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 窓の外に広がっている雲は、案の定暗い灰色をしていた。そこから落とされる雨音は、まるで不規則なノイズかのように、放課後を迎えたばかりの校舎にひっそりと響いている。

 過程を終えた俺は手早く帰宅の準備を済ませると、隣のクラスを訪れた。

 

「雀、まだ教室にいるかな?」

「火宮さん? ちょっと待っててね」

 

 近くにいたC組の女子生徒に尋ねると、彼女は小走りで教室の中へと戻っていく。

 

「火宮さん、お客さんだよ」

「ほいほーい……って、うえぇえ!?」

 

 教室の入口付近に立っているこちらに気がついたのか、その人物は大声を上げながら俺を指差してくる。本当にうるさい女だと思った。

 彼女は随分と制服を着崩すタイプの人種のようで、夏服のシャツのボタンをすべて開けていた。そのせいでインナーのキャミソールがもろに見えている。スカートも改造しているらしく、竹の短いそれからから長い脚が伸びていた。右脚側には包帯が巻かれている。おおかた、どうせまたどこかで喧嘩でもしたのだろう。

 そんな彼女——火宮雀は、金色に染めた髪を揺らしてこちらに近寄ってきたかと思うと、

 

「念のため言っちょくけど、ユウちゃんのクラスはA組やよ?」

 

 と、開口一番そう言いやがった。皮肉でも嫌味でもないとわかっているけれど、A組のほうを指で示すその仕草も合わせてものすごく癇に障る。

 しかしそれを顔に出すわけにもいかないので、俺はなるべく平静を装いながら口を開く。

 

「知ってるよ。俺はお前に用があるんだ」

「用って……お前がぁ? あたしにぃ? いったいなんの」

「頼みがある」

 

 彼女のオーバーぎみなリアクションを無視して、努めて冷静に俺は言葉を続ける。

 

「お前しか頼れない。後生だ」

「……ふうん?」

 

 雀はほんの少しだけ考えるようにして、それからすぐに頷いた。

 

「わかった。とりあえず話は聞いちゃる。場所を移動しようや。遥んちでいい?」

「それは構わないけど、お前の家のほうが近いんじゃないか?」

「兄貴に会いたいなら止めんけど」

「俺の家に行こう」

 

 即答して、俺は歩き出した。やけん言ったやん、と笑いながら、雀も後ろをついてくる。

 廊下を歩いていると、すれ違う生徒たちからほんの少しだけ奇異の視線を向けられる。彼女を連れて歩けばこうなることはわかっていたので、俺はそれらをただ黙殺することに徹した。多少のデメリットは覚悟の上である。

 古鷹高校の三大有名人——というものがもしもあったなら、まずはアイドルの龍崎風歌、続いて剣道部主将の西城花姫の名前が挙げられるだろう。そして最後の三人目。彼女たちに引けを取らない……どころか、ひょっとしたら彼女たち以上にその名を馳せているのが、実を言えば火宮雀なのである。

 その理由が、彼女が火宮家のお嬢様だから、という単純なものだったらまだよかったのだが、雀の場合、有名人という単語に含まれているニュアンスが先ほど名を挙げたふたりとは明確に異なっている。もうベクトルが、百八十度違うのだ。龍崎は言うまでもなく、西城でさえ苛烈な性格だが真面目な生徒と認識されているというのに、火宮雀は教師陣から問題児扱いされているのである。

 古鷹高校のあらゆる部活に体験入部して暴れ回ったうえにレギュラーと勝負をして勝つ、校則に厳しいことで有名な生物の伊東先生から逃げるために校舎の三階から飛び降りる、支持率ナンバーワンだったのに生徒会長選挙に落選——などなど、馬鹿みたいなエピソードには事欠かない。そうだというのに妙なカリスマ性でももっているのか、生徒からの好感度は存外に高いというのだからなおさら意味不明だ。

