突然だが、呵々大笑という言葉をご存知だろうか。大声を上げて笑うこと、口を開けて豪快に笑うこと、という意味の四字熟語である。その由来は禅僧の問答からだそうだけど、国語のテストに出るほどの雑学でもないのでそのあたりは正直うろ覚えだ。
では、何故俺がそんな言葉を引き合いに出したのかというと——
「うわっははははは! そげな、え、どしたん……あっはっはっはっはっは! ちょっと見らん間に男前になりよったなあ!」
うん。
端的に言えば、膝が震えるくらいに爆笑している夜鷹の姿を目の前に、そういえばこんな感じの四字熟語があったな、とふと思い出しただけのことだ。
いつもは標準語のくせに、うっかり訛りが出てしまっているくらいに笑っている。
ぶっちゃけ、物凄くむかつく。
閑話休題。
あれから、俺たちは黒神先生の言う通り生徒指導室へと移動した——正確には、俺と竹河は保健室に運ばれたので連行されたのはそれ以外の三人なのだけれど。
警察が、来たらしい。
保健室にいた俺のところにもふたりほど警官が事情聴取に訪れた。もっとも、それは既に生徒指導室で話を聞き終えたあと……時刻にして午後四時半ごろのことだったので、彼らとのやり取りはせいぜい二、三分程度だったのだが。
そして一時間後。黒神先生が連絡したらしい夜鷹が車で俺と雀を迎えにきて——現在、俺はその車の後部座席に乗せられている。
ちなみに雀は助手席に座っている。四時間弱の取り調べでかなり体力を消費したらしく、今はよだれを垂らして眠っていた。
窓の外の景色を見つめながら、俺はなんとはなしに、夜鷹が迎えにきたときのことを思い返していた。
今運転席にいる男は、俺と顔を合わせるなり爆笑してきたのだった。今思い出しても非常に不愉快なその笑い声に、本気で怒鳴りつけてやろうかと、一瞬考えはしたのだが、
「遠乃さんにばれたらやべえなこれ」
と。直後呟くように続けられたその言葉に、思わず黙ってしまった。
その直前まで言ってやろうと考えていた言葉がひとつも出てこなくなって、結局そのまま、俺は夜鷹の車に乗り込んだのだった。
遠乃さん——火宮遠乃。
それは、俺の母親の名前だ。
本当なら、夜鷹じゃなくて彼女に連絡がいくはずだった。それも当然だ。ひとり暮らしをしているとはいえ、俺の保護者と呼べる存在は両親しかいないのだから。
だから黒神先生は、必然的な流れで火宮遠乃に連絡をしようとしていたのだが、それを拒絶したのはほかならぬ俺だった。必死だった。正直、竹河に殴られたり、服を剥かれかけたりしたときよりも切羽詰まっていたと思う。恥も外聞も、いつも貼りつけていた仮面すらもかなぐり捨てて、母さんにだけは言わないでほしいと、切実に彼に頼み込んだ。
結局、懇願した俺のほうが拍子抜けしてしまうくらいに先生はあっさりとそれを承諾してくれて、俺は雀と一緒に、夜鷹の迎えで帰宅させられることになったのだった。
窓の外を矢継ぎ早に過ぎ去っていく景色を眺めてから、俺は目を閉じた。そうしていると、色んなことを考えてしまいそうになる。
火宮遠乃。
俺の母親。
当然ながら、悠哉兄さんや彼方姉さんの母でもある彼女のことを。
考えて、しまいそうになる。
「——あの人といると」
気がつけば。
「自分が誰か、わからなくなるんだ」
そんなことを口にしていて、俺はまぶたを開く。
彼女が俺に対して強い執着をもっていることは、一族内では既に周知のことだ。
母親にとって息子は恋人のようなものだとよくいわれるらしいけれど、そうは言ってもそれだって幼少期に限定された話だろう。あの人の過干渉や過保護は、高校生の息子に向けるものにしては度を越しすぎている。
