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 あれは先週のこと。まだ衣替えの移行期間にもなっていない、五月の末頃のことだった。

 金髪の少女が空から落ちてきた。

 とっさのことだったので避けることもできず、俺は彼女の落下の衝撃をもろに喰らってしまう。受身すら取れなくて、そのまま少女もろとも地面に倒れ込んだ。

 倒れるときに打ちつけた後頭部が痛い。彼女と衝突した腕が痛い。よくわからないけれど腰と脚にも地味に鈍痛がある。もう全身が痛かった。

 それでも怪我らしい怪我をしなかったのは不幸中の幸いだな、と後々になってそんな感想を抱いたりした。

 自分の上に乗っかっている少女を観察してみる。彼女も痛みに少し悶えているようだったが、怪我をしているようには見えない。俺はそのことに少しだけほっとして、直後空を仰ぐように嘆息を漏らした。

 

「どこの誰だか知らないけど、なんで空から落ちてくるんだよ……」

「え……?」

 

 少女が戸惑うような声を上げる。しまった。独り言のつもりだったが、どうやら聞こえてしまったらしい。

 

「ああ、ごめん。大丈夫? 怪我してない?」

「え、あ、大丈夫……」

 

 それはよかった、と俺は笑顔を浮かべた。口調は、とりあえず『優しげな先輩』みたいなものにセッティングしてみる——このときはまだ彼女が何年生なのか知らなかったが、俺自身が最上級生ということを考えて、ひとまず間違いではないだろうと判断したのだ。

 身体を起こそうとしたこちらに気がついたのか、少女は慌てたように俺の上からどいた。俺は立ち上がって、制服についた砂をぱっぱと手で払って落とす。

 そんなこちらの様子を、彼女は何かをためらっているような、踏ん切りがつかずにいるような……そういった複雑な感情が入り混じった視線で、じっと見つめてくる。

 どうにも思考が読み切れない女子だ。そんなことを考えていると、少女はやがて決心したように口を開く。

 

「ユイ」

「え?」

「わたし、天野唯だよ」

「ん、ああ、えっと……俺は三年の火宮遥だよ。初めまして」

 

 唐突な自己紹介に少し困惑してしまったけれど、それを顔には出さないように努めながら、俺も自己紹介を返した。

 天野唯。

 彼女が名乗ったそれに対して、日本人の名前なのか、とそんな感想を抱いた。

 ロングヘアの金髪。ひと目見て天然ものだとわかるそのブロンドに、日本人離れしている顔立ち。肌は白く透き通っているし、まつ毛の色まで金色ときている。少女が外国人であることは一目瞭然だ。

 まあ、どうでもいいか。俺の親戚にはクォーターがいるし、同級生にもハーフがいるが、ふたりとも日本の名前だ。特に気にするようなことでもないだろう。

 

「ハル——ハルカ先輩、だね。初めましてっ」

 

 助けてくれてありがとう、と天野は深々と頭を下げた。

 ハルカ先輩……いきなりファーストネームで呼んでくるのかと少しだけ驚いたけれど、それも表情には出さない。そんなことより、その呼び方から彼女が下級生だということが確定したことのほうが重要だった。

 よし、どうやら方向性は間違っていなかったらしい。俺は『優しげな先輩』という表情を浮かべたまま、天野に笑いかける。

 

「気にしなくていいよ。たまたま通りがかっただけだしね。じゃあ、俺はこれで」

「あ、あのっ!」

 

 颯爽と帰ろうとする俺を、彼女は慌てたように引き止めてきた。そして、少し言葉に迷うような素振りを見せてから、やがて口を開く。

 

「——恩返し、させてほしいな」

 

 そんなわけで、それ以降……つまり先週から今日に至るまで。こんな風に、天野唯は俺のところにやってくるのだった。

 昼休みでも放課後でも、教室でも旧校舎でも、彼女は『恩返し』とやらのために俺の元を訪れてくる。昔話の鶴だってここまでつきまとってはこないだろう。

 人目を気にしない天野のおかげで、クラスメイトの大半が彼女のことを認知している。金髪の後輩女子——ちなみに二年生らしい——について回られるという悪目立ちして仕方がない現状は、平和で平穏な日常を生きたい俺にとって非常に困った問題なのだ。