 とはいえ、まあ……正義感が強く、曲がったことを嫌う彼女に助けられた生徒が、少なからずいるからかもしれないけれど。

 いずれにしたって、至極平凡に生きたい身の俺としては、いとこである雀が何か問題を起こすたびにひたすら頭と胃が痛くなる思いをしているのだった。

 生徒玄関に到着して、俺たちは一旦別れた。自分のクラスの靴箱から外履きを取り出して、俺は上り框のところで靴を履き替えようとする——そのときだった。

 

「あ、ハルカ先輩」

 

 と、玄関口で天野唯と遭遇した。その手には男物の藍色の傘を提げている。

 どうやら本当にたまたまだったようで、偶然だね、と彼女はこちらに微笑を向けてきた。

 いつも通りの、無邪気な笑顔。

 けれどそんな笑顔の半分を、昼休みに施したばかりの薄い湿布が覆い隠している。

 昼休み。

 保健室での、天野の台詞。

 俺はまだ——それに言葉を返せていなかった。

 

「……天野」

「はい?」

「お前、俺と」

「なーなー、折角やけん今日は晩飯を一緒に……って、およ?」

 

 言いかけたところで、背後から空気の読めない声が聞こえてきた。その人物が誰かなんて、振り向くまでもなくわかっている。

 天野は不思議そうに、きょとんとした瞳で俺と雀を交互に見つめた。

 

「先輩のお友達?」

「ああ、えっと……」

「はぁーるぅーかぁー?」

 

 雀は唐突に、そしてなんの断りもなしに俺の肩を組んできた。視線を横にやるとにまにまと笑っている彼女と目が合う。その笑顔は甚だしく、こちらの神経を逆撫でしてくるものだった。

 

「この金髪ちゃん誰っちゃー? ん? んん? んん~?」

「うるさい……お前も金髪だろうが」

「あたしのは合成着色料やけど、この子のは天然っちゃろ? やっぱ全然違うなー綺麗やなー」

「その言い方流行ってんのか? あと近い、うざい」

 

 言いながら、顔面を鷲掴みにして雀を押しのけた。ぷがー、と彼女が間抜けな悲鳴を上げる。

 

「お、お邪魔しましたーっ!」

 

 俺が雀を剥がしにかかっている中、突然天野が裏返った声を上げた。そして回れ右をして、脱兎のごとく俺たちの前から走り去っていく。傘を差しているので少し走りにくそうだったけれど、風に翻るブロンドが見えなくなるまで数秒もかからなかった。

 制止の声をかける隙もなくて、俺はしばし呆気に取られてしまう。

 

「あーあ、誤解されたみたいっちゃよ」

「……いや、百パーお前が悪いだろ」

 

 俺に非はないからな、と言いながらも、この女との関係を勘違いされたままでは困るというのも本音だ。近いうちにきちんと誤解を晴らしておこう。

 天野には昼休みに、しばらくは旧校舎にも竹河たちにも近付くなと伝えている。思いがけず命令口調になってしまったけれど、彼女は素直に頷いてくれた。だからきっと、約束通りそのまま家に帰ってくれるだろう。下校中のことはあんずに任せているし、何も問題はない。

 

「で? あげな後輩の女ん子とどげな関係なわけ?」

「……それもあとで話すよ」

 

 ふうん、と。雀はそう呟いて、あっさり引いたのだった。

 

 

* * * * *

 

 

「遥って、確かひとり暮らしやったよな?」

「ひとり暮らしだけど」

「広くね?」

「広いな」

 

 雀のことを適当にあしらいつつ、俺は座布団代わりのクッションを彼女の前に出して、お茶でも淹れてやろうかとキッチンへと向かう。ケトルで湯を沸かしながらちらりと見れば、雀は差し出されたそれに座ろうともしないで、部屋の中をふらふらと歩き回っていた。何をしているんだお前は。

