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 六月六日、土曜日。古鷹高校は進学校というわけでもないのに週休二日制を採用しておらず、土曜日にも普通に午前授業がある。

 四限の授業が終了し、クラスメイトからの遊びの誘いも断った俺は、そのまま真っすぐに旧校舎へと向かった。

 いつもの旧一年D組——ではなく、初めて訪れることになる二年A組の教室へと。

 横開きの戸に手をかける。鍵はかかっていなかった。

 

「…………」

 

 扉を開く。土曜の授業は午前中だけなので現在時刻は昼過ぎだ。しかし今日も今日とて雨が降っている上に、窓のカーテンはすべて閉めきられている。正直、かなり薄暗い。

 やがて視界が暗順応を始める。すると教室の様子が、先ほどよりはっきりとつかめるようになってきた。

 少しほこりっぽくはあるものの、想像していたほどではない。それが一番初めに抱いた感想だった。その理由にもすぐに思い至って、本能的な不快感が込み上げてくる。

 黒板の前に立って、教室の内観を見渡す。事前に雄助から聞いていた通り、部屋の雰囲気はほかの教室ともほぼ変わらないように見えた。相違点は向かって左の隅に積まれている机と椅子の数がいくらか少ない程度だろうか。

 薄くほこりの積もった床板に、ふと視線が向く。ひとつの足跡が、薄っすらと、机の周りに散らばっていた。見るからに真新しい。おそらく机を移動させるときに残った足跡なのだろう。

 一応確認しておいてやるか、と教室の隅に向かおうとする——と。そこで、物音を聞いた。

 ぎし、ぎし、と古い床板を踏むような音。そしてその足音はこちらに近付いてくるにつれてだんだんと大きくなっていく。

 俺は振り返って、扉が開かれるのを待つ。さほど間もなくして、がらりと横開きの戸が開かれた。

 

「……やあ」

 

 先に声をかけたのは俺だった。

 

「——あァ?」

 

 扉を開けた男は、怪訝そうに首をかしげる。

 

「火宮のボンボンじゃねえか」

 

 眉間にくっきりと皺を寄せて、男——竹河勝之が、そこにいた。

 彼の背中にはふたりの男子生徒の姿も見える。竹河の取り巻きなのだろう。情報通りだ、と俺は唇を舌で湿らせる。

 しっかりとしたがたいをしている彼は、あんずと比べても遜色ないくらいに体格がいい。着崩した制服に腰穿きのスラックス。髪は赤みがかった褐色に染めていて、耳にはインダストリアルピアスを開けている——初めて会ったときにも思ったけれど、見るからにチンピラな外見をしている男である。

 生徒指導を担当している黒神先生は当然竹河にも注意喚起していたらしいのだが——もともとあの教師は服装や頭髪の規則違反には寛容派なので、指導内容は基本的に彼の素行に対してのものだったという——その結果は、まあ、見ての通りなのだろう。

 

「……オレらを呼び出したのはてめえか? 坊っちゃん」

「その通りだよ。来てくれてありがとう」

 

 俺は皮肉げな笑顔を作って、竹河と向かい合う。対して、彼は流すような目でこちらを見てくる。ポーカーフェイスを保とうとしている風だったけれど、さすがに少し戸惑っているようだった。

 不意に、ちらりと背後に視線を送る竹河。取り巻きのうちのひとり——ガリのほうがそれに頷いて、後ろ手に教室の扉を閉めた。がちゃりという鍵の音が、薄暗い空間に小さく響く。

 

「で? どういった用件なわけ?」

 

 彼はあくまでもポーカーフェイスを崩さないまま、けれど困惑を隠しきれていない様子で、そう尋ねてくる。

 正確には彼らをここに呼び寄せたのは俺ではないし、だからこそ竹河たちがそれに応じたというのは俺には正直意外なことだった。

 いったい、どんな呼び出し方をしたのか。そんな疑問を抱きかけたけれど、特に興味もないのでそれは一旦横に置き、早速、俺は彼らに本題を切り出すことにした。

 

