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 最寄りのバス停から乗車したバスに揺られること二十分、葛城のとある高台で降りて徒歩十分ほどの距離に、そのアパートはある。

 名前はウォースパイトハイツ——天野姉妹の暮らす家だった。

 今日の空は覆いかぶさるようなグレー色をしていたのだが、それがだんだん不吉なほどに黒く染まってきたかと思うと、まるで滝のような勢いで突然雨が降り始めたのである。梅雨に由来するものなのか、それともただの夕立なのか。どちらにせよ、唐突な土砂降りの雨に見舞われた俺たちは、姉妹の自宅へと慌ただしく逃げ込んだのだった。

 そのアパートは二階建てで、築年数自体はかなり経っていそうだったものの、案外と小綺麗にされている印象を抱く。それはずぶ濡れのまま通された二〇二号室の玄関を見たときにも同じ感想だった。

 ただなんとなく……家族で住むというよりは、単身者向けの物件みたいだとは思ったけれど。

 

「シャワーお貸ししますけど」

「……いや、大丈夫だよ」

「そう。ならちょっと待っていてください。タオルを持ってくるので」

 

 そう言い置いて、彼女はすたすたと部屋の中へと入っていき、そしてしばらくしてからタオルと衣服を手に玄関へと戻ってきた。

 

「どうぞ」

「ありがとう」

「それと、こちらに着替えてください。びしょ濡れで家に上がられても困りますから」

「……どうも」

 

 渡されたのは半袖のシャツとスウェットパンツだった。おそらくこれは、父親のものなのだろう。

 案内された脱衣所で制服を脱ごうとカッターシャツのボタンに手をかける——と、そのとき。

 

「……い、っ!」

 

 ずきん——と、頭部に痛みが走る。雨が降るたびにこれだ。いい加減うんざりしつつ俺は着替えを続けた。

 用意してもらった服は俺にはサイズが少し大きかったようで、シャツは微妙にぶかぶかとするうえにパンツも腰から落ちそうだ。とは言うものの、特にみっともないというレベルでもなかったので、ひとまずウエストをゴムで絞ってから脱衣所を出る。

 濡れてしまった制服を腕にかけて、俺は奥へと続く扉を開く。

 下着姿の天野零がいた。

 

「あら、男の人は着替えが早いですね。座布団なんて気の利いたものはないから、申し訳ないけれどそのあたりに適当に座ってください」

「服を着ろよ!」

「着替えてる最中に来たのは貴方のほうでしょう」

 

 正論過ぎて反論する余地がまったくない。俺は素直に謝罪してから再び廊下へと戻った。

 数分後。彼女が着衣を終えたところでようやくダイニングへと呼ばれ、俺はラグの上にあぐらをかくようにして座り込む。濡れた制服はハンガーを借りて干してもらった。

 目の前には折り畳み式のローテーブル。招き入れた天野零はというと、キッチンのほうで何やら冷蔵庫を漁っているようだった。

 当然ながら、妹のほうはまだ帰宅していない様子である。

 

「レモンティーって飲めます?」

「飲めるけど、まあ、お構いなく」

「まあ飲めようと飲めまいとうちにはレモンティー以外の選択肢なんてないのですけれど」

 

 じゃあ訊くなよ、と思ったものの、先ほど着替え姿を見てしまった手前あまり強く出られない俺がいた。

 ていうか、むしろこの少女はなんで平然とできるんだろう。

 俺はため息をついて、それから何気なく、家の中をぐるりと見渡してみた。六畳一間もないかもしれないダイニング。天井の空間へと続いている梯子が見えることから、間取りはロフト付きの1DKといったところか。

 全体的な内装はどこか味気なさがあったけれど、視界に映る範囲内では唯一、向日葵柄のカーテンだけが年頃の女子らしさを思わせた。

 天野が好きだと言っていた、向日葵の模様。

 

「…………」

 

 ロフトのあるアパートなんて、今の時代なら特に目新しくもない。その辺にありふれているとさえ言ってもいいだろう——が、しかしどうしても違和感を覚えてしまう。

 するとそのとき、ふふっ、と小さな笑い声がキッチンのほうから聞こえてきた。

 

「男の人を部屋に入れるのは久々だわ」

 

 独り言みたいなその言葉に、俺は違和感の正体に気がつく。

 

「……もしかして、君たちはふたりで暮らしてるのかな」

 

 そう。

 この家は、とても家族で暮らせるような物件とは思えない。単純な床面積なら俺の自室のほうが広いくらいだ。

 それに先ほど彼女は、男を部屋に入れるのは久々だと言っていた。その言い方だと、まるで父親さえもこの家にはいないみたいじゃないか。

 母子家庭というのも今時よくあることなのかもしれないが、この家を見回す限り、その可能性はないと考えていいだろう。

 この部屋には、物が少なすぎる。

 生活感がないわけじゃない。というか、それ自体は普通に感じられる——しかし、雑貨や小物類が基本的にどれも一種類しかないのだ。大人の女性がいたら化粧品や香水なんかがあってもいいはずなのに、それすら見られない。

 まるで単身者向けの物件みたいだ、という印象を第一に受けたけれど、これではまさに、ひとり暮らしの学生の部屋そのものだ。

 

「家族は?」

「いませんよ、そんなの」

 

 家族みたいに大切な人はいますけれど。そう言いながら、彼女はキッチンから出てきた。手にはグラスをふたつとレモンティーのペットボトルを持っている。

 特筆することでもないけれど、今の彼女の格好は黒でノースリーブのシャツワンピース姿だった。

 

「私たちが捨て子だということは、火宮さんはもうご存知なんですよね?」

「……一応はね」

 

 それについてはいつだったか天野の口から直接教えてもらったことがある。当の本人は、それはもうあっけらかんとしていたけれど。

 その情報を知っていたうえで、父親のものらしき傘や弁当箱を彼女が持っていたから、てっきり彼女は里親のような人たちと暮らしているのだろうと俺は思っていたのだ。

 思い込んで、いたのだが。

 グラスとレモンティーを持ってきた彼女は俺の正面に正座するように座って、手にしていたそれらをテーブルの上に置いた。

 

