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 六月一日、月曜日。

 空には薄暗いグレーの雲が広がっていて、そこから地上に向かって雨粒が落ちていく。先週からずっとこの調子だ。よくもまあ飽きもせずに続けるものだと、誰にともなく感心したくなる。

 梅雨はまだ、始まったばかりだった。

 冷房を許可されていない教室には湿気が充満していて、どこか陰鬱な空気が漂っているように感じた。けれどそんな空気だって、昼休みを告げるチャイムの音が鳴り響けば騒がしさで上書きされることになる。

 机を動かしている女子たちの声と、教室を飛び出していく男子たちの足音。正直やかましいと思わなくもないが、これも日常を構成する要素のひとつなのかもしれない。そんなことを考えながら、俺も自分の椅子を右隣の席に向けた。

 

「よう」

「よっすー」

 

 そんな風に、間延びをするような口調で返事をしたのは、隣の席のあんずだった。

 萩原杏は、目尻の下についている泣きぼくろと、穏やかな笑顔をいつも浮かべているのが特徴的な男子だ。身長は俺より高く、体格も悪くない。けれど、特に何かスポーツをしているというわけでもないらしく、俺と同じ帰宅部だ。

 彼とは今年の春に知り合ったばかりなのだが、出席番号が前後だったこと、そして男なのに女子みたいな名前という共通点があったことをきっかけによく話すようになった。俺としてもあんずの和やかな人格をそれなりに好ましく思っているので、こうしてよく一緒に昼飯を食べている。

 

「あれ、お昼ご飯は?」

「今日は購買」

 

 言いながら、通学用のリュックサックから財布を取り出そうとしたところで、

 

「火宮くん」

 

 と、名前を呼ばれる。聞き覚えのあるその声に振り向くと、そこには西城が立っていた。

 西城花姫。

 直線に切りそろえられたストレートの黒髪が綺麗な、クラスメイトの女子だ。

 この高校の衣替えの移行期間は六月一日——つまりは今日からなのだが、クラスの過半数はもう夏服に着替えているようだった。西城もそのひとりらしく、半袖のシャツと学校指定の黒いニットベストを着ている。とはいえ、ほかの女子たちは少し制服を着崩したり、お洒落な着こなしをしたりしているというのに、彼女は一切の着崩しも許さず徹底的に校則を遵守しているようだ。

 そんな西城は切れ長の目でこちらを真っすぐに見つめて——本当に、痛いほどに真っすぐな視線で俺のことを見つめてきて、

 

「進路希望調査、提出してください」

 

 淡々と、そして凛とした声でそう用件を口にした。

 それは威圧的な声色だったが、彼女は別に怒っているわけではない。これが西城花姫という少女のデフォルトなのだ。

 ふと見てみると、彼女はプリントの束を腕に抱えていた。そういえば今日の日直は西城だったか。おおかた、日直の仕事ついでに雑用を押しつけられてしまった、といったところだろう。

 さて、進路希望調査か。うっかりしていたな。

 書類そのものはあるにはあるけれど……と、机の中に入っているそれに視線を向けると、彼女が怪訝そうに眉をひそめた気配を感じた。俺はすぐに西城に向き直って、少し申し訳なさそうな表情を作ってみせる。

 

「ごめん、まだ書き終わってないんだ。あとでちゃんと出しておくから、悪いけど先生にそう言ってくれるかな」

「伝言ですか。まあ、その程度なら承ってあげてもいいですけど」

 

 こちらを見下ろしてくる彼女の表情は変わらない。無表情も西城のデフォルトだ。ただ、彼女の顔はなんというか、いい意味で日本人形めいた美しさがあるので、そんな女子から真顔で見つめられるというのはわりと居心地の悪さを感じる。

 

「締め切りは今日の放課後までだそうです。お気をつけて」

「わかったよ。ありがとう」

「あ、西城さーん」

 

 そんな風に西城と話していると、近くの席に座っていた女子が彼女のことを呼んだ。そちらを振り返る西城につられて、俺も視線を向ける。

 彼女を呼んだのは、いかにも姦しいという言葉が似合いそうな女子生徒だった。確か、宿木とかいう名字だったような気がする。名前のほうは記憶していない。

 

「あたしもプリント忘れちゃったのー。先生に言っといてくれる? ね? おねがーい」

 

 彼女は懇願するように両手を合わせると、甘えるような声でそう言って笑みを浮かべている顔を少し傾ける。なかなかに可愛げのある仕草だ。カースト上位にいる宿木からそんな風にお願いをされてしまったら、ほとんどの人は彼女の頼み事を引き受けることだろう。

 けれど西城はその『ほとんど』に該当する人種ではないようで、

 

「は? 嫌ですけど」

 

 と、冷たくはねつけるのだった。

 とたん、宿木は先ほどまで浮かべていた笑みを消し、不機嫌そうに顔を歪める。

 