「単刀直入に訊くけど、君たち、女子に酷いことをしてるらしいじゃないか」

 

 そう言ったとたん、彼は先ほどまで浮かべていたいぶかしげな表情から一転して、

 

「…………、それがァ?」

 

 と、嫌らしく唇を歪めた。底意地の悪そうな、わざとらしくこちらを馬鹿にしてくるような嘲笑である。

 竹河は俺の問いに肯定も否定もしなかったけれど、その低俗な笑みこそ、何よりも雄弁な解答だった。

 しかし、と思う。

 こいつのこの冷静さは、いったい何なのだろうか。

 己の悪事を知っている人間が目の前にいるというのに悪びれる様子をまったく見せない。呼び出された時点で察していたとしても、この平然とした態度は少々おかしい。

 万が一に知られたとしても、余裕ぶっていられる何かがあるのか? それとも——

 

「なんだァ? 坊っちゃんもオレらの仲間になりてえのか?」

 

 思考を巡らせていると、いつの間にか、竹河は俺のすぐそばに立っていた。肩を組もうとでもしているのか、馴れ馴れしくこちらに腕を伸ばしてくる——その手がどうしようもなく、甚だしく穢れているように思えて、肩に触れようとしてくるそれを俺は反射的にはたき落とした。

 

「……あ?」

 

 一瞬にして彼の顔に熱がのぼり、こめかみに青筋が浮かんだのが見えた。どうやら随分と沸点が低いタイプらしい。思わず笑いそうになるものの、激昂する竹河の姿が容易に想像できたので堪えることにする。

 彼の苛立ちに気がついていない振りをしつつ、俺はひとつ咳払いをしてから口を開く。

 

「取引をしよう」

 

 端的に、そう言った。

 

「君たちが撮影した写真のデータ俺が買い取る。君たちは俺にデータをすべて売る——どうかな?」

 

 俺がそう言うやいなや、直前までの苛立っていた様子とは打って変わり、竹河の表情に再び笑顔が戻る。直情型の人間は熱しやすく冷めやすいから扱うのが楽だな。そんなことを脳の片隅のほうで思った。

 

「なんだよ、やっぱ仲間になりたいんじゃねえか」

「違うね」

 

 即座に否定の言葉を返す。

 

「受け取ったデータは全部処分するさ。そんなものに興味はないからね。君たちはもう二度と、誰のことも傷つけないって約束してくれるだけでいいんだ」

「…………」

「見逃してやるから二度とすんな——そう言ってるんだけど、理解できたかな?」

 

 意図的に、挑発するような響きを込めてそう言ってやれば、彼は値踏みするような目つきをこちらに向けてきた。

 いくら沸点が低いとはいえ、さすがにこの程度でキレたりはしないようだ。どうやら最低限、それくらいの理性はある男らしい。

 

「正義の味方ごっこか? やっぱお前もあの女と同類だな」

 

 あの女というのは雀のことだろうか。だとすればそれは見当違いもいいところである。そう否定しようと思ったけれど、途中で気が変わった。勘違いを正してやる義理や義務なんて、こっちにはないわけだし。

 だから俺は、さてね、とだけ曖昧に返して、話を戻すことにする。

 

「当然、取引が成立したら俺は誰にも何も言わないよ。そもそも、いつまでもデータを持ってることはあんたらにとってもリスクでしかないはずだ。それを排除できる上にリターンを得られる……悪くない話だと思うけど」

「悪くない? 今悪くないっつったか?」

 

 俺の言葉を受けて、竹河は愉快そうに笑う。

 

「いやいや、むしろ最悪だぜ。そんなことしてみろ、オレらが親に怒られちまう」

「…………?」

 

 親? ……何かの比喩か?