「私たちはとある施設に捨てられました。児童養護施設・天野園——施設の子供たちは、天野孤児院とか天野の家って呼んでたかしら」

「天野……」

 

 彼女たちと同じ名前。その施設に由来して、ふたりは天野という名字を与えられたのだろうか。

 

「その孤児院はもう経営不振で閉鎖しちゃってるんですけどね。表向きは」

「え、それは……」

 

 それは——それはおかしい。

 仮に経営が傾いて廃院になったとして、そこで保護していた子供をそのまま放り出していいわけがない。そういう場合は別の施設に移すことになっているはずだ。

 だというのに、どうしてふたりは自活なんてしているのだろう。

 そんな疑問が表情に出てしまっていたのか、そうですね、と彼女は事もなげに頷きつつ、レモンティーを注いだグラスをこちらに差し出す。

 

「引き取られなかったんですよ、私たちは。誰にも、どこにもね」

「…………」

「見るからに外国人で、そのうえ双子ですからね。かなり渋られたんですよ」

「……、……」

 

 そんな無責任な話があってもいいのだろうか。俺は用意してもらったドリンクに手をつける気にもなれず、それをただ見つめることしかできなかった。

 

「まあ、当時はもう受験生でしたしね。高校からは院を出ることにしたんです。今はアルバイトと、奨学金みたいな制度をいくつか受けさせてもらって……あとは、後見人のような人のおかげで普通に暮らせてます。貴方が今着てるその服も、そのかたの私物なんですよ」

 

 そう言われて、反射的に自分の身体を見下ろす。少しサイズの大きいネイビーブルーのシャツとパンツ、……ということは、あの傘や弁当箱なんかも、その保護者代わりだという人のものなのだろう。

 

「バイトって?」

「あれです」

 

 と、彼女は部屋の片隅にあるデスクとチェアを指差した。床に座っているので俺の位置からはよく見えなかったけれど、どうやらその上にはノートパソコンが置かれているらしい——なるほど、在宅ワークか。

 

「ほら、私たちってこんな見た目ですから。どうしても面接受けが悪くって。ひどいときは履歴書の写真で落とされたこともありましたし」

「それで在宅ね……仕事はどんな?」

「基本的にデータ入力系ですね。時々コードを書かせていただくこともありますけれど」

 

 新聞奨学生とかじゃなくてよかったと少し安堵したけれど、とはいえ同時に、土方の仕事もしているのかという憂慮も覚えた。

 

「…………」

 

 訊いてみたはいいものの、実のところ特別興味があるわけではない。今までのやり取りはこの状況に順応するため……言うならば俺の気持ちのコンディションを整えるためのものでしかなくて、意味なんてほとんどないに等しい。それでもとりあえずは功を奏してくれたみたいで、俺はようやくメンタルに余裕が出てきたところだった。

 けれど——

 

「そんなことはどうでもいいかしら?」

 

 突然——天野零は、そんなことを言った。

 眉根を読んだかのようなその言葉に、俺はとっさに反応することができなくて思わず動きを止める。そんなこちらの心中に気付いているのか気付かないでなのか、彼女は上品な仕草でレモンティーに口をつけていた。

 ややあって、それを再びテーブルに置き直す。そして彼女はこちらを——あの、人を見透かすような瞳で、こちらを見つめてきた。

 

「そろそろ本題に入りましょうか。さて、何から知りたいですか?」

「……話があるって言ったのは君のほうだ」

「ええ。言いたいことはあります。けれど、貴方にはそれ以上に訊きたいことがあるんじゃないかと思って」

 

 先攻はお譲りします、と彼女は微笑する。態度は恭しいそれではあるものの、丁寧過ぎてかえって胡散臭く感じてしまう。気のせいかもしれないけれど。

 彼女に訊きたいこと——本当に知りたかった、一抹の懸念。

 そんなもの、問われるまでもなく、あるに決まっている。

 それを解消するために、俺は天野零の誘いに応じることを選んだのだから。

 

「あいつは……天野は、いったい何なんだ」

「私も天野ですけれど」

「唯のほうだよ。君の妹の話だ」

 

 そんなこと、言われなくてもわかっているだろうに。

 

「なに、とは?」

 

 そう言って、彼女は小首をかしげる。唯が同じことをしたらあどけなく映るだろうその仕草も、同じ顔の姉がするとなんとなく理知的に見えるから不思議だ。

 

「…………」

 

 天野唯は、天真爛漫な少女だ。それはいっそ天衣無縫とさえ言い換えられるほどに。

 けれどそれは、まるで木に竹でも接いだかのように、あまりに異常な形での無邪気さなのだ。

 傷つけられても気がつかない、穢されても気がつけない——他人の悪意を、悪意として認識することができない。そんな無垢さがはたしてありえるものか。

 結局のところ、あの少女は最後まで、自分が竹河に何をされていたのかを理解していなかった。

 あの男については、この姉は何も知らないのだろう。竹河が唯にしてきたことをもしも知っていたら、とっくに学校なり警察なりに相談して彼女は助けられていたはずだ——そう判断して、あえて竹河の名前を伏せて俺は話したのだが、やはりと言うべきなのか、妹が殴られた件に関してはさすがに把握していたのだろう。ああ、あれですか、と彼女は呟いて、

 

「そもそも前提が間違ってるんですよ」

 

 と、何気ない風にそう続けた。

 

「前提って?」

「あの子は他人の悪意を認識できてないんじゃなくて、自分に都合の悪いことを認識してないだけなんです」

 

 彼女は淡々とした口調でそう言った。

 認識できないのではなく、認識していない。

 そのふたつはどう異なっているのか。どんな真意を、いったいそこに孕んでいるのだろう。

 

「例えば、そうね……、……火宮さんは、ユイと初めて会ったときのことを憶えてますか?」

「初めて会ったとき——木から落ちてきたのを助けたときの話かな」

「…………」

 

 そう答えると、何故か返ってきたのは沈黙だけだった。心なしか、彼女の目つきも剣呑なものに変わっているような気さえする。

 その無反応さの意味がわからなくて、どうした? と問いかけてみると、

 

「いえ、なんでもないわ」

 

 と、彼女は普通にそう返答する。

 先ほど鋭く見えたような気がした視線も、どうやら俺の思い過ごしだったようだ。

 

「あの子はその理由を、木から降りられなくなった仔猫を助けようとしたから……と、言ってたでしょう?」

「そうだね。枝から足を踏み外したって」

「火宮さんは、その仔猫を見ましたか?」

「え?」

 

 予想もしていなかったその質問に、俺は思わず呆気にとられてしまった。

 仔猫? 仔猫を見たか、だって……?