 全力疾走で逃げ出した天野を見送った俺たちは、そのまま俺が住んでいるマンションへと向かった。自転車通学ではない雀に合わせて、交通手段は徒歩である。

 学校から徒歩で三十分ほどの距離にある、十一階建てのマンション。高校生が住むにはいささか贅沢なそこの十階の角部屋に、俺はひとりで暮らしていた。当然ながら家賃もそれに見合った額なのだけれど、支払っているのは俺ではないので構いやしない。そもそも火宮グループが管理している物件なのだし。

 ちなみに羽鳥家は五階に住んでいるらしい。どうでもいいことだが。

 

「さて、そんじゃエロ本でも探すか」

「ないよ。高校生が持ってるわけないだろ」

「いい子か。ユウちゃんは持っちょんよ。金髪のロリ巨乳もの」

「親友の性癖を暴露するな。俺の部屋を探しても本当に映画くらいしかないからな。だから漁るのをやめて座ってろ」

「相変わらず映画好きっちゃなあ。何々? SF、サイコ、ミステリー、サスペンス……アメコミとかないん?」

「ねえよ。いいから座ってろ」

「あ! フウちゃんとこのCD発見!」

「座れや!」

 

 思わず叫んでしまった。

 とりあえず、彼女の手からCDの入った紙袋を奪い取っておく。あんずから借りているものを壊されてはかなわない。

 そんなことをしているうちに湯が沸いたので、カップとティーバッグを用意してテーブルの上に置く。紅茶の準備をして、それを雀の前に出すと、ようやく彼女はクッションの上に座ってくれた。

 

「じゃ、話を聞こうか」

 

 ストレートのウバをひと口含んでから、雀はそう口を開いた。シニカルな笑みを唇に浮かべて、身を乗り出してくる。

 挑戦的な表情だ。いったい自分をどんな風に楽しませてくれるのか。そんな期待と高揚を秘めている瞳で、彼女は真っすぐにこちらを見つめてくる。

 その期待に応えることはできないだろうな。そう思いつつ、俺は今日の出来事を雀に向けて説明する——天野のこと。竹河のこと。その男が彼女を殴ったこと。旧校舎での写真撮影のこと。そして雄助から聞いた、現在A組で行われていること……あんずにも言えなかった、俺が知っていることのすべてをあますところなく彼女に話した。

 こちらの話を聞いている雀は、だんだんと表情から笑みを消していった。そしてそれは、俺が竹河の名前を出した瞬間完全に真顔になる。それも当然だ。西城と龍崎ほどわかりやすくはないけれど、雀と竹河が対立していることは周知の事実なのである……実を言えば、四月に竹河が俺をカツアゲしてきたときに突然入り込んできた闖入者というのが、この火宮雀なのだから。

 まだ無差別連続通り魔事件が町を騒がせていた春のあの日。偶然と呼ぶには出来過ぎのタイミングで、彼女は俺たちのあいだに乱入してきた。そのときに、まあ、端的に言えば暴力沙汰になってしまい、雀が勝って竹河たちが負けたのである。

 そのおかげで俺が彼らに絡まれることはなくなったのだが、以降、竹河と廊下ですれ違うたびにわざとらしく舌打ちをされたり、『火宮のボンボン』などとののしられたりするようになってしまった。別にその程度のことで腹は立たないが、煩わしいことこのうえない。

 

「話はわかった」

 

 そんな彼女は俺の説明を聞き終えて、真剣そうな表情で頷いた。

 

「それで? お前はあたしにどげえしてほしいわけ?」

「どうにかしてほしい」

 

 俺がそう言うと、雀は眉を片方だけ上げた。

 最初は、教師に報告しようと思っていた。竹河たちが二年の女子生徒に暴力を振るって、怪しい写真を撮影しているようだと。

 けれどすぐに考え直した。この件は教師に連絡して済むようなレベルではない。天野や雄助の話を踏まえると、これまで旧校舎のA組で行われてきた行為はすべて非合意だったという可能性が浮上してくるし、そしてそうなると、被害者は天野だけではないという線も考えられてしまう。

