top of page
背景⑦.png

 本日も平穏に授業を終えることができた。

 

「——連絡事項は以上です。えーと……あ、雨で足元が悪くなっているので、気をつけて下校してください」

 

 そう言って、女教師はホームルームを締めくくった。

 教壇に立っている彼女は俺たちのクラス——三年B組の担任である椎本先生だ。生徒の前に立つだけで声が小さくなるくらい気の弱い彼女がどうして教職を志したのか、別に興味はないけれど、少し気にはなった。

 さておき、学校は放課後を迎えた。俺は部活動に入っていないので、そそくさと教室を出てしまおうとリュックを背負う。

 けれどそのとき、

 

「火宮」

 

 と、唐突に肩をたたかれた。

 振り返ると、そこにいたのはクラスメイトの男子だった。その背後には、彼の友人らしき数人の男子生徒の姿も見える。

 

「何か用?」

「おう。俺たち今からカラオケ行くんだけど、火宮も一緒に行こうぜ」

 

 どうやら遊びのお誘いらしい。正直、こうして誘われるのは素直にうれしいと思った。

 俺は帰宅部なうえに委員会にも所属していない。アルバイトもしていないし、今日の放課後は何も予定が入っていない。

 つまり暇だ。

 だからそのありがたい誘いを受けてしまおうかな、と少し考えた——が、しかしカラオケか。

 ……カラオケかあ。

 数秒の思考の末、俺は申し訳なさそうな表情で、悪い! と、顔の前で両手を合わせた。

 

「このあと用事あるんだ。残念だけど、今日は行けそうにないわ」

 

 ごめんな、ともう一度謝りながら、俺はその誘いを断った。

 いや、別にカラオケが嫌だから断ったわけではない。確かに歌はあまり得意ではないし、それを知られたくないと思うのも本音だけど、断った理由はそれじゃない。いや、本当に。

 俺の歌唱力はさておくとして——そんな風に謝ったこちらに対して、ふうん? と、彼は少し怪訝そうに首をかしげた。

 

「用事って、萩原と?」

「え? いや、違うけど……なんで?」

「なんでって……」

「ばーか。あの子がいるのに萩原と浮気するわけないじゃん」

 

 後ろにいた男子のひとりが茶化すような口調でそう言って、俺たちの会話に割り込んできた。それを聞いて、あーそっかー、と彼は納得したように頷く。

 あの子。

 昼休みにあんずの話を聞いたときから嫌な予感はしていたけれど、どうやら的中してしまったらしい。『彼女』のことがクラスメイトに認知されているもの面倒だが、今後それをネタにいじられることになるかもしれないと思うと、本当に煩わしいと思った。

 ちなみにあんずは既に帰宅している。彼はバスで通学しているとのことだから、遅れないように早めに教室を出ているのだろう。十分待てば次が来る都会のバスと違って、田舎のバスは一本逃すと三十分近く待たなくてはいけないのだ。

 

「んじゃ、今度遊ぼうなー」

「うん、また誘ってくれよな」

 

 適当に約束を交わして、俺は教室を後にした。

 靴箱に向かい、上履きのスリッパとスニーカーを履き替えてから、レインコートを羽織る。俺は自転車通学なので、向かう先は駐輪場——ではない。

 目指したのは、とある古い建築物。木造建築の質素な三階建てで、本校舎と比べるとやや小さい。

 そこは古鷹高校の旧校舎だった。

 この学校の片隅には四、五十年くらいまで使用されていた校舎が、今も取り壊されることなく残っている。どんなに古い建物にも使い道はあるようで、これ以上老朽化が進まない限り解体される予定はないそうだ。

 正面玄関から旧校舎に入る。レインコートを脱いで雫を落とすと、そばに置いてあった木製の傘立てに、なるべく邪魔にならないようにかけた。靴を隅のほうにそろえ、用意されているスリッパに履き替える。

 と、そのとき。妙な臭いが鼻を突いた。

 シンナーのような、独特の臭い。いつまでたっても嗅ぎ慣れないそれは、今年の春頃から俺の日常の一部と化している臭いでもあった。

 その臭いをたどるように、俺は玄関から一番近い教室へと向かう。古い床板は、一歩踏み出すごとに軋むような音を廊下に響かせた。

 目的の教室に到着する。扉は開いていた。

 

