髪型に違和感があるのか、雄助はしばらく自分の遅れ毛を指でくるくると弄っていたのだが、やがて飽きたのかソファに深く座り直した。

 

「まあでも、火宮と警察が協力したらとっとと終わる話だろうな」

「でも、伯父さまは古鷹町の学生も被害に遭ってるって言ってたよ?」

 

 そう言ったのは、雄助の隣にいる火宮鈴音だ。

 黒みを帯びた茶髪のセミロングをハーフアップに結い上げている彼女は、俺の父親の弟の娘で——つまりはいとこだ。鈴音は俺や雄助と同い年で、この中では唯一、金剛町の明石学園に通っている。

 そんな彼女は、どこか不安そうな顔を浮かべていた。

 

「私は明高だからまだ大丈夫だけど、みんな鷹高でしょ? 気をつけたほうがいいよ」

「そんな話、聞いたこともないすけどね」

 

 鈴音の言葉を受けて、彼女の正面——俺と羽鳥のあいだに座っている紅野樹月はそう言った。

 彼は雄助や羽鳥と同じ火宮の分家のひとつ、紅野家の生まれだ。とは言うものの、紅野家は一族の中でもかなり遠縁にあたるらしく、俺はこの一年坊主とはあまり話したことがなかった。

 紅野は赤毛のイギリス人を祖母にもつクォーターだそうで、隔世遺伝でその髪色を受け継いだ彼も生まれつき赤い髪をしている。ルックスだけならこの中では一番派手だろう。けれどそんな見た目に反して、性格はもっとも人畜無害なのである。

 

「だから、なんというか、どこか他人事みたいな感覚がします。そんなもの、フィクションの中の出来事だと思ってました」

「でも現実や」

 

 と。

 その声に、全員の視線がそちらへと向けられた。鈴音の隣——この空間でもっとも上座に位置する席に座っている、その人物に。

 

「わざわざ親父自ら総会で報告したっちゅうことは、相応の事態になっちょんちことや」

 

 真面目な声色で……けれど地元の方言丸出しな喋り方でそう語ったのは、火宮雀だった。

 その名字からも察する通り、彼女は俺や鈴音と同じ本家の人間だ。俺の父親は三兄弟であり、雀はその長男の子供——ようするに、俺たちにとっては伯父の娘にあたる。

 同じ本家の人間といっても、彼女は俺や鈴音とは違う人間でもある。何故なら俺たちの伯父——雀の言う『親父』こそ、火宮グループの総帥である火宮翔鳳だからだ。

 本家の中にもカーストはある。現当主の娘であり火宮家嫡流の血統である彼女は、言うまでもなくその上位にいるのだ。

 

「……ま、ユウちゃんの言う通り、うちと警察が力を合わせりゃすぐ収束するやろ。それは親父どもの仕事っちゃ」

 

 そう言いながら、雀はぐっと背伸びをして、そして力を抜いてソファに身体を沈めた。そんな一連の動きに合わせて、腰まで伸ばされた金髪が揺れる。雄助曰く合成着色料のそれは、なるほど確かに、天野のそれと比べると全然違うように見えた。彼女の髪がブロンドだとすれば、雀のはただ黄色いだけの髪だろう——それはさておき。

 話題は違法薬物についてである。

 先日、古鷹で薬物の密売をしていた組員が逮捕されたというニュースがあったけれど、事件はそこで終わったわけではないようだ。密売はいまだ続いている。現在、火宮と警察が協力して捜査を進めている最中なのだと、火宮翔鳳はそう告げたのだった。

 とはいえ雀の言う通り、それは大人たちの仕事だ。ただの高校生である俺たちには縁のない話である。

 

「そげなこつより腹減ったわ。ルームサービスとかねえのん?」

「ここは客室じゃねえからなあ」

 

 雀と雄助がそんなやり取りをすると、室内に流れていた空気がゆるんでいく。

 現在時刻は午後九時を過ぎたころ。場所は引き続きホテル天城。総会が開催されていた大会議室と同じフロアにある小会議室である。六人掛けのローテーブルが中央に配置されていて、それを挟むようにソファが設置されている部屋だった。

