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 四限終了後、昼休み。雪村とのやり取りを受けて、俺は一年生の教室へと向かった。

 紅野が何組に所属しているのかは知らないけれど、まあその辺の適当な一年生に訊いたらたぶんわかることだろう。なにぶん、相手は人目を引く赤い髪をしているのだから。

 なんだか最近、色んな人の教室を訪ねてばかりな気がするな……そんなことを考えつつ一階に到着したところで、俺はたまたま近くを通りがかった女子生徒に声をかけた。

 

「ねえ君、ちょっといいかな」

「うん?」

 

 こちらの呼びかけに反応して、彼女が後ろを振り向いた。その動きに合わせるように茶髪のセミロングがふわりと広がって、やや遅れてから顔に追いつく。染めているのかと一瞬思ったけれど、おとなしそうな雰囲気のある子だったのでおそらく地毛で明るいのだろう。

 

「君、一年生?」

「うん」

「そっか、よかった。紅野って男子に用があるんだけど、どのクラスか知ってたら教えてほしいな」

「こうのって、紅色? 大河? それとも高低?」

「え? ……ああ、漢字ね。紅色だよ。紅花の野原で紅野。赤毛の目立つ子なんだけど」

「じゃあイツキくんだね。私と同じクラスだよ」

 

 そう言うが早いか、彼女は踵を返すとこちらに背を向けて廊下を歩き始めた。その行動に思わず、は? と少し面食らってしまったものの、どうやら教室まで案内しようとしてくれているようなので、俺はすぐさま後に続く。別にクラスを教えてくれるだけでよかったのに、と思いながら。

 ともあれその子に連れられて俺は一年D組の前に着く。女子生徒は教室の中に入っていくと、ひとりの男子の背中に声をかけた。その赤い後頭部が少女に振り返る——紛れもなく、紅野樹月だった。

 

「知らない人がイツキくんに用があるんだって」

「え、誰だ?」

「知らない人」

 

 誰だ……? と少し戸惑うような様子を見せた紅野だったが、それが俺だということに気付いたようで、普通にこちらに近寄ってきた。

 

「なんだ。遥さんじゃないすか」

 

 彼はそう言って、緊張がふっと抜けたような柔らかい微笑を浮かべた。……そらまあ、あんな説明じゃ何もわかんないよな。

 言葉足らずな子だなあ。

 

「用ってなんですか?」

「ああ、うん。変なこと訊くけど、パンドラの箱って知ってるか?」

「…………?」

 

 不思議そうな表情で首をかしげる紅野。無理からぬ反応だろう。月に一度の総会でしか話さないような先輩が珍しく訪ねてきたと思いきや、いきなり変なことを訊いてきたのだから。

 

「ギリシャ神話の説話のひとつ……ですよね? 詳細は知りませんが」

「そうなんだけど、それ以外で何か心当たりってあるか?」

「それ以外……?」

 

 彼は考え込むように手を顎に当てると、不思議そうな顔を不可解そうなものへと変えて、ますます大きく首を傾けた。そのせいで上半身までつられて傾いてしまっている。俺より背が高い後輩だけど、たまに見せるこういう仕草が年相応の一年生に見えるよな、となんとなく思う。

 それはさておき、紅野は本当に何も思い浮かばないらしく——そしてどうやら、サイトの存在すらも知らないようで、困ったように視線を彷徨わせるばかりだった。

 

「……何も知らないみたいだな」

「すみません……」

「いや、いいよ。気にするな」

 

 雪村め、あんなに人を見透かしたようなことを言っていたくせに、全然検討違いじゃないか。いくら呼吸をするように嘘をつく女だったとはいえ……まさか紅野なら答えてくれるっていうのも嘘じゃないだろうな。

 いやでも、仮に彼女の言っていたことが嘘だったとして、その行為になんらかの意味があるとはまったく思えない。無駄に俺が疑心暗鬼になるだけの話だ。そんな無意味なことをはたしてあの女がするだろうか——いやまあ、雪村ならしかねないのか?