 五秒ほど黙り込んで記憶を探ってみる。けれど、その中のどこにも——

 

「見てないでしょう?」

 

 俺の答えを予想していたかのように、彼女はそう言った。

 そうだ。俺は猫を見ていない。落下に合わせて舞い広がる金髪も、馬鹿みたいに鮮やかな青空も、衝突したときの痛みまではっきりと憶えているのに……猫だけは、見た覚えがない。

 おかしい。だって、あのときは仔猫を助け出そうとしていたのだと、唯本人が言っていた。それならば落ちてきた際に腕にでも抱きかかえているはずである。仮に救出に失敗した結果で足を踏み外したのだとしても、いまだ木から降りられないでいる猫を彼女が放置するわけがない。

 矛盾、している。

 

「見てなくても不思議じゃないわ。だって——仔猫なんて、最初からいなかったんだもの」

「は……?」

 

 一瞬、思考が止まる。

 仔猫は最初からいなかった……いや確かに、そうだとしたら納得はできるだろう。生じていた矛盾は解消されるし、辻褄だって合う。

 けれど。

 

「唯が、嘘をついた……?」

 

 もしも彼女の言う通りなのだとしたら、仔猫を助けたという唯の言葉は嘘だってことになってしまう。そんな虚言に、はたしてどんな意味があるのだろう。

 そのような嘘をつくことで、あいつにどんなメリットがあるというのだろうか。

 

「結果的には嘘をついたことになるんでしょうけれど、あの子に嘘をついた自覚はありませんよ」

 

 にわかに当惑し始める俺に構うこともなく——それを許す暇すら与えずに、ようするに、と彼女は話を先へと進めた。

 

「先日の件も同じです。人に殴られた、けれど自分は悪いことをしてないのだから殴られる理由がない、つまり自分は殴られてなんてない——わかりやすい三段論法でしょう?」

「いや、そんな……」

「『そんなわけがない』?」

 

 天野零は、またしても俺の言葉を先回りする。

 

「ええ、そうね、その通り。そんなわけがない。そんな馬鹿な話あるはずがないわ。大前提として殴られてるのに、小前提で矛盾が発生するからといって、大前提を否定するような結論を導き出す……そんな三段論法がありえると思う?」

 

 彼女は、まるで答えの決まりきったことをあえて訊くかのような意地の悪い口調でそう言うと、ゆっくりと微笑を浮かべる。なんとなく、嫌な感じのする笑い方だと思った。

 ……そのような三段論法がありえるのか、だって?

 そんなもの、わざわざ答える必要がないほどに明白じゃないか。

 

「じゃあ、ね、火宮さん。考えてみてください。ユイは空から落ちた、けれど自分にはそんな高い場所から落ちる理由がない、ゆえに——」

「ゆえに、きっと自分は仔猫を助けようとしたのだろう……?」

 

 今度は俺のほうが彼女の言葉を先回りする番だった——けれど、そこまで言われれば予測するまでもなく察しがつく。

 誤った三段論法。

 間違っている因果関係。

 人の記憶なんて案外あやふやで、信憑性のないものだという。曖昧な部分の記憶に誤った情報が上書きされたり、前後の記憶から連想して現実には起きていない出来事を実際に起きていたかのように思い込んでいたり——だからこそ、世の中には記憶違いなんて言葉があるのだ。

 自分の心を守るために、過去に受けた痛みを忘れようとしたり、なかったことにしたい記憶から目を逸らしたりすることだってあるだろう。

 その一環で、過去の記憶を自分の都合がいいようにすり替えることも、ままあることなのだそうだ。

 けれど。

 

「でも、いったい何がどう都合が悪いんだよ。猫のことはよくわからないけど、殴られたことに関しては、唯は被害者じゃないか」

「そうですね……これは例えばの話ですけれど、火宮さん、貴方は幸福をどう定義しますか?」

 

 いきなりそんなことを訊かれて、俺は答えに詰まる。

 

「ああいえ、別に深く考えてくれなくてもいいんですよ。哲学的な意図なんて皆無です。ただ単に、あの子は幸せの定義を『不幸がないこと』だと思っているのかもしれないってだけの話なので」

「……不幸が、ない」

 

 それは、その通りなのだろうと思う。

 幸せの定義は思想的にも宗教的にも哲学的にも色々とあるのだろうけれど、言葉の意味だけを見れば、幸福の対義語である不幸がないことだと言えるのかもしれない。

 誰だって、痛い思いや嫌な思いはしたくないはずだ。

 つまり、だからこそ唯は、竹河に殴られたことを無意識のうちになかったことにしようとしたっていうのか……?

 

「まあ、しょせんあの子に訊いてみたところで『みんなが幸せだとわたしも幸せ』って言うでしょうけれど」

 

 相対的幸福と絶対的幸福がイコールって、もう最強よね。彼女はそう言った。妹に向ける言葉とは到底思えないほどに嫌味を込めた口調である。

 もしかして、姉妹仲がよくないのだろうか。けれど『あの子』なんて呼び方をするのは、ニュアンスとしてはむしろ親しげに感じられるのだが。

 

「けれどね、火宮さん。貴方、あの子が幸せに見えます?」

「…………」

「いつもいつでも無邪気ににこにこ笑っていて、幸せそうには見えるでしょう。けれど——幸福であるとは思えないんじゃないですか?」

 

 幸せそうに見えることと、幸福であると思うこと。このふたつは決定的に異なっている。

 自分が傷ついていることや、受けた痛みにも気付けないまま天真爛漫に笑っているその姿は、傍から見ればただ痛々しいだけだ。

 見ていられないほどに、その笑顔は痛ましい。

 

「不純物を取り除いて純度を高めようとするみたいに、人生から痛いことや嫌なことをなかったことにしていけば、最後に残るのは幸福だけのはず——きっとあの子は、それが『幸せ』だと信じ込んでしまってるのね」