 大人たちは大宴会場へと移動していた。いわゆる会食である。これも言い換えてしまえばただの親戚の飲み会なのかもしれないけれど、そこで行われるマウント合戦の凄まじさや激しさは総会以上だ。一緒に食事をして信頼関係を築くとか、アルコールで親睦を深めるとか、そんなことは不可能と言っても過言ではない。

 だから俺たちは宴会場から逃げ出して、この部屋に立てこもっているのだ。勝手に侵入していると思われるだろうが、このフロアは総会のために火宮が丸々貸し切っている。何も問題はない。

 だからしいて言えば、夕飯を食べていないから空腹だ、というのが目下一番の問題になるのだろうか。

 

「レストラン行く? あ、でも予約してなきゃ駄目かな?」

「俺がひとっ走り行ってきましょうか。確か一階に売店みたいなのあったっすよね」

 

 鈴音と羽鳥がそれぞれ提案を挙げた。それに雀と雄助も参加して、四人で夕食のことを話し合い始める。

 ふと左隣を見れば、何やらスマホを操作している紅野の姿が目に入る。片耳にイヤホンをつけていることを考えると、彼はどうやら音楽を聴いているようだった。

 

「紅野、何聴いてるんだ?」

「これすか? 今はエレメンツの新曲ですね」

 

 なんとなく訊いてみただけだったのだが、そんな俺の質問にも紅野は素直にそう答えた。そして、聴きますか、と自分の耳からイヤホンを外してこちらに差し出してくる。

 そのうちの片方を借りて耳につけると、どこか聞き覚えのあるメロディが鼓膜に流れ込んでくる。それは確かに龍崎たちの歌声だった。

 すると俺たちの会話に興味が湧いたのか、羽鳥がこちらに顔を寄せてきた。

 

「樹月、意外とアイドルとか好きなんだね」

「音楽はなんでも好きです。邦楽も洋楽も、ロックもポップスも」

「そうなんだ。で、その新曲はどこがいいの?」

「どこがと言われても、俺はエレメンツのファンってわけじゃないんで参考にはならないかもしれませんが……そうですね。歌詞が好きです」

「歌詞? へえ、どんな?」

「ええと……初恋の人に再会したけれど、その人は自分のことを憶えてなくて。でも、だからこそ、どうかそのまま忘れててください……って、感じですかね」

 

 切ないねー、と羽鳥は笑う。へらへらとした軽薄な笑みだった。

 俺はイヤホンへと意識を戻した。メロディはアップテンポで明るくて、まさにアイドルソング、といった感じなのだが……なるほど、言われてみれば確かに、その歌詞には語り手の痛みが綺麗な言葉で綴られている。しかし決してちぐはぐになっているわけではなくて、メロディと歌詞が絶妙にマッチしていた。

 そのとき、ふと思い出す。これは天野の鼻唄だ。昨日の美術室で彼女が楽しそうに歌っていた、あの鼻唄だと気付く。道理で聴いたことがあるような気がすると思った、と得心しながら、俺は紅野にイヤホンを返した。

 

「そういえば知ってるか? エレメンツのボーカル担当って俺たちの同級生なんだよ」

「龍崎先輩すよね。たぶん知ってます」

「お、さすがアイドル。有名人だね……ふうん。彼女のこと、紅野はどう思う?」

「どう……? ええと、歌がうまくてすごいと思います」

「……すごいと思います、て」

 

 思わず小さな声でオウム返しをしてしまったけれど、彼の耳には届かなかったようで、紅野は不思議そうに首をかしげるだけで特に何も言わなかった。

 子供の感想でももう少し語彙力があるだろ。そうじゃなくても健全な男子高校生ならあんずみたいに可愛いとか好みのタイプだとか言うだろうに……どうやら本人の自己申告通り、紅野は別にエレメンツのファンというわけではないらしい。こいつをあんずに紹介したら、はたしてどうなることやら。

 ……うん。絶対に紹介しないほうがいいだろうな。昼休みに押しつけられたCDのことを思い浮かべながら、俺はそう決意した。

 と、そのときだった。

 こん、こん、こん——と、三度扉がたたかれる。

 六人全員、一斉に黙り込む。一族の大人だろうか。それとも、ただのホテルスタッフ? そんな視線を交わしていると、しばらくしてから再びノックの音が響いた。

 とりあえず、もっとも扉に近い位置の席——つまりは下座に座っている俺が応対しようと腰を上げかけたのだが、それよりも先に羽鳥が、

 