 思わず首をかしげた俺を無視するように、それで、と彼は言葉を続ける。

 

「取引とやらは決裂したようだぜ? どうするよ、坊っちゃん」

「どうするって……困るかな。とても困る」

「だろうなァ」

「でも困るのはあんたらも一緒だ」

 

 そう。

 交渉決裂までは想定内だ——というか、言い渡されたいくつかのプランのほとんどはそれを前提に策を講じられている。この取引が成立しなかったとしても、俺たちにはほかにもやりようがあるのだ。

 けれど、竹河たちのほうはそうじゃない。彼らがこの交渉に応じない意図はわからないけれど、もしもここで俺を逃がしてしまえば、それはそのまま、自分たちのリスクを取り逃がしてしまうことと同じなのだから。

 現実問題、俺が天野を連れて警察に駆け込んでしまえば、それだけでこいつらはお終いなのだ——警察が動いてくれるかどうかは、また別の問題としても。

 

「で、あんたらはどうするんだ?」

「こうすんだよ!」

 

 と。

 竹河は、拳を繰り出した。

 喧嘩慣れしていない、どころか他者に暴力を振るった経験すらない、ともすれば羽鳥よりも喧嘩が弱いだろう俺にそれをかわせるわけもなく、

 

「ぐ、ぁ……っ!」

 

 俺の背中は、受身を取る間もなく木目の床にたたきつけられた。その衝撃に肺から空気が漏れて、喉が短い音を上げる。

 遅れて、脳が痛覚を処理し始めたのがわかる。ずきずきと左の頬が痛み出して、塩辛い鉄の味が咥内に広がった。

 一発目から顔面を殴ってくるのかよ。嘘だろ。頭がいかれているんじゃないか。

 天野も——

 天野唯も、こんな痛みを経験したのだろうか。

 頬に走り続ける痛みに、あの金色の少女のことを思い浮かべながら身体を起こそうとする——唐突に胸倉をつかまれて、中途半端に上げていた上半身を力ずくで起こされた。

 そして無理やりに、彼らと目を合わせられる。視界に入った竹河たちは、ひどく意地の悪い笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。

 

「取引をしようぜ」

 

 と、先ほどの俺の言葉を真似るように彼はそう言った。

 

「金は……ま、今はいいわ」

「…………」

「それより坊っちゃん、龍崎風歌って知ってるよな?」

「は……?」

 

 思わず、今の状況に釣り合わない、間の抜けた声を上げてしまう。

 龍崎風歌……だって?

 俺たちと同級生の、三年A組に所属している少女。どうして今、彼女の名前が出てくるのだろうか。

 

「あの女、ほわほわしてるように見えて意外とガードが堅えんだよ。しかも常にやべえ女どもが隣にいやがるしよ」

「……やばい女って?」

「あ? あー、B組の西城と、D組の雪村と……」

「あとはお前んとこのお嬢様とかだよ」

 

 曖昧に消えていく竹河の語尾に、間髪入れず取り巻きのもうひとり——チビのほうが補足するように言う。

 思っていたよりもだいぶやばかった面子に一瞬だけ現状を忘れかけた俺だったが、とにかく、という竹河の呟きによって再び現実に引き戻された。

 

「龍崎をここに連れてこい。そしたら今回のことは許してやんよ」

「……ふうん。龍崎さんが次のターゲットってわけ?」

 

 そう問いかけると、そうとも言うかもなァ、と竹河はまた笑う。

 ……なるほど、そういうことか。

 この男が羽鳥に接触したのは、それが目的だったのか。

 竹河は羽鳥を仲間に引き入れて、紹介された女子を餌食にしようと企んでいたのだろう……天野や、ほかの女子たちと同じように。

 その計画はあいつが断ったことで破綻したけれど——彼は今、龍崎にもその毒牙を向けようとしている。

 彼女は芸能人だ。そんな龍崎に同じことを働いてみろ。スキャンダルどころでは済まされない。

 

「そんなわけで、オレらはあいつと縁を作りたいんだよ。それを手伝ってくれりゃあお前にもご褒美をくれてやったっていいんだぜ——んでもって、オレらの仲間になろうや。なあ、坊っちゃん?」

「嫌だね」

 