「………………」

「まあ極論、不幸を不幸だと認識すらできなければ確かに本人は幸せなのでしょうし、間違ってるとは言いませんけれど」

 

 ……いや。

 それは、間違っている。

 不幸を不幸だと認識できないのは、もっとも不幸せなことだ。

 山あり谷ありだとか、楽あれば苦ありだとか、そんな諺を使えば安直に言語化できるのだろうけれど、そんな風にチープな言葉で単純化するのはあまり気が乗らない。

 不幸を知らないということは、本当の幸せさえ正しく認識できないのと同じことだ。

 ソクラテスともまた違う話だけれど……自分が不幸であると認識できることの幸せも、この世界にはきっとあるはずなのだから。

 

「何がどうなって、唯はそんな風になったんだよ……」

「…………」

「……? どうした?」

 

 ふと、彼女がまたしても黙り込んでしまったのが気になって、俺はそんな風に問いかけてみたのだが、

 

「…………、いえ」

 

 なんでもないわ、と天野零はやはりそう答えるだけだった。なんでもなくなさそうな、露骨に含みのありそうな言い方だったけれど、そう返されてしまうとそれ以上の追及はしにくくなる。

 ただ、それでもなんとなく……ついさっきまで浮かべていた、人のことを見透かすような微笑みがそこにはなくなっていて、どこか真意の読めない瞳でこちらを見つめているように思えた。

 

「こういう言い方はまるで言い訳のように思われるかもしれませんけれど、境遇のせい、という回答がやはり適当だと思います」

 

 しばらくの沈黙のあと、彼女はそう言った。

 言い訳、というその単語に、なるほどと俺は思った。どうやら彼女は自己を正当化するようなことを口にするのがあまり気乗りしないタイプらしい。

 環境のせいにするのもそう悪いことではないと、個人的には少し思うけれど。

 

「境遇っていうのは……捨てられたこととか、施設で育ったことだったりとか?」

「それは勿論、その通りではあるのですけれど、理由としては半分でしょうね」

「半分?」

「いえ、半分というのは少々言い過ぎだったかもしれません。世の中には似たような身の上でも私たちのように歪まなかった人もいるでしょうし」

 

 不意に、彼女はかしこまったようにあらためて居住まいを正す——そして。

 

「天野の家では虐待が行われてたわ」

 

 と。

 はっきりとした口調で、天野零はそう言った。

 

「日常的に、職員から子供たちへ暴力が振るわれてました。肉体的にも、精神的にも。中にはセクハラ紛いの行為を受けていた子もいたそうです。まさに悪夢のような場所でした」

「…………」

「これは被虐待児童に共通する傾向だそうですけれど、最初はみんな自分たちなりに自衛しようとするらしいんですよ。……大人たちに気に入られるよう、いい子になろうとするってことですね。でも、そういう子たちって何しても抵抗しないから、大人からしてみればむしろ都合がいいんです」

「………………」

「虐待をするような大人からしてみれば、という前提での話ですけれど。……とはいえ、まあ、天野の家は実際そうでしたし、私たちもおおむねそんな感じでしたね」

 

 表向きには経営不振で廃院したということになっていますけれど、おそらくは虐待行為が表沙汰になったのでしょう。淡々とした口調で語っていた彼女は最後にそう締めくくると、レモンティーの入っているグラスを再び手に取って、静かに喉を潤し始めた。

 現実問題。そういった施設の中で虐待行為が行われた場合はその職員の解雇や逮捕、あるいは施設に対して注意喚起や改善勧告が下される程度だと聞く。だというのに閉鎖したとなると……それは、よほどのことだったのだろう。

 一部の職員によって行われていた虐待というわけではなく——施設ぐるみで虐待が行われていた、ということなのだろうか。

 閉塞的で、外界とか隔離された空間で振るわれる、大人たちからの暴力行為。そんな環境、まさしく悪夢でしかない。子供たちが大人に媚を売ろうとするのも当然だろう。

 境遇と……そして、そういった環境が原因だってことか。

 

「大人に従順な『いい子』を大量生産する工場みたいだって誰かが言ってましたね。正鵠を射るかのような、的確な表現だと思います。それを言ったのは——ああ、そういえばあの子だったかしら……」

「…………?」

 

 手慰みのようにグラスを揺らしながら、彼女はまるで独り言のようにそう呟いた。

 最後に小さく零した『あの子』というのが、これまでのように唯ではなく、誰か別の第三者を差しているように聞こえて、俺は思わず首をかしげる。けれどそれについては本当にただの独り言だったようで、こちらの話です、と彼女は言った。

 

「つまり、その大量生産された結果が今の唯だって?」

「その例を続けるのであれば、ユイは欠陥製品ということになりますね」

「欠陥?」

「あの子は確かに従順ではあったけれど、素直でこそあったけれど——痛みや苦しみを認識できない時点で、人としてはどうしようもなく出来損ないじゃないですか」

 

 その言葉は、姉が実の妹に向けるにしては、やはりひどく辛辣なものだった。

 彼女の妹に対する痛烈な言動は、もしかしたら姉妹仲の良し悪しとは関係なく、むしろ姉だからこそのものなのだろうか——そんなことを頭の片隅で考えつつ、そちらに割いていないほうの思考で、俺は先日交わした羽鳥との会話を回想していた。

 

「天野ちゃんですか? そうですね……、……ロボットみたいな子だと、俺はそう思いますね」

 

 普段の羽鳥茜は軽薄な振る舞いの目立つ男だ。けれどそのときの彼はらしくもなく、まるで言葉に迷っているかのような曖昧な態度で、同級生の少女のことをそんな風に語ったのである。

 

「天野ちゃんはいい子ですよ。ええ、本当に優しい、いい子なんです。クラスメイトからパシリみたいな扱いを受けても嫌な顔ひとつもしないで、いつもにこにこ笑ってるくらいには」

 

 そう話す羽鳥の顔も笑っている。ただ、それは眉間に皺をわずかに寄せた、困ったような愛想笑いだった。

 

「でも、でもね遥さん——俺にはどうしたって、彼女が同じ人間とは思えないんですよ」

 