「はいはーい」

 

 と、ソファから立ち上がって扉へと向かった。

 彼が扉を開けると、そこにいたのはホテルのスタッフや一族の大人ではなく——いや、一族の大人ではあるのだけれど、しかし俺たちにとっては少し予想外の人物だった。

 

「ちーっす!」

 

 突然現れた金髪のチャラ男は、そう言って片手を上げた。

 スタイリング剤で軽く立たせた髪型と、カジュアルなスーツという服装。身長はまあまあ高い。年齢は、確か二十五歳だったと記憶している。

 そんなチャラ男は、いかにも軽そうな笑顔を俺たちに見せてきた。

 

「みんな大好き、夜鷹お兄ちゃんだぞ☆」

「うざい」

「きもい」

「相変わらずイタいっすねー」

「ひどい!」

 

 雀と雄助、そして羽鳥が悪態を浴びせると、男はほんの少し涙声になって喚き立てた。

 火宮夜鷹。

 星になった鳥の名をもつ彼は火宮本家の直系血族であり、現当主である火宮翔鳳の嫡男である。つまり、この男は次期当主として、いずれ火宮グループを背負うことになる後継者なのだ。

 言うまでもなく、彼は雀の実兄でもある。ふたりは火宮にしては珍しく兄妹仲のいいほうらしく、彼女が髪を金色に染めたのも、そもそもは兄の真似事からという噂もあるくらいだ——その話はさておくとして、彼がこの場に姿を見せたのは、俺たちにとっては思いがけないことだった。

 火宮夜鷹は多忙を極めている。いわゆる社畜だ。毎月の総会にも顔を出せないほどに忙しい日々を送っているこの男は非常にエンカウント率が低い。確実に会うことができるのは盆と正月くらいなんじゃないだろうか。

 

「まあともかく、夜鷹さんおひさです。総会に参加するなんて珍しいっすね。あれ? でもさっきは見かけなかったような……」

「ああ、うん。ついさっき来たんだ。はいこれ」

「なんすか?」

「差し入れだよ、差し入れ。お前らどうせ夕飯食べそびれてるんだろ?」

 

 と、彼は取っ手つきの箱とビニール袋をそれぞれ羽鳥に手渡した。羽鳥は少し首をかしげながらもそれらをテーブルの上に置いて、箱の封を解く。

 

「バード、何入ってる?」

「雄助さん、ひょっとしてそのバードって俺のことっすか? えっと……スコーンみたいですね。ジャムとクリームつき」

「わーい! 夜鷹さん、ありがとう」

「お、こっちはサンドイッチやん。イッキーどれにする?」

「じゃあカツサンドを。あとイッキーって呼ばないでください」

 

 どうやら彼の言う差し入れとは菓子と軽食、ついでに飲み物のことだったようだ。夕食の代わりにしては軽めのラインナップだが、時間を考えるとこれくらいがちょうどいいのかもしれない。

 みんなが差し入れを食べ始めたのを見て、俺もスコーンを口に放る。スコーン自体はシンプルで甘さも控えめだったけれど、代わりにジャムがだいぶ甘めに味つけされていた。うん、おいしい……でももう少しだけジャムを塗り足そう。

 

「いつものことだけどさ、本当はお前らも会食に参加しなくちゃなんだからな」

「そうは言うけどさー夜鷹さん。未成年が飲み会に参加するのって退屈でしかないっすよ。あー、早く帰って弟たちと遊びたい。それか絵を描きたい」

「あたしとリンちゃんなんてオヤジどもに酌せにゃいけんのやぞ。女だからっちだけでなめやがってからに」

「それも嫌だけど……セクハラがね、ちょっとね……」

「酒臭いおじさんたちに囲まれてご機嫌うかがいなんて勘弁願いたいっすわー」

「ごめんな」

 

 雄助たちが零した愚痴やら不満やらを受けて、夜鷹は少し眉を下げて困ったように笑う。

 