 うーん……。

 

「じゃあ、雪村月見っていう三年生のことは知ってるか?」

「あ、はい。春にお世話になりました」

 

 質問の矛先を一旦変えてみると、彼はあっさりと首肯した。

 

「雪村先輩がどうかしましたか?」

「樹月ならきっと答えてくれるって言われたんだよ。その彼女に」

「……パンドラの箱について、ですか?」

 

 ふむ、と紅野は再び考えあぐねるように眉間に皺を寄せた。雪村の名前を出してみたところで、あまりぴんときていないようである。

 その様子を観察しつつ、このあたりが引き際だろうか、と俺は考え始める。いつまでもこんなことで引き止めていたらなんだか彼に悪い気がするし、損得勘定の視点からもそろそろ撤退するべきなんだろう。

 目的を達成したいだけなら、別のアプローチを考えればいいだけの話だし。

 

「何も思いつかないならいいんだよ。おおかた雪村が適当なことを言っただけだろうから、気にしないでいい」

「……あの、俺なら答えられると言ったのは、もしかして先輩が遥さんに出した『ヒント』ですか?」

「ん? ああ、そうだけど」

 

 紅野の問いかけに俺は頷く。すると彼は何かを考えるような素振りを見せて、

 

「あの人がそう言うのなら、きっとそれは、本当に意味のあることなんだと思います」

 

 と言った。それがなんというか、あまり紅野らしくもない、どこか意味ありげな響きを含めた言い方だったので、今度は俺のほうが首をかしげる番だった。

 

「春頃に雪村の世話になったって言ってたけど、どんな風に?」

「まあ、いくつか助言をいただいたって形ですね。ほら、あの人何でも知っているじゃないですか」

「自称だけどね」

「あと地雷を踏まれました」

「自分の地雷を踏んだ女の世話になるんじゃないよ」

「いや、あれは先輩にしかできない荒療治って感じだったんすよ。…………ああ、そういえば」

 

 そのときふと思い出したかのように、彼は口を開く。

 

「ギリシャ神話繋がりで、雪村先輩に教わった雑学がひとつあるんです」

 

 パンドラの箱と関係があるかは微妙なところなので、参考にはならないかもしれませんが。そう前置きしてから、紅野は続けた。

 

「黄金の林檎を巡る、三柱の女神たちの争いを描いた挿話が、ギリシャ神話にはあるそうなんです」

「…………、なるほど。林檎ね」

「その林檎には『最も美しい女神へ』と書かれていて、それが林檎の花言葉の由来にもなったのだとか」

 

 へえ、とそれらしく頷きつつ、俺はポーカーフェイスを崩さないようにする。

 林檎、女神、ギリシャ神話——彼は『参考にならない』と保険をかけたけれど、しかしその言葉とは裏腹に必要なピースをそろえてくれた。むしろ俺の期待に応えてくれてありがとうと感謝したいくらいである。

 そして。

 全知を謳う少女は、あながち適当な嘘をついていたわけではないようだと、俺はあらためて理解させられたのだった。

 

  

* * * * *

  

 

 紅野と別れ、一年D組の教室を後にしたその足で図書室へと向かう。図書室は南校舎——職員棟の四階にあるので、生徒棟の一階からではなかなかに遠く感じてしまうのだが、そういう構造の学校なので致し方ない。

 階段を昇りながら、俺が思い浮かべていたのは先ほど紅野と交わした会話だった。

 黄金の林檎。三柱の女神。そしてギリシャ神話。それらのキーワードが示されただけでも、彼との話はいいヒントになってくれた……が、しかし同時に、新たに謎が増えてしまった感もある。

 謎というより、生じたのは矛盾点になるのだろうか。

 例えば、サイト名のパンドラの箱はギリシャ神話を由来としているのに、龍崎に与えられた名前はローマ神話の女神であるとか。ほかにも、三人の女神と黄金の林檎にまつわる伝説はパンドラの箱とは直接関係がなさそうだ、という点も挙げられるだろう。

 まあ身も蓋もないことを言ってしまえば、サイトの作者は実はそこまで深く考えていなかった、なんていう落ちが着く可能性も十分にありえるわけで……まさか、雪村が『どうでもいいもの』と一蹴したのはそれが理由だったりもするのだろうか。

 ともあれ、そういった不確定要素をなくすために、俺はこうして図書室くんだりまでやって来たわけだ——思えば転入してから早数か月、図書室を訪れるのはこれが初めてだな、なんて思いながら。

 扉を開けて一歩足を踏み入れると、古い紙のような独特の匂いが鼻孔を満たした。図書室特有の、生活感の少ない空気である。整然と立ち並ぶ本棚の奥にはいくつかのテーブルが配置されていて、読書用と学習用でスペースを区切られている。そこで静かに本を読んでいる生徒の姿もちらほらと見受けられた。