 即座に拒絶の言葉を吐いて——ついでに唾も吐き捨ててやる。

 鮮血混じりの唾液が、竹河の頬にかかった。

 す、と。彼の顔から表情がなくなる。背後のふたりが蒼白になったのが見えた。それらに気付きつつも、俺は挑発的な笑顔を貼りつけ続ける。

 竹河が真顔のまま、腕を振り上げたのが視界に入る。そして加減のない彼の拳が——俺の顔面目掛けて振り落とされた。

 

「が、——ぐっ!」

 

 鼻骨に、激しい痛みが走った。反射的に身体を後ろにのけぞらせようとしたけれど、竹河は俺の襟元をねじり上げることで無理やり引き戻し、その反動を利用した拳でまた殴打してくる。まるで人間サンドバッグだ。

 錆びた鉄のような臭いが強くなる。ああ、鼻から血が出たのかと呆けた頭で考えていると、続けざまに振り抜かれた拳が飛んできた。みぞおちのあたりに、重い衝撃が走る。

 

「っ、ぐ……!」

 

 腹の奥から胃酸がせり上がってくるような感覚を覚えて、とっさに手の甲を口元に当てることでそれを耐え忍んだ。大きく息をして、呼吸を整えながら嘔吐反応をやり過ごす。

 追撃はこなかった。

 竹河は、静かな目でこちらを見下ろしている。

 

「なあ、坊っちゃん。そろそろ諦める気になったか?」

「全然ちっともまったく」

 

 そんな俺の虚勢を無視するように、あっそォ、と彼は呟いた。

 

「じゃ、もういいわ。おいお前ら、こいつ脱がせろ」

「……は?」

「え、ガチで脱がすん?」

「マジマジ。パンイチにしちまえ」

「うっそだろ、さすが勝之だわ」

 

 何を言われたのか一瞬わからなくて、俺は呆気に取られた。いや、一瞬ではない。たとえ一秒経とうと十秒経とうと、彼らがいきなり何を言い出したのか、きっと俺には理解できなかっただろう。

 その理解がようやく追いついたのは、カッターシャツのボタンに手をかけられたときだった。

 俺は反射的に口を開いたが、そこをすかさず手のひらで塞がれた。

 

「おっと、声出すなよ」

「…………っ!」

「ま、大声上げても誰も助けてくれねえだろうけどなあ。吹奏楽部の連中、今日はここじゃなくて本校舎のほうで練習してるらしいぜ?」

 

 いつもだったら吹奏楽部が響かせているはずの音色が、今日は聞こえてこない。鼓膜を揺らすのは、虫の羽音のような雨音だけだった。

 もがくように暴れれば、取り巻きのふたりに四肢を押さえつけられた。乱暴な手つきでボタンを外されて、インナーの裾をわずかに捲られる。晒された肌に伝わってくる空気と、触れてくる手の生温い熱が気持ち悪くて、自分の全身に鳥肌が立ったのがわかった。

 

「なんでオレらが女子の写真を撮るんだと思う?」

 

 ささやくような声で、唐突に竹河は言った。睨みつけるように視線を向ければ、眼界の端で何かがきらめいたのが見える。

 それはナイフだった。折り畳み式のバタフライナイフを、竹河は手慰みにくるくると回している。

 

「それを売りさばくため……と、思うじゃん?」

「…………」

「データはまだ売ってねえよ。あれの用途はそういうんじゃないからな」

 

 しばらくナイフを手のひらの上で遊んだあと、やがて彼はやおらにそれを俺の服と肌のあいだに差し込み、そして梃子の要領でインナーを裂き始めた。

 びっ、びーっと。刃渡りの短い刃が布を裂くたびに、そんな鈍い音が立つ。

 

「理由は単純だ——口封じに使えるから、だよ」

 

 裾から襟まで裂き終わったところで、竹河はようやく手の動きを止めた。ナイフを再び振り回してから、ぱちん、とグリップの中に刃を収納する。その様子を眺めつつ、しかし俺の意識は既にそことは違う場所にあった。

 こいつらが写真を撮るのは、それを口封じに使うため。それはいい——全然まったくちっともよくないけど、むしろ最悪だけれど、とにかく理解はできた。

 口封じ。なるほど確かに、そういった写真は口封じとして利用できるだろう。それが強姦ならばなおさらだ。

 しかし、そうなると別の問題が浮上してくる。

 写真の用途は売りさばくためではない。金はいらないと、竹河はそう言った。つまり写真はあくまでも手段のひとつであって目的ではないということである——それが問題だ。

 じゃあ、彼らの目的とはいったい何なんだ?