 やはりどこか浮かない笑みを浮かべて、彼は最後にそう言った——結局最後まで、羽鳥は一貫してその曖昧な口調と態度を崩すことはなかった。

 そのときは、どうしてあいつがそんな風に言葉を慎重に選んでいたのかわかりかねたが、今ならある程度推察できる。

 受けた痛みや傷に関するログをメモリ内から削除して、自分の都合のいいデータで上書き保存し、本人はまるで組み込まれたプログラムに則って行動しているかのように素直で柔順に振る舞う——人としてあまりにも致命的と言えるその歪みは、まさしくロボットのようだ。

 羽鳥が躊躇していたのも今なら納得できる。同級生の少女を自分と同じ人間と思えないなんて……どころか機械扱いまでしてしまうなんて、彼なら引け目を感じてしまって当然だ。あいつは、そういう男だから。

 けれど、それが一番、天野唯のことを簡潔に言語化できてしまうからこそ、羽鳥は気が咎めるような思いをしながらもそれを口にしたのだ。

 ロボットみたいだ、と。

 その通りなのかもしれないと俺も思う。

 彼女は——まるで、空っぽだ。

 

「あの子はね、欠けてるんですよ」

 

 と、姉である天野零はそう言った。

 

「欠陥、欠落、欠如……まあ、なんだって構いませんけれど。人にとって大切なものが、ユイには致命的に欠けてしまってるんです」

「…………」

 

 俺の知っている唯は、いつも楽しそうにはしゃいで、笑っていた。

 けれどそれは本当に楽しんでいたわけじゃなくて……ただ単に、痛みや悲しみをなかったことにしていたからだと、つまりはそういうことなのだろうか。

 マイナスの感情が、欠けてしまっている。

 自分の不幸さえ認識できないほどに。

 

「壊れたものは直せばいいけれど……欠けたものは、もうどうしようもないわ」

 

 彼女は嘆息混じりにそう呟く。その声音は、先ほどにも見せたような妹に向けるにしては厳しいもの——ではなく、どこかやり切れなさを感じさせる諦観を内包したものだった。

 やはり、情はあるのだろう。

 それでもなお、どうしようもないと達観したように妹のことを語る彼女。……その通り、ではあるのかもしれない。痛みや苦しみを正しく認識できないなんて、そんな存在をはたして人と呼んでいいのだろうか。

 天野零は欠陥製品と呼称した。羽鳥茜はロボットだと呼称した。

 俺は——俺は、無垢であることを極めた唯のことを、まるで天使みたいだと思う。

 ひどくいびつな形で成り立ってはいるものの、そのあり方は間違いなく、無垢であることのハイエンドなのだから。

 

「…………」

 

 だけど。

 そうだとしても。

 

「……欠けてるのなら、誰かが補えばいい」

 

 俺は半ば無意識のうちに、そんな言葉を漏らしていた。

 ああ、そうだ。欠陥製品だろうとロボットだろうと天使だろうと、だからどうだって言うんだ。

 雄助の絵を見て目を輝かせていた。レモン味の飴を貰って幸せそうに顔をほころばせていた。美術室に来てもいいと許されたときには満面の笑みを浮かべていた。まだつぼみにすらなっていない向日葵に眩しい笑顔を見せていた。大好きな龍崎と会ったときには恥ずかしそうに俺の背中に隠れていたし、あんずにCDを貸してもらったときには本当にうれしそうにはしゃいでいた。

 たとえ本当に、何かが欠けてしまっているとしても、あいつはいつだって楽しそうに笑っていたじゃないか。

 あの笑顔は本物だ。それを人間じゃないなんて、そんな否定を俺はしたくない。

 唯は——空っぽなんかじゃない。

 彼女がいびつさを抱えている点は、確かに否定できない。けれど、それなら誰かが補ってやればいいだけの話なんだ。

 

「ええ。そのために私がいるのよ」

 

 と。天野零は、はっきりとそう言った。

 さながら宣誓するかのように。

 

「事実、天野の家ではそういう子たちが多くいましたね。補い合いなんて高尚なものではないにせよ、誰かの存在に自分の価値を見出したり、自分の決定権を他人に委ねることで思考を放棄したり……虐待という現実から逃避するために、兄弟や友人に依存する子ばかりでした」

「……唯も、君に依存してたのかな」

「まあ、そうなりますね」

 

 こちらの質問に頷きながら、彼女は再度レモンティーに手を伸ばした。延々と話し続けてきてさすがに喉が渇いてきたころだったので、俺も同じようにグラスを手に取って口へと運ぶ。少しぬるくなっていた。

 

「あの地獄において、自分の心を守るためにはそれしかなかったのかもしれません」

「…………」

「まともな精神を保ってた子もゼロではありませんでしたよ。たったふたりですけれど」

 

 そう語る天野零がそのうちのひとりだとして、もうひとりは誰なのだろう。少し気にはなったものの、訊いてみたところで俺には縁もゆかりもない人物だろうからやめておくことにした。

 しかしまあ、なんというか、あれだな……既にけっこうな時間が経っているというのに、盛り上がるようなトークがひとつもなかったな。

 勿論、後輩女子の自宅にお邪魔させてもらうからといってテンションを上げるほど俺は単細胞じゃないし、きっと楽しい雑談なんかにはならないだろうということもあらかじめ承知の上で俺はここに来たのだけれど。

 ……そうだ。本当なら彼女の誘いを断ったってよかったところを、俺はこうして、姉に招かれるままこの部屋にやって来たのだ。

 どうしても、訊いておきたいことがあったから。

 

「……あのさ」

「はい」

「俺たちは、過去に会ってたのかな」

 

 そこはかとなく鎌をかけるような言い方になってしまったことを自覚しつつ、俺はそう問いかけた。

 

「…………」

 

 彼女は押し黙った。俺も口をつぐんで、続けられる答えをただ待つ。そうすると、外で降っている雨音のノイズだけが室内を満たしていくかのような、そんな奇妙な沈黙に包まれていくかのように感じた。

 頭痛が、ずきずきと脈打つようにまた鈍く疼き始める。

 無言のまま、俺はポーカーフェイスを崩さないようにしてそれをじっと耐える。そうしていると、やがて彼女はおもむろに口を開いた。

 