「入るぞー」

「もう入ってるじゃねえか」

 

 雄助はそう笑って、キャンバスに振るっていた筆を止めた。

 九条雄助。

 身長や体格は、俺とあまり変わらない。長い前髪をカチューシャやヘアピンなどで適当にかき上げている。男にしては髪を長く伸ばしているほうだが、これには特に理由なんてなくて、ただ単純に散髪を面倒臭がって放置した結果らしい。

 まだ夏服には着替えていないらしく、ワイシャツ姿だった。袖をまくり上げているそれの上に、絵の具まみれのエプロンを着ている。

 彼は俺と同じ三年生でA組に所属しており、そして親戚でもある男だ。……正確にはただの親戚ではなく、本家と分家という関係なのだが。

 俺の実家である火宮家は、いわゆる資産家の一族だ。戦前からこのあたりの地区・地域の権利や土地を管理してきた家柄であり、分家を束ねて火宮グループという企業群を運営している。

 そんな火宮の数ある分家のひとつ、九条家の長男が雄助なのだ。

 九条はほかの分家たちと比べると本家(うち)との繋がりが強いほうで、俺と彼は幼いころから何かと会う機会が多かった。そうじゃなくても雄助とはよく一緒に遊んでいたし、定期的に連絡も取り合っていた。付き合いなら誰よりも長くて深いだろう。ひと言でいえば幼馴染という関係なのかもしれない。

 そんな彼は俺にとって、気を置く必要のないひとりだといえるだろう。

 俺は後ろ手に扉を閉めると、適当な椅子に腰を下ろした。

 

「今日は何描いてるんだ?」

「花」

「ふうん。なんて花?」

「さあ。美術室にあったから適当に持ってきただけ」

 

 口を動かしながらも、雄助はキャンバスに筆を走らせ続けていた。その視線の先には花瓶に活けられた花がある。紫陽花のように小さな花びらが房状に咲いている、紫色の花だった。

 彼の目の前にあるキャンバスには、既にその紫の花が描かれていた。まるで写真のようなその絵に対して、もうこれで完成なんじゃないのかと俺は思うのだけど、雄助はさらにディティールまで描き込もうとしている。

 彼は美術部だ。しかしただの美術部員ではない。もしも文化部にもエースというものが存在したとしたらきっと雄助が選ばれることだろう……そう思えるほどに、彼はこれまで数々の賞を受賞してきたのだ。

 見たものを見たままに描く。それが雄助のスタイルだ。そのためキュビズム的な絵画より、静物画や風景画などを特に好んで描いているらしい。画材は特にこだわりがないようで、水彩、油彩、鉛筆やペンなどを気分で使い分けている。弘法筆を選ばずとはこのことだ。

 今日の気分は油絵のようで、彼はイーゼルに立てかけたキャンバスに絵の具を塗り重ねていた。そのオイル独特の臭いを吸い込みながら、俺は口を開く。

 

「雄助は、どこの美大に行くんだ?」

「ん? 進路の話か? 俺は就職組だぜ」

「えっ」

 

 予想もしていなかったその答えに、思わず声を上げる。そんな俺に、雄助は一旦筆を止めてこちらを振り向いた。

 

「芸術に進むつもりなら、そもそもこんな学校選ぶわけないだろ」

 

 古鷹高校の偏差値は公立高校の中でも平均レベルであり、部活動だって、一部の生徒が抜きん出ているだけで全体的にはそれほど盛んなほうではない。本当に、なんの変哲もない学校なのだ。だから彼の言う通り、芸術の道に進みたいのであれば、美大付属かデザイン学科のある高校に進学するというのが普通なのだろう。

 雄助はあまり自己評価の高いほうではない。彼曰く、見たものを見たままに描くというのは芸術ではなくただの技術らしい。俺なんかからしてみれば、写真のようにリアルな絵を描けるというだけで十分すごいと思うのだけど、ともかく、雄助がアートの道を選ばなかったのはそれが理由なのだそうだ。

 彼の横顔をじっと観察してみた。その表情に、諦めや悟りの色はない。それならこれ以上、俺が言うことは何もないのだろう。

 