 行為そのもの? ……いや、それは違う。だとすれば羽鳥に女子を紹介しろなんて言わないし、俺に龍崎を連れてこいとも言わないだろう。いたずらに被害者を増やすことはそのままリスクを増やすことでもあるのだから。

 それとも。

 多少のリスクを高めたとしても、それ以上のリターンでもあるのか……?

 それなら、こいつらの目的は——

 

「ま、てめえの写真は売っちまってもいいかもなあ。坊っちゃん華奢だし、ホモに高く売れそうじゃん。……おっ、そうだ、いいこと思いついた。なあおい、ケツになんか入れちまおうぜ」

「え? いやいやいやいや、さすがにそれはないって……」

「いいからやれって。そのほうが高値つけれそうじゃねえか。おい、パンツも脱がせろ」

「勝之パねえ~! そいやさ、ホモっていえば、あいつとか喜んで買ってくれるんじゃねえの。あー、名前なんだっけ——」

 

 卑陋な笑い声を上げながら、竹河たちは俺のスラックスのベルトに手を添えた。組み敷かれて思うように動かすことができない手足。それでも全身の力を総動員して、俺は抵抗するように足掻く——そのときだった。

 ばんっ、と。

 乱暴に扉が開かれる音が、教室に響いた。

 俺を含めた全員の視線が一斉にそちらに向けられた。教室の扉に、ではない。鍵は取り巻きのガリがかけていたし、そもそも引き戸がそんな音を立てるはずがないのだ。

 だから、俺たちの意識が向いたのは教室の前方ではなくて——その真逆だった。

 教室の後方。

 隅にある木製のロッカーの扉が、開いていた。

 そして。

 

「……ゲッスい顔やなあ」

 

 その内側に入っていた女が、ゆるりとした動きでそこから出てきた。

 表情には笑みを浮かべている。

 にやにやとシニカルに、それでいてひどく愉しげな——そんな、いつも通りの笑顔を浮かべた火宮雀が、そこに存在していた。

 

「ばっ——」

「お前ら」

 

 馬鹿、と。なんで出てきたと、思わずそう言いかけた俺の言葉を雀は遮る。

 そのままこちらには一瞥をくれようともせず、彼女は竹河たちのことを俯瞰するような目つきで見下ろしていた。

 

「お前ら、こげなとこで何しよんの?」

「ひ、のみや……」

「こげな、旧校舎の、二年A組の教室で、なーに馬鹿やらかしよんのかって訊いちょんのや」

 

 取り巻きのひとりが、震えた声で雀の名前を呼ぶ。そんな彼に雀はちらりと視線を向けた。冷笑を含んだ目。それはまるで、獲物を狙う鷹のようだと思った——名前は小鳥のくせに、風格は猛禽類そのものだ。

 おもむろに、彼女はスカートのポケットからスマートフォンを取り出した。シンプルな黒の無地のカバーをつけているそれを見て、男たちの顔色が変わったのがわかる。

 

「会話は全部録音させてもらった。さ、一緒に出るとこ出ようやんか」

 

 その言葉に、竹河は不愉快そうに顔を歪めた。

 

「てめえら……、ハメやがったな!」

 

 竹河が怒鳴り声を上げた——それと同時に、ガリが立ち上がる。彼は腕を大きく振りかぶって雀に飛び掛かった。

 けれど。

 

「よっ——ほっ!」

 

 彼女はそんな風にふざけた声を発しながらも、飛んでくる拳を最小限の動きでかわすように後ろに退き——そして、空振りした一瞬の隙をつくように、長い脚を大きく振り上げて男の顎を蹴り抜いた。

 