 ちなみに『優しげな先輩』という仮面は早々に脱ぎ捨てている。この困った後輩を相手にするときは、ある程度素で接したほうが一番ストレスレスだと気付くのに、そう時間はかからなかった。

 

「先輩たちは、ここで何してるのかな?」

 

 そんな悩みの種こと天野唯は、こてんと小首をかしげてそう尋ねてきた。

 場所は旧校舎——旧一年D組の教室だ。雄助との自己紹介を済ませた彼女は、俺の隣にある椅子にちょこんと腰かけている。

 

「部活動だよ」

「ハルカ先輩、美術部なの?」

「いや、美術部なのは雄助。俺は見学」

「なるほどー。あれっ? でも……」

 

 天野は不思議そうに教室をぐるりと見渡した。まあ、疑問を抱くのも無理はない。

 きっと、彼女はこう思っているのだ——部活なら美術室ですればいいのに、どうして旧校舎でしているんだろう、と。

 古鷹高校の美術室は職員棟の二階にある。授業にも部活にも普通に使用されている、どこの学校にでもあるごく平凡な美術室だ。

 じゃあこの教室はいったい何なのかというと……わかりやすく言うのであれば、第二美術室、ということになるのだろうか。

 俺は美術室に訪れたことがないので知らなかったのだけれど、雄助曰く、職員棟の美術室は部活で使用するには少々手狭なのらしい。部活生の画材や作品は勿論、一般生徒の画材と作品の一部も保管しているので、狭い教室はさらに狭くなっているのだそうだ。

 そこで学校は、十数年ほど前に、使用されていない旧校舎を部活棟として使うことにしたのだ。作業スペースを広くとることができるし、画材も置ける。保管場所に悩んでいた卒業生たちの作品も収納できるようになるので、その決断は妥当と言えるだろう。

 もっとも、この教室を使っている美術部生は、今のところ雄助だけなのだけれど。

 この学校の部活動はあまり盛んではないということは既に述べたが、彼が所属している美術部もその例に漏れない。そういう事情もあって、この教室は現在、実質的に彼専用のアトリエと化しているのだ。

 

「じゃあ、ここにある絵は全部九条先輩のものなんですか?」

「まあ、そうだな。OBの作品は隣の教室だから」

「すごーい!」

 

 そんな感嘆の声を上げたかと思うと、突然、天野は椅子から立ち上がる。その目はどこかきらきらと輝いているように見えた。

 

「九条先輩、絵が上手なんですね! まるで写真みたい……どれもとっても綺麗で素敵!」

「お……おっふ……」

 

 雄助は戸惑っているような、照れているような……いや、これは絶対照れているな。可愛い女子に褒められて滅茶苦茶喜んでいるのに、それを隠そうとして隠しきれていないって顔だ。

 まあ誰だって褒められたらうれしいものだ。彼女のように素直で無邪気な言葉で絶賛されたらなおさらだろう。

 

「静物画や風景画が好きなんですか?」

 

 ふと見ると、天野は教室の後ろに移動していた。そこに並べられているキャンバスやパネルを丁寧に手に取って、彼女は雄助にそう尋ねる。

 

「動物も何枚かあるだろ?」

「えっと……あ、猫ちゃん! 猫ちゃんだ!」

 

 三毛猫が描かれたその一枚を持ち上げて、天野は笑う。その幼い子供のようなはしゃぎ方に一瞬だけ顔をほころばせて、彼は再びキャンバスに筆を走らせ始めた。

 彼女のことを雄助に紹介したとき、どうしたものかと少し思案していたのだけれど、どうやら杞憂だったらしい。天野は人見知りをしないし、彼は長男だからか年下への面倒見がいい。おかげでふたりともすぐに打ち解けることができた。