「そういうハルはどうするんだ?」

「雄助と同じだよ。就職」

「え?」

 

 正直に答えると、今度は彼が驚きの声を上げる番だった。

 

「俺はハルのほうが進学すると思ってた」

「別に、将来の夢とかないからな」

 

 なりたい職業なんてないし、やりたい仕事もない。

 それを見つけるという名目で大学に進学することも考えたけれど、遅かれ早かれ、どうせいつかはグループの傘下に就かなくてはならないのだ。それなら、とっととその恩恵にあずかったほうがいいだろう。

 コネで就職できるほど、火宮は身内に甘くない。

 照井先生の問いに対する俺の回答だ。この言葉にはひとつの嘘が含まれている。

 それは、火宮はコネで就職できるということだ。

 火宮グループの組織形態は基本的にファミリービジネスだ。一族の人間が幹部に就き、実質的に経営を支配している。形ばかりの試験や面接はあるものの、火宮の一族に有利な人事が行われているというのは昔から変わらない。

 嫡流でこそないが、せっかく火宮本家という恵まれた環境に生まれることができたのだ。せいぜい、その幸運を利用させてもらおう。

 

「……将来の夢、か」

 

 雄助は不意にそう呟くと、何故かこちらのことをじっと見つめてくる。

 

「ハルはさ、子供のときの夢って覚えてるか」

「そんな昔の、覚えてるわけない」

「俺は覚えてる」

「どうせ画家だろ」

 

 彼は昔から絵を描くことが好きだった。結果的に芸術の道を選ばなかった雄助だけど、子供のときの彼が画家や芸術家を夢見ていても不思議ではないだろう。

 何かを言いたげにこちらを見つめていた雄助がやおらに口を開いた——がしかし、すぐにその口を閉じる。

 そのとき、旧校舎に足音が響いたからだ。

 ぎっ、ぎっ、と古い床板を鳴らしながらだんだんと近付いてくるそれに、俺たちはお互いの顔を見合わせた。用務員のおじさんだろうか。それにしては足音が軽くないか。そんなことをアイコンタクトで伝え合う。

 やがて足音は教室の前で止まる。いったい誰なのだろう、とふたりしてなんとなく扉を見つめていた。

 すると、扉の窓からこちらをうかがうように、その人物はひょっこりと顔を覗かせてくる——けれど俺たちと目が合った瞬間、ぴゃっと小さい悲鳴を上げて姿を消してしまった。

 その人物は女子生徒だった。雰囲気にどこかあどけなさを残す、素直に可愛らしいと思える顔立ちをしている少女である。

 彼女がこちらに顔を覗かせたのはほんの一瞬のことだったが、しかしその金色を認識するのに、時間なんて0.36秒あれば十分だろう。

 

「…………」

「もしかして、今のが例の?」

 

 そう訊いてきた雄助の声を無視して俺は椅子から立ち上がる。そして無言で扉に近付くと、それを一気に横に引いた。

 

「ひゃあ!」

 

 突然勢いよく開かれた扉に驚いたのか、その前にしゃがんでいた彼女はそんな声を上げる。続いて慌てて立ち上がろうとしたのだろうが、焦ったせいで細い足がもつれて、少女はそのまま尻餅をついてしまった。

 

「いたた……あ、ごめんなさいっ。邪魔するつもりはなかったんだよ」

「いや、別にいいけど……」

 

 しゅんとした表情で謝る彼女にそう言って、俺は嘆息のようなものを吐いた。

 小柄で華奢な体躯をしている少女だった。夏服の上に指定のニットベストを着ていて、スカートから伸びる細い脚は白いタイツに包まれている。廊下に座り込んでいるせいでその白に少しほこりがついてしまっていたけれど、彼女は特に気にしていない様子だった。

 特筆すべきは、やはりその金髪だろう。長く伸ばされた細い髪は、少女の仕草ひとつひとつに合わせるようにさらさらと流れている。その淡いブロンドは、古鷹高校の黒い制服によく映えていると思った。

 けれどその金色は、青空にこそ一番似合う。そのことを、俺はつい先日知ったばかりだ。

 そして今目の前にいる彼女のことも、俺は既に知っている。

 天野唯。

 それが——あの日、空から落ちてきた少女の名前だ。

もの

こと

bottom of page