「きっとお前らが生きやすいようにしてみせるから。もうちょっとだけ待っててくれな」

 

 火宮夜鷹はいずれ次期当主となる男だ。

 大学には進まなかったらしく、高校の卒業と同時に火宮グループに就職したものの、本来なら高卒でもそれなりのポストに就くはずの人である。

 しかし彼は愚かにも、通常だったら自分に与えられるはずだったそのメリットのすべてを放棄して、グループの傘下企業に新卒で入社することを選んだ。

 いつだったか、彼はその理由をこう語ったことがある。父親に縛られたくなかった。その代わり自分は何の権力も持っていないけれど、それでも構わない。この腐った組織に革命を起こすためには、自分は自由でなければいけなかったから——と。

 火宮家は元来の文化や伝統、風習を重視している。そう表現すれば聞こえはいいかもしれないけれど、それは言い換えてしまえば時代の変化に対応していないということだ。ファミリービジネスも、月に一度の総会も、本家による独裁体制も、すべて昔から続く悪しき習慣でしかない。

 そんな組織に革新をもたらすために、彼は東奔西走しているさなかなのだ。

 自分より下の世代の子供たちが、生きやすくなるために。

 

「ハルと樹月は? 何かないのか?」

 

 と、彼はこちらに視線を向けてきた。何か、とはおそらく先ほど雄助たちが漏らしていたような一族に対する不平や不満のことを言っているのだろう。

 だから俺はにっこりと笑ってみせた。

 

「俺は特にありませんよ」

「そうかー? お兄ちゃんに甘えてくれてもいいんだぜ?」

 

 夜鷹はうりうりと俺の頭を撫でてきた。めちゃくちゃうざい……とは思わない。そんなこと、全然まったくちっとも思っていないとも、うん。

 俺はにこにことした笑顔を絶やさないようにしていたのだが、しばらくしてさすがに見かねたのか、兄貴、と雀が兄を呼ぶ。

 

「遥にウザ絡みすんなや。鬱陶しい」

「スズちゃん、ひょっとしてお兄ちゃんのこと嫌い?」

 

 彼はいかにもしぶしぶといった態度で手を離すと、視線を俺の隣へと移動させた。

 

「樹月は? 最近、何か嫌なこととかあったか?」

「いえ、別に。元々俺の家は一族との付き合いが少ないほうですし……あ、でも」

 

 どうやら再び音楽を聴いていたらしい紅野は、そういえば、とスマホから顔を上げる——そのときだった。

 激しい音を立てて、会議室の扉が開かれる。

 全員、その音に振り向く。そこに立っていたのはひとりの男性で、意図せず目を大きく見開いてしまったのが自分でもわかった。

 

「……こんなところにいたのか」

 

 冷たく尖ったような声で、彼はそう言った。俺はソファから立ち上がって、小さな声で呟く。

 

「……悠哉兄さん?」

 

 黒髪を少しラフな印象のある七三分けにセットしていて、サマースーツを身に着けているその人の名前は、火宮悠哉という。

 六歳年上の、俺の実の兄だ。

 

「いらしてたんですか」

「俺がいたら何か不都合でもあるのか」

「いえ……今日は出席されないと聞いていたので」

「ふん。末弟のお前が出て、長兄の俺が出ないわけがないだろう」

 

 それはまあ、その通りなのかもしれないけれど。そう言いかけた口をつぐむ。口答えと認識されては面倒だ。

 彼の現住所は東京である。火宮グループ傘下の企業で県外に所在しているものは多いし、同様に県外で働いている一族の人間も少なくない。兄もそのひとりであり、そしてそういった者たちは総会への参加が任意となっている。

 だからこそ、彼の登場は俺にとって唐突な出来事だった。どうしてここに。いったいどうしたというのだろう。

 悠哉はおもむろに煙草を取り出した。夜鷹が咎めたが、彼は構わず煙草に火をつける。紫煙をくゆらせてから、兄はこちらに視線を向けた。

 

「母さんがお前を探している」

「……そうですか」

「お前ももう高校……来年が受験だったか? そろそろ親離れを覚えろ。あまりあの人の手を煩わせるな」

「…………」

 