 なんとなく蚊帳の外にいるような気分になる。そんな俺に気付くこともなく——とはいえ別に混ざりたいわけではないから構わないのだが——ふたりは会話を進めていた。

 

「人物は描かないんですか?」

「んー、描かなくはないんだけど……」

 

 唐突に雄助は手を止めて、彼女のことをじっと見つめた。観察するように、上から下まで。そんな視線を向けられた天野は、きょとんと不思議そうに首をかしげる。

 しばらくして、ふむ、と彼は呟いた。

 

「天野、時間あるならちょっとモデルになってくれるか?」

「へっ? 私が?」

 

 雄助は頷いた。彼女はほんの少しだけ戸惑った様子で、何故かこちらに視線を向けてくる。

 

「い、いいのかな……?」

「いいんじゃないか?」

 

 どうして俺に訊くんだ、とは思ったものの、口には出さない。

 というか今更ながら、雄助にはちゃんと敬語を使って話しているのに俺にはタメ口なことのほうが気になった。おかしいな、俺も一応先輩のはずなのに。

 さておき、それならお願いしちゃおうかな、と天野は少しはにかむように彼の提案に頷いた。

 

「んじゃ、そこに座ってくれ」

 

 そう指示した彼に、天野は素直に従う。雄助と向かい合うように椅子を配置して、そこに腰かけた。

 彼は先ほどまで筆を走らせていたキャンバスを板張りの床に下ろして、代わりに白紙が貼られたパネルをイーゼルの上に置いた。油彩の画材も片付けてしまうと再び椅子に座り直し、雄助はそのまま紙に鉛筆を走らせていく。

 

「ハルー」

「はいはい」

 

 俺はリュックから棒つきの飴の袋を取り出すと、座っていた椅子から立ち上がって彼に近付いた。

 

「キャンディ?」

「そう」

 

 彼女の質問を肯定しつつ、俺は飴のフィルムを取る。鉛筆を動かす手を止めない雄助の口にそれを突っ込むと、サンキュ、と短い感謝の言葉が返ってきた。

 

「長時間絵を描くと頭が疲れるから、甘いものが欲しくなるんだよなあ」

「なるほどー。だからハルカ先輩はキャンディを持ってきてるんですね」

「いや、それはこいつが甘党だから飴玉常備してるってだけだな」

「余計なこと言うな」

 

 そう言って彼を睨みつけるけれど、雄助はにやにやと腹の立つ笑みを浮かべるだけだった。こいつ、久々に好みの女子を描けるから調子に乗ってやがるな。

 これ以上は何を言っても無駄そうだったので、俺は彼のことを無視することにした。代わりに、椅子の上でおとなしくモデルを務めている天野へと視線を向ける。

 

「いるか?」

「へ?」

「飴。いらないならいいけど」

「い、いるっ!」

 

 椅子から身体を乗り出してきそうな勢いで、彼女はそう言う。そのリアクションに、まるでおやつを目の前に差し出された仔犬みたいだな、なんて思いながら俺は天野に飴を手渡した。

 彼女は自分の手のひらの中にあるそれを、何故かじっと見つめていた。

 

「レモン味……」

「あ、嫌いだったか?」

 

 なんとなく似合いそうだと思ったから選んだのだが、もしかしたら苦手な味だったのかもしれない。

 交換するか? と問いかけると、しかし天野はぶんぶんと首を横に振る。

 

「これでいいの……じゃなくて、これがいいのっ!」

 

 そう言って、彼女はぎゅっと両手を握り締めた。まるで、大切なものを包み込むかのように。

 

「ありがとう。本当にうれしい」

 

 と、天野はそう顔をほころばせる。

 本当に幸せそうな、眩しいくらいに屈託のない微笑だった。

 

「…………」

 

 俺は無言で椅子に座り直して、袋から適当に取り出した飴を口に含む。林檎味だった。

 

「あ、ハルー」

「ん?」

「辞典貸してくれ、国語辞典。明日の現国でいるんだけど、俺のは今弟が持ってるんだよ」

「別にいいけど、何限?」

「四限」

「じゃあ昼休みに返してくれよ。うち五限英語だから」

「英語? 国語辞典なのに?」

「俺の電子だから」

 

