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「——そうか、そんなことが」

 

 しばらくの沈黙の果てに、雄助はそう言った。

 時刻は放課後を少し過ぎたころ。旧校舎の旧一年D組の教室でのことである。その日も吹奏楽部の奏でる音色が、この古い校舎に響いていた。

 ここから三つ隣の教室で行われていたろくでもない行為の真相を俺から聞いた彼は、それまでキャンバスに走らせていた筆を置いて、数秒間目を伏せたあとにそう口を開いたのだった。

 

「全然気がつかなかった……いや、見て見ぬ振りをしてたのは俺らのほうか」

 

 くそが、と雄助は呟いた。それはとても静かな声で、ともすれば雨音にかき消されてしまいそうなくらいに小さく零れ落ちた言葉だったけれど、その短い音に込められた激しい怒りは、痛いほどにひしひしとこちらに伝わってくる。

 俺たちというのは、この校舎を使っているほかの部活生たちのことも言っているのだろう。一階を利用している美術部生は雄助だけだが、二階と三階はそれぞれ吹奏楽部と書道部が使用している。その全員が竹河たちの所業を黙認しているのだと、いつだったか彼はそう言っていた。

 けれど、それを責められる人間がどれほどいるというのだろう。面倒事には関わりたくないと、誰だってそう思っているはずだ。自ら厄介事に首を突っ込みたがるなんて、そんな物好き、あの金髪の正義馬鹿くらいしかいないだろう。

 少なくとも、俺には彼らを責めることはできない。石を投げつけることができるのは罪のない者だけなのだから。

 それに部活生たちが竹河に気がつかなかったというのも、無理からぬ話ではあるのだ。

 旧校舎は建物の東西にふたつの階段がある。東から順番に階段、A組の教室、BからDと続き、正面玄関を挟んで西階段、職員室などの特別教室という並びがおおよその間取りだ。そして生徒の出入りは玄関でのみ行われているが、扉自体はほかにも存在する——それが東階段の非常用扉なのである。その扉は古い木製で、鍵は小さな閂錠であり、そのうえ建てつけが悪いのでピッキングスキルのない素人でも開けることができるらしい。

 竹河たちがA組を利用しているのもそれが理由なのだろう。扉からもっとも近く、事実上の空き教室なので用務員の巡回も少なく、東階段を使えば部活生と出くわすこともないし、そして部室からも距離がある。そんな場所で何が行われていたとしても、部員たちにわかるはずがない。彼らが知っているのは、あくまでも竹河が勝手にA組を使用しているということだけなのだ。

 加えて放課後は吹奏楽部が練習しているわけだし、さらに気付きにくいだろう——上の階から響いてくる楽器の音を聞きながら、俺は教室の中を見渡した。

 古い建物とはいえ、所詮は校舎だ。内観は今の生徒棟のそれとあまり変わらないように思える。黒板、隅に積まれた机と椅子、画材が置かれている棚。それらを順番に視界に入れて、俺は最後に、ひとつの木製のロッカーを見やった。

 

「旧校舎の教室って、どこもこんな内装なのか?」

「まあ、机の数に偏りはあると思うけど、大体こんな感じだと思うぜ」

「あのロッカーも?」

「釘打って固定されてるからなあ」

 

 俺はロッカーに近付いて、それをまじまじと確認する。高さは一八〇センチメートルくらいだろうか。扉を開けようとすると、錆びついた蝶番が耳に嫌な音を立てた。

 中には箒や雑巾といった掃除用具のたぐいが入れられている。意外と余裕がありそうだ。そんなことを考えながら、俺はゆっくりとロッカーの扉を閉める。

 

「それで、天野は大丈夫なのかよ」

「しばらく三階にも旧校舎にも近付くなとは言ってあるよ。それと、今のところ呼び出しとかはないみたいだけど、連絡先も全部ブロックして消させといた」

「……それ、竹河キレないか? 天野の教室に直接乗り込んでいく可能性もあるだろ」

 

 雄助が心配するような目つきをこちらに向けてきた。ああ、と返事をしながら、俺は彼のそばにある椅子に再び腰を落ち着ける。

 

「それに関しては雀が羽鳥に頼んでくれてるはずだよ。天野のことを気にかけて、守ってやってほしいって……雄助は知ってたか? あいつらがクラスメイトだって」

「いや知らんかった。へえ、そうだったのか……でも茜のやつ、めちゃくちゃ喧嘩弱いんだよなあ」

 

 頼りになるかなあ、と憂えるような表情で呟く雄助。その言葉にいささかの不安を覚えたものの、きっと問題はないだろうと考え直す。あの男はそういった不逞の輩をあしらうのがうまい。先日の総会で俺の兄から紅野を引き離したときのように、さりげなく天野のことを守ってくれるはずだ。

 

「そういえばあいつ、最近竹河に絡まれたって言ってたな」

「ん、そうなのか。その話は初めて聞いたな」

 

 俺と同じようにカツアゲでもされたのだろうか。そう思ったのだけれど、雄助は首を横に振る。

 