「が……っ!」

 

 勢いの余った姿勢でそれを受け止めるはずもなく、人体の急所のひとつをもろに蹴り上げられた男は呻き声を上げながら床に沈む。

 火宮雀。

 火宮本家の令嬢である彼女は幼少期から英才教育を施されていたのだが、その一方で格闘技の師事も仰いでいたことがあるらしい。

 つまるところ、この女はかなり喧嘩が強いのだ。

 そのうえで、雀は女子としてはそこそこ背が高い。先ほどのガリとさほど変わらない体格だ。そんな彼女から繰り出された攻撃である、その威力は推して知るべしだろう。

 事実、それを喰らったガリは軽い脳震盪を起こしてしまったのか、立ち上がることすらできず、ふらふらと後ずさるようにこちらに戻ってきた。

 

「畜生……それを寄越しやがれ! この野郎をぶっ殺されてえのか!」

 

 教室に竹河の怒声が響いた。間髪入れずに、再び俺の胸倉をつかんで自分に引き寄せる。首筋に冷たいものを感じて、その矢先に、それは鋭い痛みへと変わっていく。おそらく、先ほどのバタフライナイフが首の皮を破ったのだろう。

 

「とっとと寄越せ! ぶっ壊してやる!」

「それは困るなあ」

 

 俺は言った。

 首筋に走る痛みにも構わず、意識的に、静かな声で。

 

「あれ、俺のスマホだから、壊されるのはちょっと」

「知らねえよ! 寄越せっつってん、だ……」

 

 不意に、彼は言葉を切った。そしてほぼ同時に、竹河はこちらに視線を向けてくる。

 その表情を目にして、ああ気付いたのか、と俺は思った。

 

「……お前の、スマホ?」

「そうだけど」

「じゃあ、火宮雀のは……」

 

 そう。

 もはや特筆する必要もないだろうが、取引云々は完全なるブラフである。俺の仕事はこいつらと話をすることだ。極論、その結果がどんな風に転ぼうとも構わなかったのである。

 俺たちの狙いは、証拠となる会話を雀が録音することにあった。

 けれど——

 ただ録音をするだけならば、わざわざ俺の端末を使うことはない。

 彼もそのことに気がついたのだろう、ばっと勢いよく、竹河は視線を再び雀へと戻した。

 それを受けて、彼女は不敵に笑う。そして悠然とした動きで自分のスカートへと手を伸ばし、そこからもうひとつ、スマホの端末を抜き取った。

 派手なデザインのカバーをつけているそれは、確かに火宮雀のスマートフォンだった。

 

「カメラやと思う? それともムービー? あるいは保険でもひとつ録音してたりして」

 

 言いながら、彼女は自分の端末の画面をこちらに示す。

 

「正解は——」

 

 液晶に映っていたのは通話中の画面だった。既に、十分近く経過している。

 そしてスクリーンには、通話相手の名前も表示されていた。

 黒神剣。

 その文字列を俺たちが認識した瞬間——教室の前方にある扉から、激しい破壊音が轟いた。

 破壊音。まさしくそうとしか表現できないような、すさまじい音だった。

 最初に木の板を折るような音が立ち、次にガラス窓が砕ける音が大きく鳴り。そして最後に、砕けた破片が床に飛び散る音が教室に響いた。

 鍵のかけたドアが、乱暴に蹴破られた音だった。

 

「——お前たち」

 

 そして。

 当然ながら、そこには扉の破壊者が立っていた。

 

「お前たち、ここで何をしている」

 

 威圧感のある声でそんな風に問いかけてきたのは、誰であろう、先ほどそのフルネームを目にしたばかりの男——黒神先生である。

 水気を含んだ髪や服が、彼の大きな体躯に貼りついていた。濡羽のような毛先から水滴がぽたぽたと落ちている。

 おそらく雨に濡れたのだろう。それはすぐにわかった……けれど、それはつまり、先生は本校舎からここまで傘を差してこなかったということだ。

 雨具すら使わず、びしょ濡れになることすら厭わず——彼は、ここに駆けつけてくれたというのか。

 