 あなたの弟が受験生なのは今年ですよ。そう思いはしたけれど、黙っておくことにした。この人が俺の年齢を憶えていようと憶えていまいと、そんなことは別にどうでもいい。

 用件はそれで終わりだと言わんばかりに、彼はこちらに背中を向けた。俺に対して毛ほどの関心を持っていないという素振りである。それも別に構わない。俺だって、特段この人に興味があるわけじゃないから。

 ただ。

 ただ、それでも。

 親離れしろも、煩わせるなも——

 あんたにだけは、言われたくない。

 

「——お前が乳離れしろよ、マザコン野郎」

 

 俺は独り言のように、けれど彼に聞こえるように、そう言った。

 予想通り、兄はドアノブにかけた手を止めて、こちらを振り返る。

 

「……空耳か? 何か聞こえたような気がしたんだが」

「兄さんは口唇期固着って知ってますか? 喫煙って、赤ちゃんがママのおっぱいを吸う行為に相当する幼児退行の現れらしいですよ?」

 

 そう笑ってやれば、彼は目にも留まらぬ動きで俺の胸倉を掴み上げた。爪先が床から浮きそうになって、体勢が不安定になる。

 それでも俺は笑みを絶やさない。そのことがまた兄の神経を逆撫でしたのだろう。くわえている煙草を噛み千切らんばかりに歯を噛み締めて、胸倉を掴んでいる手を怒りで震わせていた。

 

「やめろ、ふたりとも」

 

 と、仲裁を図ろうとしているのか、夜鷹が俺たちのあいだに割って入ってきた。

 

「あと雀はステイ。雄助くん、押さえて」

 

 彼がそう言うと、背後から少しどたばたとした物音が聞こえてきた。振り返ろうと試みてみるものの、胸倉を掴まれているのでそれも敵わない。

 腕を下ろすように夜鷹が促すと、悠哉は無言で舌打ちをして、不承不承と俺の身体を降ろした。俺の両足が床についたことを確認してから、夜鷹は口を開く。

 

「悠哉くん、高校生の弟に対して少し大人げがなさすぎるんじゃないかな。ハルもハルだぞ。大人を煽るようなことを言うものじゃ」

「部外者は黙っていろ!!」

 

 がしゃんっ。

 夜鷹の言葉を遮るように悠哉が怒鳴る——それと同時に、何かが落ちたかのような物音が響いた。

 振り返ってまず視界に入ったのは、雀を羽交い締めにしている雄助の姿だった。そしてその隣でおろおろとしている鈴音……それから目線を手前に移動させて、俺は物音の正体を目にする。どうやら今のは紅野がスマホをテーブルに落としてしまった音だったらしく、彼は少し慌てたように端末を拾って、そしてうかがうような目をこちらに向けてきた。

 紅野樹月という少年は、どちらかと言えば仏頂面なほうで、表情があまり変わらないことに定評がある。……けれどその代わり、彼の目は雄弁に、その感情や本心をこちらに伝えてくるのだ。

 困惑、萎縮、そして少しの怯えがそこにはあった。まるで猫に射すくめられた鼠のような瞳を、紅野は悠哉に向けている。

 

「んっんん、んーんー」

 

 と。

 その隣に座っている羽鳥が、場違いに間の抜けた声を漏らした。視線が彼に集まる。けれど羽鳥はそれにお構いなしで、しばらく何か思案するような素振りを見せたかと思うと、やがてソファから立ち上がった。

 

「樹月―、ちょっとコンビニ付き合ってくれる?」

 

 そう言って、彼は紅野の腕を引いた。いつのように軽薄な笑みを浮かべている。この部屋の空気を重苦しくさせている俺が言うことではないのかもしれないけれど、普段と変わらないそのおちゃらけた態度は、今の状況にはあまりにも不似合いのように思えた。

 空気が読めない——ではなく、まるであえて読んでいないかのような。

 

「……コンビニ、ですか? 今ですか?」

「うん。駄目?」

「俺は別に、構わないんすけど……わざわざ外のコンビニに行くんですか?」

「えー、だって」

 

 彼はへらへらと笑って、そして——冷めた視線を悠哉へと流した。

 