 ことがことだけに表沙汰にはされないだろうが——できればしたくもないけれど——最悪、校内で起きたことだからと隠蔽されかねない。警察に通報するのも同じ理由でアウトだ。そもそも当事者ですらない俺の話を聞いてくれるのかどうかさえわからないのだから。

 だから俺は最後の手段を選ぶことにした。それが火宮一族だ。こと古鷹という地域に限定すれば、火宮家は相当な権力を握っている。警察機構を動かすことだって不可能ではない。竹河たちが撮影した写真がどのような用途で使われているのかも、火宮の力を使えば調べることができるだろう。

 不可能ではない——けれど、しかし俺にはできないことだ。

 本家の人間にもヒエラルキーがあることは既に述べたが、つまるところ、俺程度の身分では火宮の力を使うことはできないのだ。それを行使することができるのは本家の中でも上級職に就いている者、あるいは嫡流の血統でありながら夜鷹のように権力を放棄していない者——そして何より、俺の話を聞いてくれる者に限られる。

 その条件に該当するのは、火宮雀しかいない。

 彼女しか、頼れる人間がいないのだ。

 

「悪いとは思ってるよ。お前だって一族の大人たちのことは嫌いなのに、その権力を利用しろって言ってるようなものなんだから。都合のいいことを言ってる自覚はある」

「ああ、そこはわかっちょんのやな。いやまあ、別にそれは構わんっちゃけど」

 

 雀はらしくもなく真面目な表情と声色でそう言う——それが、少し意外だった。

 誰が見ても都合のいい頼み事をしているということは自分でもよくわかっている。彼女に激昂されて、挙句断られてもおかしくないとさえ思っていた。

 だからこそ、雀がそれを構わないと躊躇なく答えたことは、俺にとって予想外だった。

 

「問題は三つ」

 

 と、真剣な面持ちで、彼女は指を三本立てた。

 

「ひとつ、竹河に証拠がない」

「証拠……」

「あるのは供述証拠のみ。しかもそれは被害者である天野ちゃんのものときてる。決め手となる客観的な証拠がない以上、あの子がいくら供述しようと信用性が認められん可能性が高い」

「……撮影に使ってたのがスマホなら、本人がデータを持っているはずだ」

「それだって憶測でしかない。『証拠は容疑者が持っているはずです』って? 言いがかりも甚だしいわ」

 

 その通りだった。

 そもそも、竹河たちが証拠になりそうなデータをわざわざスマホに残したままにしているとも思えない。とっくに適当な記録メディアなりクラウドサービスなりにバックアップを送っているはずだ。ログそのものを調べることだってできるのかもしれないけれど、決定打となる証拠がない現状だとそれも難しいだろう。

 

「ふたつ、そもそも天野ちゃんが自分を被害者って自覚しちょらん」

「…………」

「そういうことなんやろ? 天野ちゃんは自分を被害者って思っちょらん。ひどいことをされよるって自覚がない。お前に助けを求めたってわけでもない。本人の認識と貞操観念の問題はさておき、えっと……あー、行為自体はお互いの同意の上なんやろ?」

 

 雀は少し言葉を迷っているような素振りを見せてから、そう言った。

 そう。目下のところ、それが一番の問題なのかもしれない。

 三年ほど前に性犯罪を厳罰化する改正刑法が施行されて、強姦罪は親告罪から非親告罪となった。つまり、被害者の告訴がなくても、加害者を起訴することができるようになったのである。

 けれど——天野唯は、自身を被害者だと認識していない。

 彼女本人にその自覚がないとなれば、事件として扱うこともできないのだ。

 

「そしてラスト」

 

 と、目を細めて、雀は言葉を続けた。

 

「お前が何をどげえしたいのかがわからんのや」

「……俺が?」

「天野ちゃんは遥に助けを求めてなんてない。それはつまり、そもそもお前やあたしの出る幕やないっちゅうことや。それなのにお前は何かをどげえかしたいと言った。あたしにどげえかしてほしいと言った。その意図がわからん」

 