「女を紹介してくれって言われたんだとよ。断ったらしいけど」

「あー……」

「女遊び激しいもんな、あいつ」

 

 呆れ混じりにそう言って、雄助は大きく嘆息した。

 

「どうも、竹河は茜を仲間に引き入れたかったらしくてさ。でもあいつが火宮の分家——っつうか、スズの舎弟みたいなもんだって知ったとたん諦めたそうだ」

「ふうん……まあ確かに、俺のときも大体そんな感じだったかな」

「だろうなあ。あいつらスズのこと嫌いだし。ただ、そのとき気になることを言ってたんだとよ」

 

 気になること? と首をかしげた俺に、雄助も曖昧そうに口を開いた。

 

「仲間になったら、お前にも褒美を分けてやる……とか、なんとか」

「褒美?」

 

 なんだそれ、と反射的に訊き返すと、彼は肩をすくめる仕草をした。雄助にもわからないらしい。

 疑問はあるものの、ここで頭をひねっていれば答えが出てくるというわけでもないので、それについてはひとまず考えることをやめた。

 

「ところで、日中は茜が守るとして、放課後はどうするつもりなんだ? 天野って、確か葛城方面だったよな……ハルが一緒に帰ってやってんのか?」

「それでもよかったんだけど、俺のクラスに天野と同じバスで通学してる友達がいるから、そいつに頼むことにしたよ」

「え、お前友達いたの?」

「えっ」

 

 それはどういう意味なのだろう。……もしかして、雄助は俺のことを友達と思っていなかったのだろうか。

 親友だと思っていたのは俺だけだったのか? 嘘だろ。なんてことだ。

 

「いやいや、俺らはダチだよ。そうじゃなくて……ハルがオレ以外の誰かを友達って認めるの、珍しいなって思ってさ」

「……そうかな」

 

 そうだろうか。自分ではよくわからないけれど、でも雄助がそう言うのならそうなのかもしれない。

 人間関係というものは、そこそこにきちんとこなしておかなければいけない。そうじゃないと学校生活を送るには少し不便になってしまう。それがデメリットであることは火を見るよりも明らかなわけで、だから俺はいつも愛想よくして、クラスメイトたちとは角が立たないように接してきたつもりだ。

 話しかけられればうれしいし、遊びに誘われるのも悪い気はしない。けれどそれは友情でもなんでもなくて——ただ単に、自分の仮面は完璧なのだと安心できるからだ。

 しかし、あんずはほかのやつらとは少し違う。彼はいつも微笑んでいるけれど、わざとらしく笑ったり、馬鹿みたいにはしゃいだりなんてしない。べたつくような鬱陶しい絡み方も、あんずはしてこない。

 つかず離れず。遠からず近からず。彼のそういう距離感は、正直、俺にとってとても心地いいものだった。

 

「……あんずはいいやつだよ。なんていうか、雄助とは違うベクトルで、そばにいて気が楽なんだ」

「ん? あんず? 女子なのか?」

「いや、男子。男なのに女みたいな名前同盟なんだよ、俺とあんずは」

「ふはっ、なんだそりゃ。茜も仲間にしてやれば?」

「あいつはいらん」

「即答かよ。で、そいつの名字は?」

「萩原」

 

 ハギハラ? と雄助は首をかしげた。どうやらあんずとは知り合いではないらしい。まあ、なんらおかしいことではないだろう。一学年にざっと二百人の生徒がいるとして、三年間でその全員と知り合えるとは限らないわけだし。彼も同じことを思ったのか、それ以上は特に掘り下げてはこなかった。

 

「ハルに友達ができて俺は安心したぜ」

「雄助は俺の親か何かなのか……?」

「だからダチだって。何かが変わっちまっても——何もかも変わっちまっても、そこだけは変わんねえよ」

「…………?」

 

 雄助の言葉の意味がよくわからず、俺は怪訝に思う。そんなこちらに構うこともなく、話を戻すけど、と彼は口を開いた。

 

「作戦決行は明日だったか」

「……ああ」

「まあ『あいつ』の立てた策だってなら問題ないと思うけど……いや、だからこそえげつねえのか……?」

 

 少し思案するような表情になる雄助。聞こえるか聞こえないかほどの小さな声で、何やらぶつぶつと呟いていた。俺がそれに耳を傾けようとするより先に、彼は顔を起こして、

 

「ま、嫌な予感はするけど、スズがいりゃ万が一ってことはないか」

 

 と言った。そしておもむろに、こちらに視線を流す。

 真っすぐにこちらを見つめてくる、見慣れた瞳。それに込められた意図はすぐにわかったので、俺は目を逸らさなかった。

 そのまましばらくの時間が経過して、突然、雄助は破顔した。くつくつとした声のない笑みをひとしきり漏らして——そして、こちらに向けてにわかに拳を突き出してくる。

 

「天野のことは任せたぜ。男を見せろよ? 親友」

「……ああ。任されたよ、親友」

 

 覚悟は決めたから。そう言って、差し出された彼の拳に、俺は自分のそれを合わせる。

 それが昨日のことだった。

・・・・・

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