「はあ? 火宮くんのついでじゃん。なんで嫌なのよ」

「筋が違うからです」

 

 ひと言、西城はそう答えた。その口調もやはり淡々としたもので、ただ単に『訊かれたから』『答えただけ』というのがよくわかる。

 

「忘れたなら家に取りに戻ったらどうです? 今からでも遅くはないですよ」

 

 彼女は最後にそう言うと、艶のある黒髪を揺らしながら教室を出ていってしまった。

 

「はぁあ!?」

「あの女、どんだけ上から目線なん?」

「主将さまってそんな偉いんですかーそうですかー」

「マジむかつく」

 

 教室を去った西城の背中に、宿木とそのグループの女子たちが罵倒を浴びせた。その非難がこちらに向かないうちに、俺は彼女たちから視線を外す。

 なんか怖いね、とあんずが俺に向かって囁いてくる。まったくもってその通りだと思った。

 筋が違う、と西城は言った。彼女にとっての筋とは、たぶん『忘れ物をしたら取りに戻る』、あるいは『自分から先生に謝りにいく』ということなのだろう。そのどちらにも反している宿木の姿は、西城には筋が通っていないように映っていたのかもしれない。

 それを否定するつもりはないし、正しいと思わなくもないけれど、そんなことで俺と宿木の扱いに差をつけないでほしい。

 そんなことを考えながら、物音を立てないように静かに立ち上がる。そして机の中から白紙の書類が入っているクリアファイルを取り出した。

 

「飯買うついでに提出してくる」

「えー、僕ぼっち飯になっちゃうよ」

「ほかのやつらと食べればいいだろ」

 

 俺しか友達がいないわけじゃあるまいし。そう笑いながら、財布とファイルを手に取る。

 

「行ってらっしゃーい」

 

 あんずはゆるい口調でそう言って、こちらに手を振ってきた。それに財布を持ったままの手を振り返してやってから、彼に背中を向けて教室を後にする。

 まずは購買で昼飯を買おう。次に進路相談室。購買は一階で、相談室は職員棟の四階にある。俺たちの教室が生徒棟の三階にあることを考えると、階段を一度降りてからまた上がる、という遠回りをしなければならないのだが、可能ならタスクは並行して終わらせたいので先に購買に寄ることにした。

 頭の中でルートをシミュレートしながら歩く。そちらに集中していたせいで周囲への注意が散漫になっていたのか、すれ違いざまに同級生の男子生徒と肩がぶつかってしまった。

 

「おっと、ごめんね」

「……ってえな」

 

 ぼそりと低い声でそう呟くと、彼はこちらをぎろりと睨んできた。けれどすぐに俺の顔を思い出したのか、ほんの少しだけ目を見開き、そしてチッと不機嫌そうに舌打ちをする。

 

「んだよ、火宮のボンボンか」

 

 彼は乱暴な口調でそう吐き捨てると、最後にまたひとつ舌を打ち、こちらに背を向けて立ち去っていく。

 

「…………」

 

 そんな後ろ姿をしばらく見つめていたけれど、それもすぐに飽きたので、俺も彼と反対方向に歩き出した。

 窓ガラスを、雨粒が断続的にたたいている。

 そこに映っている自分は、見え透いた笑みを浮かべているような気がした。

 

  

* * * * *

  

 

 メロンパン。チョコクロワッサン。おまけに自販機で買った紙パックのカフェ・ラテ。

 それが今日の昼食である。

 俺が通っている学校——古鷹高校の購買は、何故か菓子パン類が異様に充実している。まあまあリーズナブルなうえにボリュームもまずまず。金のない高校生の味方だ。別に金に不自由しているわけではないけれど。

 そんな益体もないことを考えながら、俺はプリントの上にシャープペンシルを走らせていた。

 場所は南校舎……職員棟と呼ばれている校舎の四階にある進路相談室。正確には、その隣の資料室だ。

 目の前にあるのは一枚の書類。先ほど教室で西城が回収していた進路希望調査だ。その紙に適当に文字を書き込みながら、ストローをくわえてカフェ・ラテを飲もうとしたとき、

 

「カミヤくん?」

 

 という声がして、思わず顔を上げた。

 そこに立っていたのは藍色のフレームの眼鏡をかけている若い男性教師だった。授業を受けたことはないが、その顔には見覚えがある。確か数学を担当している先生だったはずだ。

 彼はレンズ越しに、俺の手元にあるプリントに視線を向けていた。半袖のシャツとチノパン姿。生徒の衣替えに合わせて、先生たちもクールビスにシフトし始めているのだろう。

 ふと、彼の腕に刀傷のような傷跡があるのを見つける……と、先生はこちらの視線に気付いたのか、あ、と短い声を上げた。

 

「悪いな。覗き見るつもりはなかったんだ」

「いえ、気にしていませんよ」

 