「頭冷やす時間いるでしょ」

 

 そんな言葉を最後に吐き捨てて、羽鳥は戸惑っている様子の紅野の腕を引いて会議室を後にした。

 ふたりが出ていくと、室内は再び静寂に包まれる。

 

「……年下の子怖がらせて、気ぃ遣わせて、恥ずかしないんか」

「雀!」

 

 非難するように呟いた雀を、彼女の兄が諫めるようにその名前を呼ぶ。雀がそっぽを向くと、彼はため息をついて悠哉へと向き直った。

 

「妹が悪かったね」

「……先ほど、お前は」

 

 威圧するように声を低めて、彼は夜鷹を睨みつける。

 

「このガキを俺の弟と言ったな」

「え? いや、言ったけど……」

「勘違いするなよ。俺はこいつを弟などとは思っていない」

 

 悠哉はそこで一度言葉を区切ると、お前のすべてが忌々しいとでも言いたげな目を俺に向けてくる。そして苛立ちを隠そうともしない声で、彼は続けた。

 

「この、道化者が」

 

 そう言い捨てて、悠哉は廊下へと出ていく。

 

「あ、ちょっと待ちなよ! あーもー……じゃあな、みんな。また今度ゆっくり話そうぜ! アデュー☆」

 

 夜鷹は軽く手を上げて、悠哉を追うようにこの部屋を後にした。

 何度目かとなる沈黙が会議室に残る。けれどその静寂はすぐに破られた。

 

「あたし、あの人嫌い」

「……どストレートが過ぎるだろ」

 

 雄助は嘆息して、羽交い締めにしていた雀を解放した。そういえば、こいつはいったいどうして暴れ出したのだろうか。気にはなったけれど、彼女はもう落ち着いているようだったので、蒸し返したところでメリットはないだろう。そう判断して、俺はソファに深く座り直した。

 

「……ハルくん、大丈夫?」

「平気だよ。いつものことだからね」

 

 心配してくる鈴音に、俺は笑ってみせた。口調はシニカルに。兄のことなんて、まったく気にもしていないという態度で。

 虚勢ではない、はずだ。

 

「空気悪くしちゃってごめんね。あとで羽鳥と紅野にも謝らなきゃだな」

「ハルくんは悪くないよ。あのふたりもきっとわかってくれるんじゃないかな。……それより、本当に大丈夫?」

「何が?」

「伯母さまのとこ、行くんでしょ?」

 

 彼女は少し気まずそうに、けれどそれでも、やはり俺のことを気遣ってくれるような表情と声色で、そう言った。

 

「俺も一緒に行くか?」

「大丈夫だって」

 

 雄助の問いにそう答えて、俺は夜鷹が差し入れたペットボトルの紅茶をひと口飲む。そうして落ち着いたところで、ソファから腰を上げて扉へと向かった。

 

「あたし悠哉さんのこと好かんけどさあ」

 

 不意に、雀がそんなことを言った。

 どことなく鬱陶しそうな声で。

 振り返ると、彼女はサンドイッチを食べていた。ベーコンとレタスが挟まれたそれを口にくわえたまま、視線はどこか遠くを見つめている。

 そして雀はこちらのほうを見向きもしないまま、

 

「あの人がお前のこと嫌う理由は、なんとなくわからなくもないわ」

 

 と、言葉を続けた。

 

「へえ、奇遇だな」

 

 そう言って、扉のノブに手をかけた。つい口元がほころんだのが自分でもわかる。

 作り笑いじゃない笑顔を浮かべて、俺は口を開いた。

 

「俺もあんたのこと嫌いだよ」

 

 短く言って、振り向かずに会議室を後にした。

 そのまま宴会場へと移動していると、見覚えのある女性の姿を見つけた。できることなら今すぐ踵を返して逃げ出してしまいたかったけれど、経験上、それをすると後々もっと面倒臭い事態になるということを既に俺は知っている。

 目を閉じて、深く息を吸って、吐いて、そして目を開けた。

 よし、と小さく呟いて、俺はそちらへと歩を進めた。すると彼女もこちらに気がついたのか、

 

「遥!」

 