 あーね、と雄助は納得したように頷いた。

 それから俺たちはとりとめのない雑談を交わした。俺が話して、雄助が喋って、天野が相槌を打つ。彼女は女子のわりにあまり喋りたがりなほうではないようで、むしろ聞き上手なやつだった。どんなたわいのない話題でも受け止めるし、楽しそうに笑っている。

 この教室はいつも俺と雄助のふたりだけだった。そんな空間に俺たち以外の声が入り込んで、会話をしているというのは、なんとなく不思議な気分になってしまう。

 けれど、それを不快には思わない。やかましいとも思わない。天野の笑う声はむしろ、雨の音に自然に溶けるかのように、耳に心地いいとさえ感じられた。

 だから……たまにはこういうのも悪くない、なんて、そんなことを思ったりもした。ほんの少しだけ。

 一時間後。彼は唐突に手を止めると、ぐっと背筋を伸ばした。ぺきぺきこきこき、と背骨の関節の鳴る音が響く。どうやら集中力が切れたらしい。

 

「今日はここまでか?」

「そうだなー」

 

 俺の言葉に頷いた雄助は椅子から立ち上がって軽くストレッチをすると、前髪を上げておくために使っていたカチューシャ類をおもむろに取り外した。必然、前髪は重力に従って落ち、彼の目元を隠すことになる。よく視力を悪くしないな、と俺は半ば呆れながらも感心を覚えた。

 雄助は最後にぐっと背伸びをして、そしてあらためて彼女に向き直る。

 

「付き合ってくれてありがとな。放課後暇だったら、またここに来てくれ」

「お役に立てたら何よりです」

 

 えへへ、と天野はやはりはにかむように、ほんの少しだけ頬を赤らめて笑う。けれど、すぐに困ったような表情を浮かべて、こちらに視線を向けてきた。

 

「わたし、またここに来てもいいのかな?」

「え?」

「ハルカ先輩、わたしがいて迷惑じゃない?」

 

 彼女はこちらの顔色をうかがうように、上目遣いでじっと見つめてくる。ほんの少しだけ気まずそうに眉を下げているけれど、それでも唇には変わらず微笑みをたたえていた。

 俺は少し驚いた。その驚きを顔に出さないようにして、思わず口にしかけた言葉も飲み込む。

 それから、少しだけ言葉に迷って、

 

「……お前の好きにしたらいいんじゃないか」

 

 と言った。答えになっていない曖昧な回答になってしまったと、自分でもわかっている。

 それでも天野は、ぱあっと顔を明るくして、

 

「うん! 好きにするねっ!」

 

 と、満面の笑みを向けてくる。天真爛漫という言葉がよく似合いそうな笑顔だった。

 画材やイーゼルを片付け、扉や窓の戸締りを済ませてから俺たちは教室を後にした。玄関に移動して、雄助と天野はそれぞれの傘を手に取り、俺はレインコートを羽織る。

 玄関口で彼女が傘を開いた。藍色の、男物の傘。たぶん父親のものなのだろう。小柄な体格の天野にはやや大きすぎるそれを、彼女はやはり少し重たそうにふらふらと持ち上げる。

 

「あ、そのレインコートってハルカ先輩のだったんだね。傘は嫌いなの?」

「チャリ通なんだよ。そういうお前は家が近所なのか?」

「わたしの家は葛城だよ。バスで通学してるの」

「ふうん」

 

 葛城というのは古鷹の隣町のことだ。そこに住んでいてバス通学ということは、たぶん、あんずと同じ路線のバスを使っているのだろう。

 そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか本校舎が目の前にあった。

 

「じゃあ、俺は職員室に鍵返してくるから、お前ら先に帰っていいぞ」

「わかった。じゃ、また明日」

「はーい。九条先輩、ありがとうございますっ」

 

 彼のアトリエ……もとい、旧一年D組の鍵を手のひらでくるくると回しながらそう言った雄助に、俺と天野はそれぞれ別れと感謝の言葉を返した。

 