 笑顔を作りながら、そっと横目で周囲の様子をうかがってみた。資料室にいるのは俺と彼のふたりだけ。つまるところ先生が呼んでいたらしいカミヤくんというのは、なるほど、たぶん俺のことなのだろう。

 

「俺の名字は『ひのみや』って読むんですよ、先生」

「ひのみや? ひのみやって……ああ、あの火宮ね」

 

 と、意味ありげに彼は呟く。そんなリアクションはいつものことなので、俺はとっくの昔に慣れていた。

 

「火宮遥……そういえば、火宮の女の子が三年生にいるって聞いたことがあるな。君のことだったのか」

「……ああいや。確かに俺の名前は女子みたいですけど、それは俺じゃなくてもうひとりのほうだと思いますよ」

 

 そう言って、俺は笑う。先生はそれほど興味もなさそうな声で、ふうん、と呟くと、当たり前のように向かい側の椅子に座った。

 

「進路に迷っているのか?」

「いえ。今日締め切りということを忘れていたので、ここで書いているだけです」

「ああ、そうなのか。それはいいが、ここ、飲食禁止だぞ」

「あはは、ごめんなさい」

 

 机に置いてあった食べかけの菓子パンとカフェ・ラテを見て、彼は咎めるようにそう言った。俺が悪戯っぽい笑顔を作って素直に謝罪の言葉を口にすれば、今回だけだからな、と先生はため息をつく。どうやら容赦をもらうことはできたらしい。

 見てもいいか、と彼がこちらに手を差し出したので、俺はプリントを先生に手渡した。

 

「就職希望、か。見事に全部火宮グループの企業だな。……こういうことを訊くのはあれだし、言いづらかったら答えなくてもいいんだが、身内のコネを使うのか?」

「コネで就職できるほど、火宮は身内に甘くありませんよ」

 

 そう答えると、そうなのか、と先生は少し意外そうに頷いた。

 コネで就職できるほど火宮は身内に甘くない、という俺の回答は、半分は本当のことである。

 火宮家——つまり、俺の実家や親戚連中は身内に甘くない。むしろその対極にあるような一族だ。分家を数多く抱え、横の繋がりも濃いくせに、その人間関係は思わず笑ってしまうくらいに醜悪そのものなのである。

 戦前はどうだったのか知らないけれど、令和という時代にもなって本家だ分家だ家筋だ家柄だなんて、時代遅れも甚だしすぎる。

 それでも俺が我が家のファミリービジネスに乗ろうとしているのは、ただ単に、そちらのほうがよりメリットが大きいと判断したからだ。

 自分にとって何が有益なのか損失なのか——大切なのは、そこなのだから。

 

「これでいいのか?」

 

 その声に、実家のことに気を取られていた意識を彼に戻した。

 これでいいのか。そう尋ねてきた先生の意図がうまく読めなくて、どういう意味でしょうか、と質問を返すと、

 

「これは本当に、火宮くんが将来やりたいと思っていることなのか?」

 

 と、彼はあらためて問いかけてくる。

 俺はにっこりと笑ってひと言、はい、とだけ答えた。

 それからは、どうでもいい雑談に時間を費やした。俺は昼食を食べつつだったので、基本的には先生の話に対して適当に相槌を打っていただけなのだけれど。

 雑談の中、腕の傷についても教えてもらった。それはどうやら、今年の春に起きたとある事件で負ったものらしい。

 菓子パンの最後のひと切れを口にして、それをカフェ・ラテで流し込んだ。昼食のゴミとすべての項目を埋めたプリントを手に取って、席を立つ。

 

「それでは照井先生、失礼しました」

「ああ。君も息災で」

 

 最後にそんなやり取りを交わして、俺は資料室の扉を閉めた。

 

  

* * * * *

  

 

「あ、おかえりー」

 

 教室に戻って自分の席に着くと、右隣のあんずが穏和な笑顔で迎えてくれた。平凡で、どこにでもいるような人間が浮かべられる微笑み。そんな彼の笑顔を見ると、こちらとしても、なんとなくほのぼのとした気分になってくる。

 俺も薄く微笑んで、ただいまと返す。そんな言葉を口にしたのは本当に久しぶりのことだった。

 席に着いて、財布をリュックにしまおうとする。そのとき、あんずは思い出したかのように、

 

「そういえばあの子、今日も来たよ」

 

 と言ってきた。

 その言葉に、俺は先週のことを回想する。

 天使のような——金色の少女のことを。

 

「…………」

 

 無言で、深くため息をついた。

 どちらの選択が有益なのか損失なのか。生きるうえで重要なのはそれだけだ。

 けれどその判断を、俺はまだできかねている。

 ただひとつ確実に言えるのは、俺の日常が本格的に崩れ始めたのが、その日の放課後からだということだ。

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