 こういう施設はどこの学校もそんなに変わらないな、などという感想を抱きつつ、俺は扉を後ろ手に閉めた。

 さて、と思う。やはり調べるべきはギリシャ神話についてなのだろうが、そのあたりのジャンルはどのコーナーに行けば見つかるのだろう。

 こういうときはもう図書委員に訊いてしまったほうが早いな。そう即決して、俺は入口のすぐ目の前にあるカウンターテーブルへと歩を進めた。

 受付用カウンターには黒髪をボブカットにしている女子生徒がいて、机を挟んで友人ふたりと談笑しているようだった。利用者に配慮しているのか、小さな声でひそひそと。

 女子同士のお喋りを邪魔するのは正直かなり気が進まないのだけど、俺だって利用者なんだから遠慮することはないよな、と心の中で言い訳をしつつ彼女に話しかける。

 

「ちょっとごめんね。本を探してるんだけど」

「あ、はい。なんでしょ……」

「ねーねー夏休み何して遊ぶー?」

「え、まだ六月ですよ?」

「そうなんだけどさー、あたしはもう今からドキワクしちゃってるよー! お祭りでしょ? プールでしょ? あ、一緒に水着買いに行こうね!」

「み、水着ですか? ……い、いいですいいです! 似合わないのでっ」

「いーこーおーよー! もう絶対似合う超絶かわいいのあたしが選んであげるから――」

「うるっさい! 騒ぐならここから出ていきなさい!」

 

 お友達のお喋りのテンションが上がってきた、その瞬間、図書委員の女子の怒鳴り声が室内に大きく響いた。その怒声を受けて、ふたりの少女が仔猫のようにぴゃっと飛び跳ねる。読書スペースにいた何人かも驚いたようにこちらに視線を向けてきていた。

 そりゃまあ、集中しているときに怒号が聞こえてきたら何事かと思うよな。そんなことを考えつつ、俺はさりげなく一歩後退して無関係を装う。

 周囲がしんと静まり返ったところで、こほん、と彼女はわざとらしく咳払いをすると、

 

「失礼いたしました。それで、どのような本をお探しですか?」

 

 と営業スマイルで俺に言った。素晴らしい切り替えの早さである。

 

「えーっと……ギリシャ神話を解説していて、素人向けにわかりやすい本ってあるかな」

「……ああ、ひょっとして火宮先輩ですか?」

 

 確認するようにそう訊かれて、とっさに返事をすることができなかった。

 どうして彼女が俺の名前を知っているんだ? 火宮先輩という呼び方から察するにこの女子生徒はおそらく下級生なのだろうが、学校全体に名を馳せている雀ならまだしも、地味で平々凡々な俺なんて後輩には存在すら知られていないだろうに。

 

「雪村先輩からお話はうかがっております。少々お待ちくださいね」

 

 にわかに戸惑う俺に気付くこともなく、図書委員の少女はおもむろに立ち上がる。そしてカウンターの奥にある扉を開けて——おそらく書庫のような部屋なのだろう——その中へと入っていった。

 ……彼女は今、雪村から話は聞いていると言ったか。ということは、なるほど。まだ名乗っていなかったのに俺の名前を把握していたのは雪村に聞いていたからか。

 そんな風にうっかり納得しそうになったものの、しかしすんでのところで、俺が図書室に行くことはひと言だってあの女には伝えていないと思い出す。

 おいおい、どういうことだよ。

 

「お待たせしました。こちらですね」

 

 扉が開いて、女子生徒が一冊の本を手に書庫から出てくる——ちなみに先ほど彼女に叱られていたふたりは、友達の仕事を邪魔しないためかいつの間にか読書コーナーに移動していた。

 どうぞ、とこちらに差し出されたのは、それなりに厚めなソフトカバーの単行本だった。

 

「……西洋美術史?」

 

 そのタイトルを視認して、俺はつい困惑の声を漏らす。

 本の表紙には著名な絵画がコラージュのようにちりばめられていて、『親切な解説つき』や『〇分でわかる』というキャッチコピーが書かれていた。見るからに美術史の解説書であり、それ以外の何物にも見えない。

 解説書は解説書でも、俺がお願いしたのはギリシャ神話に関する本のはずだけど。

 

「火宮先輩がいらしたらこちらの本を渡すようにと、雪村先輩が」

 

 と、図書委員の少女はそう言った。……つまり、なんだ。この本を俺に選んだのは雪村ということか?