それに、彼女の執着は俺に対してだけのもので、兄さんや姉さんにはまったくと言っていいほどに向けられない。長男より次男のほうを甘やかしてしまうとも世間ではよくいうそうだが、それとも違うように思う。
あの人は彼に対して無関心なのだ。
愛情の反対は憎しみでは無関心——そう言ったのは、マザー・テレサではなくエリ・ヴィーゼルだったか。どちらの偉人だったとしても今はどうでもいいけれど、そのせいで悠哉兄さんは自分の母親にひどく固執しているし、俺に対しては嫉妬めいた悪意を向けてくる。
だから彼女の場合、なんというか、そういったコンプレックス的なものとは決定的に何かが異なっているのだ。
あの人には、俺に求めている理想がある。
従順で、自分の期待に応えてくれて、常に意に沿い、己の干渉と保護を素直に享受する。そんな、火宮遥を。
だから俺がほんの少しでも意向に反すると——彼女の理想に背いてしまうと、あの人はヒステリーを破裂させたかのように逆上するのだ。
求められている息子像を演じて仮初の平穏を過ごすか、自分らしく振る舞って母親に癇癪を起こされるか。
どちらが自分にとって有益なのか損失なのか——問題なのはそれだけで、そして、その解答は至極単純だった。
……けれど。そうしていると、自分はいったい何者なのか、だんだんわからなくなってくるのだ。
思考を放棄するたびに、まるで人格が溶けていくかのような錯覚を起こしそうになる。
それが怖くて、らしくもなく我儘を言ってひとり暮らしをしたというのに……結局俺は、同じことを繰り返している。
「俺はちゃんと——『火宮遥』をやれてるのかな」
従順な息子である俺。
優しげな先輩である俺。
気さくな同級生である俺。
平凡な男子高校生である俺。
母親だけじゃない。誰かに望まれている自分を演じ続けなければ、俺は自分の精神の安定を保つことさえできなくなっていた。
みんなが俺に求めている——火宮遥の姿を。
「オレの話をしよう」
不意に。
それまで相槌ひとつ打たなかった夜鷹が、そんな風に口火を切る。
「……はあ?」
「夜鷹お兄さんのお話だよ」
「そんなもんどうでもいっすよ……」
「まあまあ、いいから聞きなって」
何なんだ、鬱陶しい。そう言おうと思ったけれど、それはそれで面倒なことになりそうな気がしたので、おとなしく話を聞いてやることにした。
「オレがいつからこんな風になったのか、ハルは知ってるかな」
「こんな風にって、そのうざったいチャラ男キャラのことですか?」
「ハル、オレのことそんな風に思ってたの……?」
と、情けない声を出す彼。
この人、本当に二十五歳なんだろうか。
「火宮に対する反骨精神とか、どうせそんなんでしょ」
「やー、それが誤解されがちなんだけどさ。実はただの高校デビューなんだよな、これ」
その言葉に、俺はいささか驚く。
てっきり実家に対する反抗からそんな風にしていると思っていた。
「中三のときツッキーちゃんに『夜鷹くん、明るい髪色のほうが似合うと思うよ』って言われたことがきっかけなんだけど……あ、知ってる? 黒神さんちのツッキーちゃん」
「黒神家の人間なんて、俺が知ってるわけないじゃないですか」
「あー、正確には黒神さんちじゃなくて……いや、結局は黒神さんちの子になるのかな? まあいいや」
夜鷹はうやむやにするように笑った。
なんだ、と思う。
結局、そのツッキーとかいう女子の言葉に流されただけじゃないか。
あんたも案外適当に生きてるんですね、と小馬鹿にするように言ってやれば、彼はそれに怒るわけでもなく、そうなんだよなあと頷くだけだった。
「ハルの言う通りだよ。確かに俺は流された。なんとなくって理由でパツキンにしてみたし、それに合わせてチャラ男キャラを始めてみたりもした。マジ百パー適当な高校デビューよ……でもさ、それをほんの少しでも後悔する気持ちがあるなら、オレは途中で違う選択ができたはずなんだ」