「話は通話越しに聞いていた」

 

 と、射抜くような眼光でこちらを見下ろしながら、黒神先生はそう言った。

 

「全員、至急生徒指導室に来い。これ以上喧嘩を続けるのであれば容赦しないからな」

「…………んなよ」

「ああ、火宮遥はその前に保健室へ行くといい。生きているか、生きているな、ならばよし。ほかに怪我をしている者は——」

「……ふざ、けんな」

 

 小さく唸る竹河。それは喉の奥から絞り出すような声だった。

 そして。

 

「ざけんなやくそがああぁぁああああ!!」

 

 彼は爆ぜるように叫び、ナイフを大きく振りかぶりながら先生へと飛び掛かっていく。

 対する先生はただ静かに腰を回転させ、右腕を大きく引く。そして自分に向かってくる竹河の顔面めがけて——その拳を、思いきり振り抜いた。

 ぶん殴った。

 その一撃を喰らった彼は悲鳴もなく後ろにぶっ飛んでいき、そして、重い音を立てて教室の床に落ちた。

 床に倒れ臥す竹河は白目をむいたまま、ぴくりとも動かない。明らかに意識を失っている。

 俺はしばし唖然としてしまっていた。それは取り巻きのふたりも同じようで、どちらとも完全に絶句している。

 ただひとり、雀だけがのん気に口笛を吹いていた。その音色に、ふたりがはっと我に返る。

 

「い……い、いいのかよ! 教師が生徒を殴って!」

「体罰だ、体罰! 教育委員会に訴えてやる!」

「その前にお前たちが法に訴えられるがな」

 

 取り巻きたちの言葉にもまったく動じず、彼は平然とした様子で言葉を繋ぐ。

 

「生徒に暴力を振るわないのが教師なのではない。非行に走る生徒を指導し、善良な生徒を守る——それが教師の使命だ」

 

 抑揚のない口調。けれど、その中に怒りの色を含んでいるのがわかった。

 

「確かに俺は然るべき処分を受けるかもしれん。だがそれがどうした。最優先事項はお前たちを止めることだ。お前たちを正しく導けず、ここまで放置した挙句、善良な女子生徒に被害を及ばせたのは俺の責任だ。減給だろうが解雇だろうが、それが罰だというのであれば甘んじて受けよう——ゆえに。俺は手段を選ぶつもりはない」

 

 一歩、彼がこちらに近付く。先ほど自分で蹴り破ったばかりの扉を踏み砕かんばかりの一歩だった。みしりという木板の音と、床に飛び散ったガラスの割れる音が響く。

 

「俺はきちんと警告したはずだぞ。容赦はしないと」

 

 凄みを込めながらも、あくまでも平坦な声で先生はそう言った。そして拳を——高校生とはいえ男ひとりを一撃で気絶させた拳を構える。

 切れ長の三白眼が、肉食の獣のように鋭く、取り巻きを見つめていた。……俺に向けられているわけではないと頭ではわかっているものの、その瞳の中にある威圧と怒気を目にするだけで、恐怖が全身を走り抜けそうになる。

 そんな眼光を真っ正面から受けているふたりは、だから俺とは比較にならないほどの戦慄を感じていることだろう。

 彼の纏っている空気は、完全に教師ではなく輩のそれだった。

 

「ま……待て! いや待ってください、勘弁してください! 俺たち、そもそも勝之に言われて……」

「そ、そうだよ! 竹河が悪いんだ! もう二度としないから、だから——」

「……お前たちがいったい何を言っているのか、俺にはよくわからんな」

 

 理解できないと言いたげに首を振る黒神先生に、取り巻きたちが絶望したように顔を青ざめさせる。その様子に、さすがにほんの少しだけ同情してしまった。

 そんなふたりに構うことなく、彼は——黒神剣は、まるで当たり前のことを告げるかのようにあっさりと、ごくごく自然な口調で、こう言ったのだった。

 

「あれこれ言い訳をする前に、悪いことをしたらごめんなさいだろう」

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