 

「ギリシャ神話を知るなら何よりもまず『イリアス』と『オデュッセイア』をお勧めしたいところなのですが、それらの解説本となると、どうしても専門用語が多くなりがちでして……」

「ふうん……でも、その代わりが美術史の本?」

「西洋絵画を語る際にギリシャ神話は外せません。それほどにとても重要なテーマですので、こういった本でも必ず解説されるんですよ。ええと……ここからここまでが神話画をまとめているページとなってますね。作品の画像と一緒に物語の概説も載せてくれていますので、入門書としていかがでしょう」

 

 なるほど。ようするに挿絵つきで解説してくれている本と認識すればいいのか……なんて言ってしまうと、世界的に知られているだろう数々の名画に対して、かなり失礼になってしまうのかもしれないが。

 とは言うものの、それこそ付け焼き刃上等という精神でここまで来た節もあるので、俺にも理解できるのなら専門書だろうとそうじゃなかろうと別に構わなかった。

 女子生徒に礼を言って、そのまま貸し出し手続きもしてもらう。無事に借りることのできたそれを小脇に挟んでから、俺はあらためてカウンター越しに彼女と向き合った。

 

「さっき、雪村さんから話を聞いてるって言ってたけど、それっていつのこと?」

「昨夜メールをいただきましたが……それが何か?」

 

 不思議そうな表情を浮かべる少女に、なんでもないよ、と俺は笑ってごまかした——気持ち的には全然まったくちっとも、なんでもよくなんてないけれど。

 これはつまり。

 俺の行動は、昨夜の段階ですべてあらかじめ看破されきっていたと。どうやらそういうことのようだ。

 さすがは雪村月見。重ね重ね――本当に、不愉快な気分にしてくれる。

 

  

* * * * *

  

 

「あ、おかえりー。あれ? その本どうしたの?」

 

 図書室を後にして、教室に戻る。そうして席に着くなり、あんずが隣からそう声をかけてきた。大したものじゃないよ、とだけ返して、手にしていた本を机の横に下げているリュックサックに放り込む――寸前に、そういえば折れやすいソフトカバーだったなと思い出して、普通に入れることにする。

 俺は天井に向かって背筋を伸ばし、そして脱力するようにひとつ息を吐く。なんというか、ようやくひと息つけたって感じだ。

 

「なんだかお疲れだね」

「まあな」

「言いたくなかったら答えてくれなくていいんだけど……何かあったの?」

 

 気遣わしげに、彼はそう訊いてきた。俺は普段通りの笑顔を浮かべてから答える。

 

「大したことじゃないんだ。心配かけてごめんな」

「心配するよ。……それくらい、させてよ」

 

 あんずはそう呟いて、かすかに眉間に皺を寄せた。どうやら本当に俺のことを心配しているらしい。

 クラスの連中には、不良の喧嘩に巻き込まれたとかなんとか、適当にごまかした怪我のことだが、彼にだけは経緯を手短に説明している。友人への贔屓というのも多少なくはないけれど、天野のことを頼んでいた彼には話す義務があると思ったからだ——それは羽鳥に対しても同じようにしてあるけれど。

 月曜日。湿布やテープまみれで登校してきた俺の姿を目にして、まるで見るに耐えないとでも言いたげに、あんずは沈痛な表情を浮かべていたのだった。

 余計な心配をかけさせてしまっていることに、さすがに罪悪感を覚える。

 

「本当に大丈夫なんだよ。ちょっと考えなきゃなんないことがあるだけで……でもそれは、俺の個人的なことだから」

「うん……うん。遥がそう言うなら、僕はもう何も言わないよ」

 

 彼は納得しかねているようではあったけれど、それでも優しく微笑んで頷いた。

 

「でも、何かあったらすぐ僕に相談してね。お願いだから、それだけは約束して」

「…………、……?」

 

 あんずのその言葉に、当惑というほどではないにせよ、俺はほんの少しだけ違和感を覚える。

 なんだろう……そこまで踏み込んでくるのは彼らしくない。それともあるいは、そこまで肉薄するのもやむを得ないほどに、俺はあんずに心配をかけさせてしまっているということなのだろうか。

 まあ、別に不愉快というほどでもないし、むしろその優しさは俺みたいな人間にとっても素直にうれしいと思える。だから俺は嘘偽りのない気持ちで、わかったよ、とその約束を受け入れたのだった。

 

  

* * * * *

  

 