「それを訊くということは、やはり貴方は憶えてないんですね?」

「……それは肯定と受け取っていいんだね」

「質問に答えてください」

「先に訊いたのは俺だよ」

「そうでした」

 

 悪びれた様子もなく彼女は肩をすくめて、そして続ける。

 

「十年前の夏のことですよ。貴方とユイが出会ったのは」

「……君は?」

「私はそのときいなかったので。でも火宮さんの話はあの子から聞いてましたよ」

「…………」

 

 ということはつまり、少なくとも俺がこの姉と対面したのは本当に今日が初めてなのか。

 そして妹——唯と出会ったのは、十年前。

 十年前の夏。俺はまだ七歳で、小学二年生だったから、天野姉妹は学年がひとつ下の一年生になるはずだ。彼女たちが暮らしていた施設が廃院したのが受験期……二年前の中学三年生のときのことだとすると、当時はまだそこで生活していたことになる。

 小学二年生の、夏。十年一昔という諺の通り、十年前のことなんてもう遠い昔のことのように思えてしまう。

 はたして、本当に俺は金髪の少女と出会っていたのだろうか。

 

「ユイがレモンを好きになったのも、向日葵を好きになったのも……全部、貴方がきっかけなんですよ」

「…………」

「貴方は忘れてるみたいだけれど、私たちは——私は、忘れてないわ」

 

 グラスを指先でもてあそびつつ、彼女はそう言った。

 俺は顔を上げて、カーテンの向日葵柄を視界に入れるようにしながら、唯のことを思い浮かべる。

 レモン味がいいと笑っていた彼女。向日葵が大好きだと笑っていた彼女。

 そのすべて——俺がきっかけだというのか。

 

「インプリンティングという言葉をご存知ですか? 日本語では刷り込みとも言いますが、そちらのほうがわかりやすいかしら」

「ああ、えっと……卵から生まれたばかりの雛は、最初に目にしたものを親と勘違いするって話だっけ?」

「ユイにとっては、貴方がそれなんですよ」

 

・・・・・

・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・

 そう言って、彼女は微笑む。

 

「貴方はあの子にとってかけがえのない唯一。並ぶものなき無二の存在。嗜好まで影響されてるのだから、親というよりはまさに神様みたいよね」

「…………」

「天野唯は火宮遥を信仰してるんですよ。裏切られれば信用は損なわれるでしょう。期待外れなら信頼は失われるでしょう。けれど、信仰……この信仰心というものは、滅多なことでは捨てられません」

「………………」

「そうだ、機会があればユイに死ねと命令してみてくださいな。神たる貴方の命令ですもの、きっと笑って死んでくれると思いますよ。…………あら嫌だ、そんなに怖い顔をなさらないで。ほんの冗談じゃないですか」

 

 私だって大切な妹を失いたくはないもの。何がおかしいのか、天野零はそう言うと、目を細めながら含むように笑う。それはどこか大人びた彼女らしい、控えめに慎むような笑い方だったけれど、何かしらのトリガーでも引かれたらすぐにも声を上げて笑い出しそうな様子だった。

 冗談では済まないし、笑い事でもない。喉まで出かかったそんな言葉を、俺はすんでのところで飲み込む。

 今のはきっと、姉妹特有の距離感だからこそ言えるブラックジョークなのだろう。心の中でそう自分に言い聞かせて、俺はいつも通りの笑顔を作る。

 

「十年前に、俺は彼女に何をしたのかな。そこまでの好意を寄せてもらうようなことをした覚えはないんだけど」

「さあ、そこまでは…‥」

 

 俺の質問に、天野零は首をかしげた。心当たりはないとでも言いたげな仕草だったけれど、どことなく人の悪い笑みを浮かべているので、もしかしたら知っていてとぼけているのかもしれない。

 ……薄々察しはついていたものの、どうやら彼女、けっこうサディスティックな性格をしているらしい。

 まあ、いいか。訊いておきたかったことは大体訊けたし。正直なところ、雰囲気がなんとなく雪村と似ている彼女がこちらの質問に素直に答えてくれるかは微妙だと思っていたのだ。ここまで語ってくれただけで十分だろう。

 むしろ、回りくどいやり取りが少ない分、雪村よりまだ会話がしやすい気も……いや、そんなことはないか。

 この少女に比べたら、まだ彼女のほうが距離感を読みやすい。

 

「…………」

 

 会話が一応の区切りを見せたので、俺はもう一度グラスに手を伸ばしてぬるくなったレモンティーを口に含む。

 そういえば……と、思う。

 結局、唯はどうして木から落ちてきたのだろう。

 仔猫を助けようとしていたわけではない、という話はもう聞いたけれど、そもそも彼女はどうして木の上に登っていたのかという点を、俺はまだ教えてもらっていなかった。

 グラスをテーブルに戻しつつそのことを天野零に訊いてみると、ああ、あれですね、と姉はなんでもないことのように答える。

 

「あれはただの自殺ですよ」

「…………は?」

「屋上から飛び降りただけのことです」

 

 あっさりと投げられたその言葉に、一瞬、思考がフリーズした。

 

「じ、自殺って……」

「いえ、それほど不思議なことではないでしょう? 男の人に無体を強いられて、穢されてしまったのだから。世を儚んで身を投げたとしてもおかしな話ではないじゃないですか」

 

 ……………………。

 ————え?