 彼女の瞳が、鋭く、こちらを見つめている。まるで俺のことを射抜かんばかりの、突き刺そうとさえしているかのような、そんな視線だった。

 お前は、と雀は口を開いて、いくらか間を置いてから、

 

「お前は、なんのためにあの子を助けたいんや?」

 

 と、そう訊いてきた。

 俺は答える。

 

「俺の日常を守るためだ」

 

 そう。

 それは言葉にする必要もないくらいに、明白な理由だった。

 俺の日常を守るため。平穏で、平凡で、平和な、そんな日常を過ごすため。

 そのために——天野唯には、笑っていてほしかった。

 俺の日常は、彼女の笑顔とともにあるのだから。

 

「天野のことを助けたいと思うのは、百パーセント俺のエゴだ。失望してくれて構わない」

「あっはっはっはっはっは!」

 

 こちらの答えを聞いた雀はにわかに思いっきり爆笑をし始めた。これまでの真剣な空気をぶち壊すかのようなその笑い声に、俺は思わず呆気に取られてしまう。

 ひとしきり笑ったあと、彼女は唐突に立ち上がったかと思うやいないや、スマホを取り出してどこかに電話をかけ始めた。

 

「あ、もしもしツッキー? 頼みたいことがあるっちゃけど」

 

 スピーカーモードにしていないので、当然ながら相手の声はこちらには聞こえない。やり取りに割り込むわけにもいかず、俺はしばらく黙っておくほかなかった。

 しかし派手なデザインのスマホカバーだ。カットされた宝石のような柄である。ただ、全体的な色味が赤色に統一されているからか、派手ではあるもののごちゃごちゃとした印象は感じさせない。センスのよさは否定できそうになかった。

 

「えぇー、駄目? 無理? どうしても? なしてよ。……あ? 『主人公に干渉したくない』? 意味わからんっちゃけど。……うん? おう、おうおう……うん、それでいい。わかった……っちゅーかわかっちょんよ。全部あたしの自己責任。それで構わん。ありがとうな。……おん? ハルに伝言? わかった、伝えちょくな」

 

 そんな言葉を最後に、雀は通話を切る。そして再び俺と向き合うように、クッションの上に座り直した。

 

「オッケイ、どうにかしちゃる」

「……いいのか?」

「あんたが言い出したことやろうが」

「それはそうだけど。自分のために、なんて、お前はそういうの一番嫌いだろ」

「いいや? むしろ好いちょんよ」

 

 そう言って、軽く笑う彼女。その言葉に、俺はさすがに驚いた。

 身勝手で、独り善がりで、自分のことしか考えていないようなエゴイスト。そういう人種を雀は何よりも嫌悪しているのだと、そう思っていたのに。

 

「よくおるやんか。誰かのため、あなたのため、なんてほざくやつらって。そういうやつはな、何かあったときに他人のせいにする人間なんよ。あたしが一番好かんのはそういう人間」

「…………」

「どいつもこいつも、自分の行動くらい自分で考えて決めればいいんに……あたしはいつもいつでもそうしてきた。誰かのためやない。あたしはあたしのために、あたしがやりたいことを、あたしの意志で選択してきた。もしもあんたがあたしのことを誰かのために行動する人間って思っちょんのなら、それはただ——あたしが、みんなの笑顔が好きってだけのことっちゃ」

 

 至極当たり前のことだと言わんばかりに、彼女はシニカルに笑う。

 

「ハルに力を貸すのもあたしが決めた。あたしが自分で考えて、自分で選んだ。やけんあたしは誰のせいにもせんし、誰にもあたしの選択に文句なんて言わせんよ」

 

 自分で選んで、自分で考えて、そして自分の意志で行動を決める——それは確かに、当たり前のことなのかもしれない。

 けれど、世の中のいったいどれほどの人がそれをできるのだろう。誰にも流されず、自分の意志だけで選択肢を決められるというのだろうか。

 火宮雀はそれができる。紛れもない、彼女自身の意志で己の行動を選ぶことができる。

 他人に流されやすい俺なんかとは大違いだ。

 ああ、この女は本当に——

 