 西洋美術史の本には授業中に目を通した。教科書でカモフラージュしたまま左手でページをめくって、右手は膝の上でスマホの操作をする。まあ席が席なので——俺の席は前から二番目である——先生には普通にばれていたのかもしれないけれど。

 いくつか新たに知見を広げることができたし、ある程度は疑問を解くこともできた。

 昼休みに紅野が話していた、黄金の林檎を巡って起きたとされる争い……それは、ギリシャ神話ではパリスの審判と呼ばれているらしい。

 英雄ペレウスと女神テティスの結婚式から、その物語は始まる。式には大神ゼウスを始めすべての神々が招かれ、盛大な宴会が開かれた。しかしこの宴に招かれなかった不和の女神・エリスは怒り、式場に『最も美しい女神へ』と書き添えた黄金の林檎を投げ入れる。この林檎を巡り、神々の女王ヘラ、戦いの女神アテナ、美の女神アフロディーテの三人は『自分こそが最も美しく、この林檎に相応しい』と言い争いを始めた。ゼウスはこれを仲裁するために、羊飼いのパリスに判定を任せることにする――

 大体そんな感じのエピソードだ。

 ネットで調べているうちにわかったのは、ギリシャ神話は多くの神話体系に影響を与え、その物語を輸入されてきたということだ。ギリシャ神話の神々と、ほかの国の神々を同一視することもあるという。その中でももっとも密接とされているのは、ローマ神話なのだそうだ。

 パリスの審判に登場する三人の女神……ヘラ、アテナ、アフロディーテも同様に、それぞれローマ神話において相当する女神がいる。それがユノ、ミネルウァ、ウェヌスだ。

 英語では彼女たちのことを、ジュノー、ミナーヴァ、ヴィーナスと呼ぶ。

 そして『Who deserves the apple?』——誰が林檎にふさわしいのかとこちらに問いかけてくるかのような、あの文章……それらの断片をたどると、ひとつの結論に行き着く。

 

「——神話の再現」

 

 そう。

 くだんのサイトは間違いなく、ギリシャ神話に語られるパリスの審判を再現しようとしている。

 ジュノーの雀は神々の女王ヘラ。ミナーヴァの西城は戦いの女神アテナ。そしてヴィーナスである龍崎は美の女神アフロディーテ。……資産家令嬢、剣道部主将、芸能人という肩書をもつ彼女たちにつけるニックネームにしては、いささか因縁が出来過ぎである。

 そうなるとヴィーナス――つまりはアフロディーテのポジションが龍崎なのも頷けるだろう。パリスの審判において最終的に選ばれるのはアフロディーテだ。彼女が勝利するのはまさに予定調和だと言えるだろう。

 

「……だけどなあ」

 

 新たに知見は得られた。疑問も氷解できたし、合点もいった。

 だけど、まあ、だからどうしたって感じだ。

 あのサイトが令和版パリスの審判みたいなことを実行しようとしていたとして、そこにどういう意図があるのだろう。今の段階では判断するための材料が少なすぎて、とどのつまり、神話を模しただけの悪趣味なサイトでしかないという結論に落ち着いてしまう。

 それに結局、パンドラの箱との関連性も、わからず仕舞いのままなわけだし。

 とにもかくにも、ひとまずのところは俺に被害があるわけではなさそうだし、この人気投票もどきの結果が発表されるまでは放置でいいだろう——そんな判断を下しながら、俺は階段を降りていく。

 時刻はその日の授業がすべて終わった放課後。帰りのホームルームも超過しないまま無事に迎えた、午後四時前である。

 俺はいつも通り旧校舎の一年D組……実質的に雄助の専用アトリエと化している教室に向かおうとしていた。放課後はあの教室で彼と過ごすのが俺にとっては当たり前の日常で、そしてそれは、天野がいなくたって変わることはない。

 ただ、彼女の笑顔や歌声がないことを、ほんの少し寂しく思うだけで。

 雄助は相変わらず天野の絵を進めていた。記憶に頼って描いているので、進捗はあまりよくないと言っていたけれど。

 早くいつも通りになればいいな、と彼は笑っていた。彼女の存在が俺たちの放課後に当たり前となっていたことを再度自覚しながら、そうだな、と俺も頷いたのだった。

 

「——ああ、火宮さん。お待ちしてました」

 

 そんなことを考えながら生徒玄関に着き、靴箱から外履きを取り出そうとしたところで、不意にそう声をかけられた。

 聞き慣れたようなその声に、何気なく顔を上げると、

 