「あ、ちょっと待て。天野に言っとかなきゃなことがあったんだ」

「わたしに? なんですか?」

「A組の教室には近付くな」

 

 言いながら、彼は自分の後方を親指で示す。その指の先にあるのは本校舎の生徒棟ではなく、俺たちが先ほど後にしたばかりの旧校舎のほうだった。

 言葉の意図を理解しかねているのか、彼女はその忠告にきょとんと首をかしげた。

 

「どうしてですか?」

「どうしても、だ」

 

 天野はますます不思議そうな表情になったものの、最終的には、わかりました、と素直に頷いた。

 彼と別れた俺は、その足で駐輪場へと向かう。当たり前のように天野もついてきた。まあ、校門までの道筋の途中に駐輪場があるので仕方がないだろう。

 自転車を駐輪場から出して、ハンドルを押しながら徒歩で裏門へと向かう。俺の通学路は正門側なのだが、逆方向に向かっているのは後ろをついてくる彼女を最寄りのバス停まで送ってやるためだ。先輩として、それくらいの甲斐性は見せてやっても損はないだろう。

 

「そういえば気になってたんだけど、お前、なんで空から落ちてきたんだ?」

「へ? なんのことかな?」

「だから、初めて会ったときのことだよ」

 

 人のことをクッションにしやがって、と思わず言いかけたけれど、さすがにそれは少し意地が悪すぎる気がしたので口をつぐむことにした。

 こちらの質問に対して天野は、んん、と声を漏らして、記憶を探るように指を唇に当てる。そしてしばらくしてから、ぽつりと呟いた。

 

「————ねこ」

「は? 猫?」

「うん、猫。木から降りられなくなった仔猫さんがいてね、助けようとしたんだよ。でも足を踏み外しちゃったのかな」

「……またベタだな」

 

 そんなことを話していたら、いつの間にかくだんのバス停に到着していた。その停留所には屋根もベンチもなくて、田舎町らしいな、と俺は適当な感想を抱く。

 

「じゃあ、気をつけて帰れよ」

「あ、ハル——」

「ん?」

 

 自転車のサドルに跨ろうとしたとき、彼女に名前を呼ばれたような気がして俺は振り向いた。

 

「なんだ?」

「えっと……」

 

 天野は少し考え込むように、言葉に迷うような素振りを見せて、それから

 

「……ううん。やっぱりいいかな」

 

 と、言った。

 変なやつだ。まあ俺なんかに付きまとう時点で変なやつだとわかってはいたけれど。

 

「じゃあ、また明日」

「うん……うん、また明日。また明日ね!」

 

 彼女は傘を持っていないほうの手を大きく振りながら、そう笑う。俺は軽く手を振ってそれに応えて、天野に背中を向けてペダルを漕ぎ始めた。

 雨の中、自転車のペダルを踏む。そうしながら、俺は先ほど教室で交わしたある会話を思い出していた。

 ——わたしがいて、迷惑じゃない?

 そんなことを訊いてきた、彼女の言葉を。

 俺は少し驚いた。天野がそんな質問をしてきたことに、ではない。その質問に対して、迷惑だと思ったことはないと反射的に答えようとしたことに——何より、彼女の存在を迷惑と思っていない自分自身に、俺は驚いたのだ。

 天野のことを考えると頭が痛いし、最近の悩みの種だと思っているのも本心だけれど、しかし同時に、迷惑だと思ったことがないというのも、確かに俺の本音だった。

 それは——と、思考を続けようとしたとき、

 

「…………、っ」

 

 唐突に、頭に痛みが走って、とっさに自転車を止めた。

 慣用句的な意味で頭を痛めてはいたけれど、どうやら本当に頭痛がしてきたらしい。これだから低気圧が続く梅雨の季節は好きではないのだ。

 とっとと帰ろう。そう思って、雨の降り続く中再びペダルを漕いだ。

 おかえりと言ってくれる人もいない、あの場所に帰るために。

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