 と、こちらに駆け寄ってくる。

 

「どこに行ってたの! 探したのよ!」

 

 女性はこちらに手を伸ばして肩を掴んできた。触れられた肩が反射的に震える。それを悟られないように俺は笑った。

 理想的な子供。

 あるいは、従順な息子。

 そんな仮面を、顔に張り付けて。

 

「ごめんなさい。ちょっと外の空気を吸いに行ってたんですけど、迷っちゃいました」

「それならそうとお母さんに連絡して頂戴。心配するでしょう」

 

 すみません、と謝りながらも、俺はさりげなく周囲を見渡した。

 けれど、あの人の姿はどこにも見当たらない。

 

「……悠哉兄さんは?」

「悠哉? ああ、そういえばあの子も来てたわね」

「兄さんは今どこに?」

「そんなことより、宴会ホールに戻りましょう?」

 

 学校のお話を聞きたいわ、と彼女が背中を押してくるので、俺は前へと歩き出した。

 そういえば、か。

 そんなこと、なのか。

 この『お母さん』は、悠哉のことをどうとも思っていないのだろうか。それともどうでもいいと思っているから、そんなことを言えるのだろうか。

 あの人も、あんたの息子なのに。

 

「…………」

 

 考えるな。思考を停止させろ。今は求められている『俺』を演じていればいい。ただ、それだけでいいんだ。

 だから俺は笑っていた。

 笑うことで、思考を放棄した。

 

 

* * * * *

 

 

 時刻は午後十時、少し前。高校生以下の子供は大人たちより先に帰宅することになっている。

 俺と羽鳥は同じマンションに住んでいるので、いつも同じタクシーに乗せられて家路についていた。いつもといっても、東京にいたころは総会に参加していなかったので、これが三度目なのだけれど。

 ちなみに彼の親と同乗したことはまだない。宴会を続けているか、そのままホテルに泊まったかのどちらかだろう。

 タクシーに乗り込む前。兄との一件を羽鳥に謝ると、別に全然っすよー、と彼は普段通り軽薄に笑った。何が別にで何が全然なのかはわかりかねたけれど、とりあえず怒ってはいないように見えた。

 そんな羽鳥は今、俺の隣の座席でうたた寝をしている。黙っていれば顔のいい男だと思った。

 そういえば、確かこいつは二年生だっただろうか。うろ覚えだけど、確かそのはずだ。ということはつまり、天野と同級生ということになる。

 そうか。あの少女と同い年なのか。

 ひょっとしたら、俺が知らない彼女のことも、羽鳥なら知っているのかもしれない——と、そんなことを考えて、すぐにその思考を止めた。

 俺は天野のことをあまりよく知らない。けれど別に、知らないままでも構わなかった。興味がないというのも理由のひとつだが、それ以上に、彼女のほうにこそ俺のことを何も知らないままでいてほしいと思ったからだ。

 教室に漂っている険悪な空気。

 火宮という一族の醜悪さ。

 そんなものを、天野は知らなくていい。何も知らないまま、何も知らないからこそ浮かべられるあの天真爛漫な笑顔を見せてくれれば、俺は、ただそれだけでよかった。

 そこまで思考して、ふと、彼女の笑顔を心に思い浮かべた。

 

「……ああ、そうか」

 

 そうか。今、気がついた。

 俺にとって天野唯は、いつの間にか日常の象徴となっていたのだ。

 三年B組とも火宮とも無縁な少女。そんな天野と話しているときだけは、クラスで行われているいじめのことも、自分だけに過干渉な母親のことも、俺は忘れることができた。

 天野唯という少女と過ごす日常に、俺の心は癒やされていたのだ。

 俺は窓の外へと視線を向けた。雨に濡れた町の景色、行きかう人々のシルエット。それらが次々と通り過ぎていく光景を、ぼんやりと見つめる。

 明日の昼休み、彼女はどんな顔で笑うのだろうか。放課後にはどんな風に話をするのだろうか。

 そんなことを考えると……ほんの少しだけ、明日が楽しみに思えてきた。

 

「——会いたいな」

 

 口から零れたそんな呟きは、夜の景色に溶けて消えそうなほどに、小さな本音だった。

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