「……天野?」

 

 そこには、天野唯がいた。

 内出血は既に治まっているのか、もう頬には湿布を貼っていない。痣のない顔で微笑を浮かべた、いつも通りの天野の姿だった。

 

「なんだ、来てたんだ」

 

 思ってもみなかった彼女の登場に不意を突かれてしまったものの、その狼狽は努めて表情に出さないようにして、俺は自然なリアクションを装って天野に話しかける。

 なんだ、と思う。今日から学校に登校してきていたのだと知っていれば、昼休みに図書室なんて行かなかったのに。

 

「あら? その怪我、どうされたんですか?」

「あ、うん、ちょっとな……気にしないでいいから」

 

 答えをはぐらかすようにして俺は笑う——そのとき、ふと、違和感を覚えた。

 あれ……はたして天野は、こんな喋り方をするやつだっただろうか。いや、確かに敬語は普通に使っていた。使ってはいた、けれど、どうしてか俺に対してだけはタメ口だったはずだ。

 それに。

 火宮さん、なんて、そんな他人行儀な呼ばれ方をしていたか……?

 

「——ふふっ」

 

 唐突に、彼女はいたずらっぽく笑い出す。

 その笑い方も、なんとなく、天野らしくない。

 

「天野?」

「違います」

「え?」

「私、天野だけどユイじゃありません」

 

 彼女はそこで一度言葉を区切ると、真っすぐにこちらを見据えた。それからあらためて口を開くと、

 

「私の名前は天野零。ユイの双子の姉よ」

 

 と、俺に向かってそう名乗ったのだった。

 姉……双子の姉だって?

 なるほど、そういうことなら口調や人称が違っていても不思議ではない。たぶん一卵性双生児なのだろう、まるでうりふたつにしか見えないけれど、言われてみれば表情も雰囲気も……そして目つきも、妹とはまるっきり別物だ。

 天野唯は天真爛漫だったが、彼女はなんというか、どこか大人びている印象をこちらに抱かせる。妹とほとんど見分けのつかないあどけない顔立ちをしているというのに、俺を見据えてくるその眼差しは、何故かどうしてもひとつ年下の少女のものだとは思えなかった。

 

「……姉がいるって、聞いてないけど」

「それは訊かれてないからでしょう。兄弟構成なんて言う必要もありませんし」

 

 その通りだ。考えてみたら、俺も雄助も自分たちの家族のことを天野には話していない。兄弟仲のいいあいつはともなく、俺はできることなら兄の話をしたくないと思うし……兄弟の話なんてそんなものだろう。

 

「ときに火宮さん。私、貴方にお話があるんです」

 

 彼女は、やはりこちらを見据えるような目でそう言った。その瞳にどういうわけかたじろいでしまって、俺は思わず視線を逸らす。

 何故だろう。初対面だというのに、どうしてかこの後輩に苦手意識を抱き始めている自分がいる。

 

「話、ね……」

「ええ。場所を変えたいのですけれど、よろしいでしょうか」

「……雄助たちには聞かれたくないことなのかな?」

「そうですね。ふたりきりで、誰にも邪魔されないところがいいです」

 

 ちらりと視線を戻してみると、彼女はまだこちらを見つめたままだった。まるで、俺の内側まで見ようとしているかのような、そんな瞳で。

 ああ、なるほど……と、俺は気がつく。彼女の視線は見据えるような目なのではなく、見透かすような目なのだ。

 天野と区別がつかないほどにそっくりな顔立ちをしているのに——その眼差しが、どこか雪村月見と似ているから、俺はこの少女のことが苦手なのだろう。

 

「悪いけど、今日は……」

「話というのは、ユイのことよ」

 

 その言葉にはっとして、俺は反射的に彼女と向かい合う。同時に、彼女は背伸びをしてこちらに顔を近付けてきた。一瞬で距離を詰められたことに意表をつかれてしまい、無意識に足が一歩後ずさりしそうになる――が。

 しかし、そっとこちらに伸ばされた彼女の両手によって、俺の身体は停止させられた。左右の手のひらで、頬を挟むように固定される。それだけだ。それだけなのに、その手を振り払うこともできず俺は棒立ちになる。

 そして。

 天野零と名乗った少女は、妹と同じ顔で——けれど天野唯とはまったく異なる、蠱惑的な微笑でその唇を歪めたのだった。

 

「あの子のこと、知りたいでしょう?」

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