 

「あの子は痛みに気付けないだけで、傷つかないわけじゃありませんから」

「……お前は」

「ただ、その傷はユイがユイであるためにはどうにも都合が悪いみたいで。……だからきっと、あの子はなかったことにしたんでしょうね」

「お前は!」

 

 平坦に、淡々と語られるその真実に耐えかねて、俺はその場で声を荒げる。化けの皮が剝がれることさえお構いなしに。ポーカーフェイスが崩れることすら顧みずに——そんな小さなことを気に留めるような心の余裕なんてなかった。

 冷静であることを保てなくて、年下の少女を、怒鳴りつけてしまう。

 

「……最初から、全部知ってたのか」

「ええ。私はユイの姉だもの。あの子についてのことなら、大概のことは把握してますよ」

 

 竹河さんの件ですよね、と。やはり平然とした口調のまま、彼女はそう続けたのだった。

 天野零は、何も知らないと思っていた。知らず知らずのうちに、俺はそう判断してしまっていた。

 もしも知っていたのだとすれば、唯はとっくに助けられていたはずだと考えたからだ——その判断が間違いだった。

 この姉は、妹がされてきたことを全部把握していて、唯が自ら身を投げるほどに追いつめられていたことも把握していて、彼女をそこまで追い込んでいた男の名前すら把握していたというのに、何もしてこなかったのだ。

 何故、こんなにも平然とできるのだろうか。

 

「どうして……どうして、あいつを助けてやらなかったんだ!」

「ユイが望まなかったからよ」

 

 即答されて、俺は、自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。

 この少女は……何を言っているのだろう。

 

「ユイが私に依存してるように、私という存在もユイに依存してるのよ。あの子が望んだから生まれて、あの子が望むままに振る舞って、あの子が望んだら消える——それが、天野零という現象の定義なのよ」

 

 そう言って、くすりと笑う彼女。

 俺は、言葉が出てこなかった。

 言いたいことはたくさんあるような気がするのに、露いささかも言語化できそうになかった。言葉が見つからない。言葉で言い表せない——感情と思考の速度に言語中枢がついていけなくて、唇から漏れるのは吐息だけだった。

 そんな俺を歯牙にかけることもなく、彼女は続ける。

 

「私たちはひとりでふたり。ふたりでひとり。これは二倍じゃくて二分の一という意味。欠けたもの同士で補い合って、私たちはようやくひとつになれるのよ」

「…………」

「零と唯は足したところで一だものね」

「……その式はおかしいだろ」

 

 思考の再起動を終えて、ようやく言葉にできたのはそんな台詞だった。

 情けない声をしていたのが、自分でもよくわかる。

 

「ええ、そうなの。おかしいのよ、私たち」

 

 天野零は、そこで初めて本当に楽しそうに、年齢相応の少女らしい微笑を浮かべた。

 その笑顔は彼女の妹が浮かべるそれとよく似ていて、やはり双子なんだなと思うと同時に——心から楽しげにそんなことを言う少女に、俺は少し寒気を覚えた。

 

「それに、私に怒るのは、少し筋が合っていないんですよね。……私だって被害者なのだから」

「……え?」

「私もとっくに穢されてます」

 

 彼女は静かにそう言って、つい先ほどまで浮かべていた笑みを消した。

 

「二年は、唯だけだって……」

「どこ情報だか知りませんけれど、まあ、ユイひとりだと思われても仕方ありませんね。竹河さん、最後まで私とあの子の区別がついてなかったみたいですから」

 

 神妙な面持ちで、意図的に感情を殺しているかのように淡々と言葉を繋ぐ天野零——纏っている雰囲気が、先刻までとはどこか違っているように感じた。

 ……彼女が竹河のことを知っていたのは、妹と関係があったからというだけではなく、彼女自身があの男と関わりがあったからということか。

 

「タイミングの問題があるからさすがに全部は不可能でしたけれど、代われるときには私が代わってあげてました。あの子が傷つかないで済むのなら、それが一番ですから」

「……そうか」

「まあ、どちらにしても同じことなのだけれど」

 

 なんの感情も滲ませないまま、彼女は平坦な口調でそう締めた。

 どちらにしても同じこと。それはきっと、その通りなのだろう。妹が傷つかない代わりに姉が傷ついて、姉が代われないときには妹が傷つく……どちらにせよ傷つけられてしまうという事実は変わらなくて、そこに差なんてありはしない。

 自分たちは共依存関係なのだと、彼女ははっきりと言い切っていた。妹の欠陥を補うために自分はいると語る姉。妹が望むままに振る舞うのだと話す姉——ふたりそろってようやく一人前の双子。そんな彼女たちなら、片割れが傷つくことは自分が傷つけられるのと同じ意味合いをもつはずだ。

 代理を務められるからといって、代替が利くわけではない。

 俺はうつむいて、テーブルの上のグラスに視線を落とす。そして、彼女の言う通りだ、と思った。知らなかったとはいえ、俺は被害者である少女を怒鳴りつけて、まったく見当外れな責め方をしてしまったのである。

 あまりにも不用意な行動だった。恥ずかしさと歯痒さの感情が入り混じって、黙って唇を噛み締めることしかできない——と。

 そのとき、ふと、目の前に影が落とされた。

 

「ねえ、火宮さん」

 

 その声に思わず顔を上げると、テーブルを挟んで真向かいにいたはずの彼女がいつの間にかすぐそばにまで来ていて、天井の蛍光灯を背にするようにして立っていた。

 彼女の背後から光が差しているので、表情がよく読み取れない。

 

「私たち、親に捨てられたって、言ったわよね」

「言ってた、けど……」

「どうして捨てられたのかしらね」

 

 言いながら、彼女はその場にしゃがみ込む。雨に濡れてもなお輝きを失わない金髪が、その動きに合わせるように黒のワンピースへと流れ落ちていく様が視界に入った。

 おもむろに切り出された話題は、先ほどまでのやり取りからはあまり脈絡がないように思えた。表情をうかがおうにも、膝に顔をうずめているのでそれも敵わない。にわかに戸惑いを覚えつつ、ひとまず俺は彼女に調子を合わせようとする。

 

「いえ、ね……捨てた理由自体は、なんとなく察せるのよ。外人の子だもの。色々と面倒だったんでしょうね」

「…………」

「でもね、どうしても考えてしまうのよ——どうして私たちを産んだのかしらって」

 

 どうせ育てきれずに、いつか捨てることになるのに。

 彼女はそう呟いた。

 

「快楽とエゴの果てに、愛を求めてしまったのかしら。子供を産めば愛してもらえるなんて、あまりにも女々しすぎて、きっと女の腐ったような人だったのでしょうね。……見知らぬ他人だから、全部憶測なのだけれど」

「………………」

「でも、快楽とエゴの果てに生まれた私たちが、快楽とエゴの犠牲になるっていうのは、あまりにも皮肉な話だわ」

 