「んじゃ、作戦会議と洒落込もうか。……っと、そん前にひとつ確認してもいいか?」

「……なんだ?」

「火宮遥」

 

 雀はどこか芝居がかった口調で俺のフルネームを口にして、そして、真っすぐな瞳でこちら見据えてくる。

 

「お前に、死ぬ覚悟はあるか」

 

 

* * * * *

 

 

 その日の夜。作戦会議を終えた俺たちは夕食に出前を頼んで、交代でシャワーを浴び——そして現在、何故か同じベッドで横になっていた。

 彼女がうちに泊まると言い出したときは当然拒否したし、筆舌に尽くしがたい壮絶な言い合いもしたのだけれど、それについては省略しようと思う。勝敗はこの結果をもって察してもらいたい。

 宿泊を許可するだけなら何も一緒に寝る必要はないのだが、この家にベッドが俺の分しかないことは明白なわけで。どちらがベッドで寝るかとここでもまた口論をして、結局、ふたり分のスペースがありそうだからという理由でいつの間にか並んで眠ることが決まっていた。

 ちなみに雀には俺の寝間着を貸している。どうやらサイズはぴったり同じだったらしく、彼女は普通に着こなしていた。本当に不愉快な女である。

 やおらに背後から身じろぐような気配がした。お互いに背中を向けているのでわからないけれど、おおかた雀が体勢でも変えたのだろう。それを意識しないようにして、押し寄せてくるまどろみに俺は落ちようとする。

 

「起きちょん?」

「……………………」

「起きちょんやろ」

「……お前が話しかけなかったら寝てた」

 

 俺はため息をついて、閉じていた目を開いた。それはすまんな、と彼女は言う。

 

「この部屋、広くない?」

「そうだな」

「ベッドも大きくない?」

「そうだな」

「ひとりって寂しない?」

「…………」

 

 そこはそうだなって言わんのか。雀がそうくつくつと笑ったのが背中越しに伝わってきて、また苛々とさせられる。

 今年の春に、俺は東京から古鷹に転校した。父親の都合だった。当初はそれについてどうとも思わなかったし、むしろどうでもいいとさえ思っていたくらいだ。転勤するにしてもしないにしても、母親がそれに従うにしてもしないにしても、両親が勝手にすればいいと考えていた。

 そのとき既に兄の悠哉は独り立ちしていたから、俺は大学生の姉とふたりで暮らすことになる。それはそれで別に構わなかった——いや、だからこそ、そのほうがよかった。できることなら、俺は姉さんと一緒に東京に残りたかった。

 それができなかったのは、ただ単に、俺に拒否権がなかっただけのこと。

 けれども両親と一緒に暮らすことだけはどうしても受け入れられなかった。放任主義の父親はまだしも、あの母親との三人暮らしだなんて、想像するだけで息が止まりそうになる。

 だから俺はひとり暮らしがしたいと両親を説得した。それはいっそ我儘と表現したほうが正しいのかもしれない。『従順な息子』がらしくもなく我儘を言ってきたことに母親は驚いていたし、説得にもかなりの時間を要したけれど……そうして手に入れたのが、高校生のひとり暮らしには広すぎるこの部屋なのだ。

 そういうわけだから——俺はひとりを寂しいとは思っていない。

 

「いやな? あたしは今兄貴と暮らしよんけど、いつかは独り立ちすることになるやんか?」

「…………」

「そんときおかえりっち言うてくれる人がおらんって、なんか寂しいなあって思ってな」

 

 雀は火宮の実家を出て、兄である夜鷹とふたり暮らしをしている。理由は知らないし、特に興味もない。

 いつかは独り立ちすることになる。そんな彼女の言葉を、頭の中で反芻した。

 俺もいつかは、あの母親の元から巣立つことができるのだろうか。

 