「…………?」
「オレはさ、人間が本当の意味で誰かに流されることはありえないと思うんだよ」
だって、と夜鷹は言う。
「だってさ——『流される』と『流されない』の選択を決めることができるのは、いつだって自分自身じゃないか」
その言葉に。
ふっと、何かが落ちたような気がした。
「他人に抗うことを選ぶのは自分。他人に抗わないことを選ぶのも自分。たとえそのとき本当に流されてしまったとしても、嫌になったら途中でやめることだってできるんだよ。人はいつだって、自らの意志で選択と決断を繰り返し続けているんだから」
後悔する気持ちがあるなら、途中で違う選択もできる。
選択を決めることができるのは、いつだって自分自身。
人はいつだって、自らの意志で、選択と決断を繰り返し続けている。
夜鷹の言葉を、心の中で反芻しながら——俺は、初夏のあの日を思い出していた。
あの日……俺は、東屋の告白を断った。その直後に天野と出会った。
進路希望調査で就職を選んだ。火宮の企業を書いた。
クラスメイトの遊びの誘いを断った。そのまま雄助に会いに行った。
天野を美術室に招き入れた。
彼女と話をした。レモン味の飴をあげた。
またここに来てもいいのかとうかがう彼女に、好きにすればいいと答えた。
屋上で天野とあんずと一緒に昼食を取った。彼女の作った弁当を食べた。
頬に痣を作っている彼女を保健室へと連れて行った。そのときに竹河のことを聞いた。
天野唯を、助けることを選んだ。
そのための覚悟も決めた。
それらの選択は……はたして、俺が流された結果なのだろうか。
……いや。
それは違う。違うと答えられる。
紛れもない、俺自身の意志で確かに決めてきたと、きちんと答えることができる。
嫌になったら、途中でやめることだってできたはずなのに。
思う存分に殴られて、身体のあちこちが痛むというのに——俺は今、それを後悔すらしていない。
後悔すらしていない自分がいることに、たった今、気がついた。
「『自分らしさ』ってそういうことだとオレは思うな」
彼はそこで一度言葉を切り、ブレーキを踏んで車を停止させた。
「ハルは素直じゃないからさ。自分のことを他人に従順に生きているだけとか、誰かに求められてる姿を演じているだけとか思ってるかもしれないけど、オレはちゃんと知ってるよ——遥は、自分の意志で選んだり決めたりできる子だって」
自分らしく生きられる子だって。
夜鷹は、俺にそう言った。
自分らしさ。
自分で選んで、自分で考えて、そして自分の意志で行動を決める。
それは、例えば、火宮雀のように?
俺も……俺なんかでも、彼女のように生きられるのだろうか。
「…………」
気がつけば、そこはマンションの前だった。
俺がひとり暮らしをしている——ひとりで暮らすには広すぎる、マンションの前に。
不意に、何かがそっと頭に触れてくる。見れば、それは夜鷹の手だった。
運転席から軽く身を乗り出してこちらに腕を伸ばしている彼は、穏やかな笑みを浮かべて、俺のことを見つめている。
「よくがんばりました」
その言葉が、自分の心の、深いところに沁み込んでいくのがわかる。
認められた。
俺の選んだことを、決めたことを……認めてくれる人がいた。
ああ、と思う。
天野に会いたい。
週が明けたら、彼女に会いに行きたい。
あんな傷だらけの痛々しい微笑じゃなくて、いつもみたいな天真爛漫な笑顔が見たい——そんな風に笑っていてもらうために、俺はがんばったのだから。
俺は無言で頷いて、優しく頭を撫でてくる手のひらを享受する。今日くらいは、素直に甘やかされてやってもいい気分だった。それくらいに、自分の心が軽くなっているがわかる。
——いつの間にか、雨は止んでいた。