 その言葉を耳にして、俺はようやく、彼女は竹河のことを言っているのだと気がついた。

 脈絡がないなんてことはなかった。天野零は明白な意図をもってあの男のことを——あの男から受けた傷を、語っている。

 これまでのように嫌味を込めているわけではなく、皮肉を含ませているというわけでもなく……体温を一切帯びない、平坦な声のままで。

 先ほどまでとは異なる、今の彼女の異様な態度に説明がついたような気がした。天野姉妹の出自を思えば、あの男から受けた行為は通常以上に重い痛みを伴っているはずだ。

 到底……なかったことになんてできないほどに。

 俺はなんと言葉をかけたらいいのかわからなくて、結局、何も言えないままだった。

 そうしているうちに、彼女はこちらの袖口をつかんできた。借り物の、ネイビーブルーのシャツの袖を、控えめに。

 

「もしも私のことを少しでも可哀想だと思ってくれるのなら、お願いだから、慰めて」

「……え?」

「慰めて、癒やして——全部、上書きして頂戴」

 

 言うやいなや、彼女はしゃがみ込んだ体勢を崩したかと思うと、うつむいたままこちらへとしなだれかかってくる。俺は反射的に後ろへ退こうとしたのだが、あぐらをかいたままだったのでもたついてしまい、勢い余ってテーブルに足をぶつけてしまった。

 机が大きく揺れて、グラスが倒れた。わずかに残っていた中身が零れて天板の上に広がっていく。

 けれど、そんなことに構う余裕はなく——思わず受け止めた彼女の身体に、俺の視線は釘付けになっていた。

 いつだったか唯の肩を抱き寄せたことがあったけれど、それとよく似た細い肩が自分にもたれかかっているのが服越しに伝わってくる。柔らかい温もりと、さらりと流れる金髪を腕に感じていた。

 不意の出来事に、数秒、俺は呆然としてしまっていたのだが——シトラスのような、甘く爽やかな香りが鼻をかすめたことで我に返り、彼女の両肩をつかんで、ほとんど乱暴といってもいい動作で押し返した。

 引き離した彼女は、そこでようやく顔を上げた。金色のまつ毛で縁取られた目と視線がぶつかる。驚いたように大きく見開かれた目からは今にも瞳が零れそうだったけれど、しかしそれも一瞬のことで、すぐさま寂しげに伏せられた。

 

「……汚れた女は嫌?」

「違う!」

 

 とっさに強い口調で否定しまって、俺は彼女から視線を逸らす。

 

「お前と、そういうことはできない」

「どうして?」

「……あいつへの裏切りになる」

 

 慎重に言葉を選びながら俺は言った。

 あえてその名前を口にはしなかったけれど、言うまでもなくわかりきっていることだろう——少なくとも、俺たちにとっては。

 事実、彼女は怪訝そうな反応を返すだけでその名を確認するようなことはしなかった。

 

「……貴方たち、恋仲じゃないんでしょう? なら火宮さんがユイを裏切ることにはならないわ」

「違う、そうじゃなくて……」

 

 目を合わせられないまま、俺は首を横に振る。

 

「俺は——あいつの信頼を裏切るのが、怖い」

「…………」

「自分の姉が俺とそういうことをしたって、あいつは軽蔑すらしないだろう。……でも、傷つきはする。お前が言ったんじゃないか。あいつは痛みに気付けないだけで、傷つかないわけじゃないって……そんな話を聞いて、あいつを裏切れるはずがない」

「…………、…………」

「それに、男に傷つけられたお前たちに同じことをして慰めるっていうのは、誠実じゃないと思うから」

 

 彼女の両肩をつかんだ状態で、訥々と続ける。そんな自分の声は相も変わらず頼りない響きがあったような気がするけれど、そんなことさえ気にしていられなかった。

 傷だらけで痛々しい微笑を浮かべるあいつなんて見たくない。誰かのせいで傷ついて、その痛みにすら気付けないあいつの姿なんて、もう見たくない。崇拝に近い信頼を俺に向けているというのであれば、なおのこと裏切ることなんてできない。

 もしも唯が、いつか本当に本当の笑顔を見せてくれるのなら……俺は、それでいい。

 それだけで構わないんだ。

 

「——ふふ」

 

 と。

 くすりと笑みを漏らす声が聞こえたような気がして、俺は顔を上げる——それとほとんど同時に、彼女はこちらから身体を離して立ち上がった。

 さっきまであったどこか神妙で寂しげな雰囲気が、今の彼女からはもう消えているように感じられて、俺はいぶかしく思う。

 

「あーあ、残念。折角ユイを傷つけられると思ったのに」

「————は?」

「それであの子が貴方を失望してくれれば御の字だったのにね」

 

 彼女はおどけるような口調でそう言った……それは冗談とも本気ともつかない言い方だったけれど、きっと本気だったのだろうと、どうしてか確信を得てしまうような口ぶりだった。

 仮に冗談だったとしても、道化が過ぎてまったく面白くない。

 笑うことなんて、できなかった。

 

「何を、言って……」

「ラブコメじみたくだらないプロローグはかくして閉幕——ここからは、アンチテーゼのお時間と洒落込みましょう?」

 

 無意識に零れ出た俺の問いに答える素振りも見せず、彼女は続けた。

 そういえば……と。

 今更ながらに、思い出す。

 確かに俺は、自分の意志でここまでやって来た。唯について訊きたいことがあったから、それを確かめるために招かれるまま彼女たちの自宅を訪れた。

 けれど。

 そもそも、俺に話があると言ったのは彼女のほうで、この部屋に俺を招いたのも彼女だ——だというのに、その用件をまだ聞いていない。

 核心に、俺はまだ触れていない。

 彼女の指先がこちらに伸ばされるのが視界に入る。俺は身動きひとつ取ることもできなくて、その手がシャツの胸倉をつかみ上げてくるのを、なすがまま受け入れることしかできなかった。

 

「ねえ、火宮さん。火宮、遥さん? 私ね、貴方にずっと言いたいことがあったのよ」

 

 あどけない少女のように楽しげに、けれど狡猾な大人のように冷たく——それでいながら、まるで忌々しいものを見るかのような、酷薄な微笑みを浮かべて。

 天野零は、こう言ったのだった。

 

「また会えて嬉しいわ、ゲス野郎——貴方のこと、死ぬほど大嫌いだったのよ」

ゼロ いち

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