「……お前、進路はどうするつもりなんだ」

 

 普段通りの声を装いながら、俺はそう言った——普段通りの声を、はたして装えていただろうか。

 

「あたし? んー、進学かなあ」

「曖昧な言い方だな」

「うん。進学せんでもいいかなっち、最近思い始めよんの」

「ふうん」

 

 じゃあ雄助と同じで就職か。てっきり雀は進学するのだろうと思っていたのだが、まあ、そういう選択もあるか。

 

「勉強したいことはたくさんあるっちゃけど、それは別に大学でしか学べんことでもないし」

「まあ、大学なんていつでも行けるからな……将来の夢とか、あったりするのか?」

「将来の夢、か……なんか懐かしいなあ。昔もこげな風に、みんなで将来んこと話したな」

「記憶にないな」

 

 そうやろな、と雀は言った。

 

「昔は自衛官になりたいって思っちょったなあ」

「ふうん」

「笑ってもいいっちゃよ」

「笑わないよ」

 

 本音だった。

 笑うような夢じゃないし、何より、それは彼女にとても似つかわしいと思ったから。

 

「あたしは誰かのヒーローになりたかったんやろうなあ」

「それで自衛官ね……今は違うのか?」

「そげなわけでもないっちゃけど……結局、自衛隊が守れるもんってこの国の人らだけやん?」

「…………?」

 

 まあ、海外に派遣されることもあるのだろうけど、確かに雀の言う通り、基本的に彼らの主たる活動はこの国を守ることだ。しかしそれがどうだというのだろう。十分にすごいことだと俺は思うけれど。

 

「いつもいつでも本気で生きる! ……っちゅうんがあたしのポリシーなんやけど、いっぺんきりの人生、世界を知らんで死ぬっちしんけんもったいなくない? こげな狭い島国で終わるんは嫌やなーって、それって本気で生きたことになるんかなーって、ふと思ってさ」

「…………」

「やけん、卒業したら進学も就職もせんで旅するんもいいかなっち思っちょんの。ボランティアとかしながら、色々経験積んだりしてな」

 

 馬鹿が夢見がちなことを言い出したかと思った。

 けれど彼女のことだから、ただ夢見がちなだけでは終わらないのだろう。きっと雀は自分の進路に対しても本気で向き合って、考えて、その果てに、誰にも文句を言わせないような未来を自分の意志で選ぶはずだ。

 この国だけでは終わらない、世界を見据えた未来を。

 ああ、と思う。

 

「……俺は」

 

 ああ、本当に——この女は、格好いい。

 だからこそ。

 

「俺は、お前のそういうとこが嫌いだよ」

 

 だからこそ、俺は火宮雀のことが大嫌いだった。

 自分の人生を常に全力で生きて、誰よりも未来と世界を見ている彼女のことが嫌いだった。人に迷惑をかけまくっているくせに、それ以上に人を助けようとしていて、それを自己満足だと心から笑うことのできる彼女のことが嫌いだった。

 物事を損得勘定で考えて、他人に流される俺と反対側にいる彼女——自分と雀をそんな風に比較して、どうしようもない劣等感に苛まれてしまうから。

 

「そっか。あたしはハルのこと、そげえ嫌いやないけどね」

 

 嫌味ではなく、空疎でもない。

 わかりきっていることを語るかのようにあっさりとした口調で、雀はそう言った。

 

「——あんたが火宮遥らしくある限りは、だけど」

 

 それが彼女の最後の言葉だった。沈黙が寝室の中を漂っているうちに、雀はいつの間にか眠りに落ちていたらしい。

 彼女が寝てしまうと、この部屋には深い静寂が満ち始めた。けれどまったくの無音というわけでもない。相も変わらず雨音は響いているし、背後からはかすかな寝息が聞こえてくる。

 ひとりきりじゃないベッドに違和感を覚えながら、今度こそ、俺は襲ってくる睡魔に抗わなかった。

 六月四日という一日は、そうして終わったのだった。

・・

おたから

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